2024年12月19日木曜日

ほんとうに、これ! まるでちがう状態になるのに、わかってないなぁ

 ほんとうに、これ! まるでちがう状態になるのに、わかってないなぁ。人間なんて、条件次第で、ぜんぜんちがう状態になるんだよ。毎日のつみかさねは、でかいんだよ。毎日続いたことが、現在の状態に、影響をあたえるんだよ。なんでこんなに基本的なことを、無視して、「わかったようなこと」を言うのか? ぜんぜん、わかってないだろ。

これは、セットなんだよ。

だいたい二四時間以内に、七時間は、きちがい的なヘビメタが激しい音でがんがん鳴っているという生活なのである。土曜日曜は、最長で一三時間に増えてしまう。どうしたって、影響をうける。けど、影響をうけてない人にとっては、影響なんて関係がないことだ。だから、「影響なんてない」「関係ない」と言う。あるいは、「影響なんてない」「関係ない」という前提が成り立っていることを、えらそうに、言う。本人は、ほんとうに、影響をうけてないので、ほんとうに「影響なんてない」「関係ない」と思い込んでいるのだ。そして、きちがいヘビメタ騒音にさらされると、自動的に立場が悪くなるのである。能力がさがるのである。できていたことができなくなるのである。二四時間以内に、七時間、ぼくがきらいな音ががんがん鳴っているとなると、実際に、能力がさがって、鳴っていないからこそ、影響をうけずに「影響なんてない」「関係ない」という前提でものを言えるやつらに、えらそうなことを言われるということになるのである。これは、セットなんだよ。どっちも、きちがいヘビメタ騒音から出てきたことなんだよ。きちがいヘビメタ騒音ではなくても、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音ということを考えれば、こいつらだって、影響をうける。立場が悪くなって、能力がさがる。鳴ってなければできることができなくなる。けど、こいつらは、経験的にこれがわからない。「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けたということになってしまうのである。ほとんどのやつがこういう思考をするなら、ぼくにとって生きにくい世界になるんだよ。実際に、能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがるということを、認めないやつらが発生する。こいつらにバカにされるということになる。だから、「やめろ、やめろ」と言っているのに、きちがい兄貴がきちがいだから、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、やるんだよ。やられてないよそのうちの人は、わからない。自分の経験の範囲にないことだからわからない。

きちがいヘビメタが鳴らされる前と後ではちがうんだよ。きちがいヘビメタがはじまってからと、きちがいヘビメタがはじまるまえはちがうんだよ。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの世界で生きている。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの感覚で生きている。だから、実際にうちの兄貴がもたらした、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない。経験してなければ、なんとだって言える。自分たちがエイリよりすぐれているから、「無視できる」「影響をうけない」と考えているのだけど、ちがうーー。ちがうーー。わかってないだけ。

そして、きちがいヘビメタ騒音生活以前と、きちがいヘビメタ騒音生活以降では、憂鬱の憂鬱がちがうのである。疲労の疲労がちがうのである。みんな、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人だから、ぼくとみんなでは「憂鬱」という言葉や「疲労」という言葉で、あらわしているものがちがう。けど、ちがいがわからないんだよ。きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人たちには、きちがいヘビメタ騒音生活以前の「憂鬱」やきちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活以前の「疲労」しかない。だから、比較はできない。比較できるのはぼくだけだ。けど、ともかく、普通の人は、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音以前の生活をしている。だから、わからない。根本的にわからない。「憂鬱」という言葉であらわしているものが、(ぼく)と(普通の人)とでは、ちがう。ちがいすぎる。まったく、ちがう。ほんとうに、なめたことを言いやがって。こんなやつら……。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、絶対にそんなことは、言わせない。言わせない。言わせない。

2024年12月18日水曜日

問題なのは、自分の認知・認識に問題がないと思っていることなのだ

 自分が階段から落ちて、足を骨折した場合は、階段から落ちたという過去の出来事が、影響をあたえて、骨折したという認知・認識が成り立つのだ。そして、足を骨折したあと、1秒後には、足の骨が折れている状態なのだ。

これは、骨折したという過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえているということだ。

だから、本人の身に起こったことについては、「過去が現在に影響をあたえる」とか「過去の出来事が現在の状態に影響をあたえている」とかと思っているわけだ。「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と思っているわけではない。

自分のことなら、この通り、過去を重視した考え方を採用しているのである。

けど、ひとごとになれば、話がちがう。「過去は関係がない」と言い「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と言ってしまう。

問題なのは、自分の認知・認識に問題がないと思っていることなのだ。ようするに、矛盾を感じていない。矛盾を感じるべきだ。

「それから、ヘビメタ騒音の話を俺がだれかにしたとする。そのだれかが「過去は関係がない」「過去の出来事は現在に影響をあたえない」と言ったとする。

そして、宣言によっていくらでも自分の状態をかえられると言ったとする。ようするに、言えば言ったことが現実化するので、言えば、現実がかわるのである。言っただけで、現実がかわるのである。そういうふうに思っているからそういうふうに言ったとする。

そして、ぼくが、「過去は関係がある」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえる」と言ったとする。そうすると、こういうやつらは、不機嫌になるのだ。

しかも、こういうやつらは、普段から「すべては受け止め方の問題だ」とか「 すべてに感謝すればいい」というようなことを言っているやつらだ。

それなら、「いい話を聞いた」と思えばいいだろ。「自分の間違いを指摘してくれありがとう」と感謝すればいいだろ。ところが、「いい話を聞いた」と思わずに、「なんだ、あいつは」とおこるのだ。「せっかく、元気づけてやろうと思って、言えば言ったことが現実化すると言ってやったのに、批判をするとはなにごとだ」と腹をたてるのだ。

宣言でいくらでも自分の状態をかえることができるのだから、腹だたしい気持ちになったら、即座に「楽しい」と宣言して、楽しくなればいいだろ。

ところが、こいつらは「なんだ、あいつは……」としばらくのあいだ、腹をたてたままなのである。この腹をたてたときの感情が、続くことがある。

ぼくに対して、いい感じをいだかなくなるのだ。

だったら、過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえているということになる。

こんなやつらといっしょにいて、こころがなごむわけがないのだ。

 たとえば、きちがいヘビメタをあびされ続けて、三〇〇〇日が経過したとする。三〇〇〇日目の気分は、ひどい。憂鬱だ。三〇〇〇日目も、二九九九日目の午後と三〇〇〇日目の午前の睡眠不足がこたえる。これ、きちがいヘビメタを、あの至近距離で鳴らされると、どうしても、不可避的に影響をうけて、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れないということになる。ヘビメタ騒音は、だいたい午後一一時一一分あたりには鳴りやむのだけど、午後一一時一二分になれば眠れるかというと、眠れないのである。けど、騒音に、ぶったたかれ続けて、からだがはれあがったような状態になっているのである。副交感神経が優位にならないのである。どうしても眠れないのである。ところが、宣言をすればそんな問題は簡単に解決できると言うやつは、「眠れる」と言えば眠れるということを言う。「眠たい」と言えば、眠れるということを言う。そして、自分が眠るべき時間に眠らないのは、だらしがないことだというのである。そして、さらに、自分が眠るべき時間に眠らないのは、あまえだと言いやがるのである。こいつらが、きちがい騒音を発狂的な意地で鳴らす、きちがい的な家族といっしょに暮らしてないから、騒音を浴びせられず、副交感神経が優位にならない状態を経験してないだけなのに、「宣言をすればできる」という前提で、無理なことを言ってくる。けど、こいつらは、夜郎自大な性格なので、無理なことを言っているという自覚がないのだ。だから、別に、失礼なことを言っているという自覚もない。こんなやつらといっしょにいて、楽しいわけがないだろ。こんなやつらといっしょにいて、こころがなごむわけがないのだ。


ところが、この矛盾に気がつかないのである。

 人には「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」「影響はない」と言っているけど、自分が実際につかれることを経験すると、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」という前提で、ものを考えるやつがいる。やつらがいる。しかも、自分がそういう前提でものを考えているということについて、無頓着なのである。たとえば、長距離通勤をしたとしよう。その場合、当然、からだは長距離通勤の影響をうける。しかも、長期間にわたって、その行為を繰り返すのであれば、その行為を繰り返してきたということの影響を「不可避的に」うける。たとえば、長距離通勤一日目と、長距離通勤十五年と一日目とでは、つかれ方がちがうのである。これは、「過去の出来事は影響がある」「過去の出来事は現在の身体に影響をあたえる」ということなのである。ところが、人のことは、自分のことではないので、わからなくなってしまう。人のことは、自分が経験したことではないので、昂然と無視できる。「ない」とあつかうことができる。「ない」とあつかうことがデフォルトだ。だから、エイリの騒音体験が、自分の騒音体験ではないのなら、「騒音の影響なんてない」「過去の出来事は関係がない」と言ってしまうのである。そして、自分が、実際に長距離通勤でつかれたときは、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」という前提をもとにして「つかれた」と言うのである。これ、思考の前提は、「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」「影響はない」ではなくて、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」になってなければならないのである。そうしないと、言っていることと前提が矛盾しているということになる。ところが、この矛盾に気がつかないのである。まったくもって、夜郎自大。自己中心的。しかも、本人の身に起こったことに関する思考と、他人の身に起こったことに関する思考が「まったくちがう」ということに、気がついていない。思考の前提がちがうんだよ。思考の前提がまったくちがうということについて、まったく、まったく、気がついていない。自分のことであれば、ごく普通に過去の出来事について考え、「過去の出来事」の影響について考えるのである。もちろん、つかれることが毎日続いたのであれば、過去の出来事は、現在の身体状態に影響をあたえると考えているのである。ところが、ひとごとだと、過去の出来事は現在の身体状態に影響をあたえないと言ってしまのである。相手のまえで、断言してしまうのである。このとき、ぼくが「過去は現在の状態に影響をあたえる」と言ったって、こいつらは、まったく、まったく、認めない。こういうことが、普通に成り立っているのが、この世だ。

「Bだと思いたい自分がいる」ということは、自分自身が知っていることなのである

 実際の気分というのは、宣言でできあがっているものではない。宣言というのは、たとえば、「楽しい」というような宣言だ。実際の気分というのは、出来事と関係がある。実際に発生した出来事と関係がある。実際に発生した出来事によって、ある感情Aが生じているなら、ある感情Aが生じているということになる。ある感情Aが生じているときに、ある感情Bを感じるべきだからといって「Bだと感じている」と言ったって、それは、作為によって、自分の感情を書き換えようとしているだけで、あいかわらず、実際の出来事に対応した感情のままなのである。しかも、「Bだと感じている」と実際の文脈とは、まったく正反対の感情を感じようとしているという作為があるということを、本人が知っているのである。無意識的にも、意識的にも知っている。ならば、自己意識としては、ほんとうは、Aを感じているけど、Bと感じるべきだから「Bだ」と言っているという自己意識をもつことになる。自分がそういう監査をしているのだから、なんで、「Bだと感じている」と言っているかということを知っているのである。中立的な状態なら、「Bだと感じよう」と思って「Bだ」と言えば「Bのような気分がしてくる」ということはある。けど、それは、中立的な状態でやった場合の話だ。どんな状態だって、「Bだと感じよう」と思って「Bだ」と言ったって、「Bだ」とは思わないのである。つまり「Bだと感じよう」と思って「自分はBだと感じている」と言ったって、「Bだ」と感じないのである。自分はBだと感じていると言ったって、その状態に関する全体的な思考があるのだから、「Bだと思いたい自分がいる」ということは、自分自身が知っていることなのである。

2024年12月16日月曜日

ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいだから、ぼくの行動にも影響をあたえる

 ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいだから、ぼくの行動にも影響をあたえる。つねに、ヘビメタ騒音のことで、煮えたぎっている状態だ。そりゃ、七年目にはそうなるだろう。七年間毎日鳴り続けなければ、こんなことになっていないということが、いっぱい、いっぱいあった。東側のうちができたときだって、工事のときだって、きちがいヘビメタが鳴っていた。両方にはさまれて、くるしかった。ちょうど、大学受験の時期だ、言い切れない怒りがたまりまくる。人間の「我慢の許容量」には限界がある。きちがい兄貴は「まったくなにもやってないつもり」なのだけど、毎日、毎日、十年年間つもって、くるしかったよ。東側の人に対する感情だって、きちがいヘビメタがなかったら、ちがっていた。北側の人との関係だって、ヘビメタ騒音がなければ、ちがっていた。きちがいヘビメタを鳴らされると、どうしても、生彩を欠いたものになる。履歴が悪くなる。働けないからだになる。どうやっても、睡眠回路がもとにもどらないので、人から、誤解をされることが多かった。

ヘビメタ騒音が毎日、十数年間、つみかさなっていくと、ぼくの側の、まわりの人に対する感情がかわってしまうのである。また、まわりの人がぼくを見る目もかわってしまう。属性や履歴が影響をあたえる。ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさならかなった場合のぼくと、まわりの人との関係と、ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさなった場合のぼくと、まわりの人のとの関係は、ちがいすぎる。そんなのは、ぼくのほうしか気にしない。ほかのやつは、ちゃんとした理由があると思っている。たとえば、無職に対して偏見があるやつは、無職に対する偏見を、ヘビメタ騒音があったぼくにむけるのだけど、それは、別に悪いことではないのである。そいつにとっては、別に悪いことではないのである。ぼくにとっては、腹立たしいことなのである。おなじことが、いろいろなことに成り立つ。裏にまわって悪口大会をする人たちは、別にそれが悪いことだと思ってないのである。どうしてなら、エイリが嘘をつくような人間だから、そういうふうに言ったって、まったく問題がないと考えているのだ。もちろん、ぼくは、ヘビメタ騒音やきちがい兄貴の態度について、嘘を言ってない。けど、そいつらは、ぼくが嘘を言っていると思っているわけだから、ぼくの悪口を言ったって、悪いとは思わないのだ。

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それから、言霊主義者には絶対にわからないと思うけど、「できると言えばできる」と言われたときの、こっち側の感情がひどいのだ。むなくそわるい気分になる。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音が毎日つみかさなっていたからだ。まったくやっているつもりがないきちがい兄貴が、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、自分が満足できる音で、しつこく、しつこく、しつこく、しつこく、鳴らし続けたからだ。この間、できると言ってもできなかったのである。「きちがい兄貴が一秒以内にヘビメタをやめてくれる」とか「一秒以内に鳴りやむ」とかと言っても、鳴りやまなかったのである。ただの一度も、言った通りになったことがないのである。だったら、それは、もう、嘘だと証明されているようなものなのである。

ある条件のなかには、「うちのなかでやること」という条件もある

  きちがい兄貴のことも、きちがい親父のことも、つぎからつぎへと、不愉快なことがおおいかぶさるように発生する。あいつらは、知らんぷりだ。知らんぷりで、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、よそのうちではありえないような、きちがい行為を、する。絶対の意地でする。きちがい感覚が成り立っているから、他の人にはわからない。脳みそがおかしいから、自分が意地をはって、猛烈ないきおいで、きちがい行為をしているということを、否定してしまう。だったら、やめてくれればいいのだけど、きちがい的な意地でやってしまうことと、やったことをきちがい的な意地で否定してしまうことが、セットなんだ。ひとつのセットなんだよ。おなじ構造から出てきていることなんだよ。きちがい的な意地でやりきることと、きちがい的な意地でやりきったことを否定することが、セットなんだよ。だから、きちがい行為を、まるで気にしないでやり続けることができる。脳みそがそういう脳みそだから、ある条件が成り立つと、常にそうするんだよ。これも、よその人が、まったくわかってないことなんだよな。ある条件のなかには、「うちのなかでやること」という条件もある。これが、無意識的に影響をあたえている。きちがい的な意地でやることは、きちがい的な意地でやるけど、きちがい的な意地でやったということを「認めない」のである。認めないことまで含めて、一セットなんだよ。

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親父のネズミ事件だって、きちがい親父が、きちがい的な意地で、魚の粕漬を、ほぼ、一日中、だしっぱなしにするというところから始まった。起点は、そこなんだよ。まあ、もっとも、こっちがたのんでないのに、お勝手のゴミを、毎日、物置のゴミ袋に移動するということが、本来の起点なんだけどな。これで、物置に、ネズミをおびき寄せていた。問題なのは、勝手に思いついたことを、こっちが、修正できないということだ。親父が普通の人だったら、「くさいから、魚の粕漬を出さないでくれ。冷蔵庫にしまってくれ」とこっちが言えば、それで、すむんだよ。ところがすまないわけ。そして、お勝手のゴミ袋に入ってるゴミを、わざわざ、物置に置いてあるごみ袋に移動するということだって、きちがい親父が勝手に思いついたことなんだぞ。そして、俺が何回も何回も何回も、「そんなことはやらなくていい」と言っていることなんだぞ。ひとこと「それはやらなくてもいい」と言ったら、引きさがれ。ひとこと「それは、やらなくてもいいからやらないでくれ」とこっちが言ったら、親父が「ああ、そうか」と認めて、やらないようにしてくれれば、それですむことなんだぞ。けど、絶対の意地でやってしまうことなんだよ。そして、これが、きちがい親父のなかでは、「俺のためになること」なのである。きちがい親父のなかでは、お勝手のゴミ袋に俺がいれたゴミを、親父が物置のゴミ袋に移動してやると、俺がよろこぶと思っているのだ。それを、俺がどれだけ何回、何十回否定しても、きちがい親父のなかでは、ずっとそういうことになっていて、自分がやってやれば、俺(エイリ)がよろこぶという考えが、消えないんだよ。こんまけして、ゆるしてしまうと、かならず、いやな目にあうんだよ。家のなかにネズミが入ってくることの導火線になるなんて、思いつきもしないだろ。そんなのは、考えてないことなんだよ。明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」などと言っている人がいるけど、うちではちがう。暗いことを考えなくても、きちがいが、きちがい行為をして、暗いことが発生してしまうのである。おまえら、説明できないだろ。どうして、暗いことを考えてないのに、暗いことが発生するんだよ? おかしいだろ。この、きちがい親父がかかわると、かならず悪いことが発生するというのは、事実なのである。俺の妄想じゃないのである。よその人が、やらないことなんだよ。よその人がやらないのには、それなりに理由があるんだよ。きちがい親父が、お勝手をきれいにしてやったほうが、俺がよろこぶだろうときちがいてなことを思いついてしまうことが、ダメなんだよ。普通だったら、「やめてくれ」とか「やらなくていい」とかとひとこと言えば、それで解決してしまう問題なんだ。ところが、ネズミの侵入、ネズミの糞、ダニの大発生、ネズミ対策工事のトラブルと、いろいろなことが発生してしまう。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音も、普通の人がやらないことなんだよ。きちがい兄貴が追い付いちゃったら絶対にやることなんだよ。そして、こっちが、どれだけ「うるさい」と言っても、「うるさい音で鳴らしている」という根本的なことを認めないんだよ。だから、よそのうちではない、非常識なことになるんだよ。よその人は、そういう家族といっしょに住んでいないし、そういう家族が実際にやることで、こまったということがないんだよ。だから、昨日書いたように、いろいろな誤解をすることになるんだよ。耳が正常なら、絶対に「でかい音で鳴らしている」ということがわかるのに、きちがい兄貴の脳みそが、きちがいおやじ型の脳みそだから、絶対の意地で認めないのである。そして、絶対の意地で認めないということも、無視してしまうのである。本人が無視していたら、どれだけきちがい的な意地でやったことでも、やってないことになってしまうんだよ。

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兄貴は別に、俺のために、ヘビメタを鳴らしてやろうと思って、ヘビメタを鳴らしたわけではないよ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴のなかの理由で、ヘビメタを鳴らしたくなったから鳴らした。けど、やり方が、おかしい。ほんとうに、うちでなければならせないような音で鳴らした。ようするに、うちでなければならないようなでかい音で鳴らすことに、いのちがかかっていたのである。きちがい親父がへんなことを思いつくのとおなじで、きちがい兄貴は、(よそのうちの人がやらないような)へんなことを思いつくのである。それが、「思いっきり」「なにを言われようが、気にしないで」きちがいヘビメタを「満足できる音」で鳴らすことだった。だから、自分が「満足できる音」で鳴らした。しずかにするわけがないのである。しずかにしたら「満足できない音」になってしまう。

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きちがい兄貴がでかい音でヘビメタを鳴らし続けたということを(ほかの人に)説明するわけだけど、音のでかさと時間の長さと期間の長さについて説明すると、俺の説明を信じない人が三割ぐらいは、いる。

この人たちは、俺のことを、性格に問題がある嘘つきだと断定してしまう。これだって……こういうことだって、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、「でかい音で鳴らしている」ということを無視して鳴らさなかったら、しょうじなかったことなんだよ。兄貴の感覚のズレが、他の人にはわからない。

だから、俺が嘘を言っているということになってしまうのである。……俺の説明を信じない人のなかでは、俺が嘘を言ったということになってしまうのである。

どうして嘘を言ったかというと、その人たちの頭のなかでは……エイリに性格の問題があるから、嘘を言っているということになってしまうのである。

そして、エイリの兄は、ほんとうはそういうでかい音で、ヘビメタを鳴らしてないということになるので、ヘビメタ騒音からしょうじた(僕の側の)問題は、エイリがもともと持っている問題だということになってしまうのである。

たとえば、遅刻をするとか、宿題をしないということだ。これは、きちがいヘビメタが長時間鳴っているから、しょうじていることなんだよ。

そして、この人たちの頭のなかでは……ヘビメタ騒音はほんとうはそんなにでかい音で鳴ってないということになっているので……エイリがお兄さんのせいにしているということになってしまうのである。

お兄さんは、ほんとうはやってないのだから、エイリが、ほんとうはやってないお兄さんのせいにしているということになってしまうのである。

こんなの……。こんなの、悪意を持った人しか考えつかないことだ。けど、普通の人が、こういうふうに考えてしまうのである。約三割と書いたけど、ほんとうは、約四割の人だ。

きちがい兄貴のほうに、他の人たちが信じられないようなずれがあると、他の人は、必然的に、理論的に誤解をするのである。こんな現実が、おもしろいわけがないだろ。こういう人たちといっしょにいて、おもしろいはずがないだろ。

けど、こういう人たちのまえで、うかない顔をしていると、うかない顔をしているのは、エイリの「こころの問題」だということになってしまうのである。

もともと、ヘビメタが鳴っているから、不愉快な顔にはなる。そりゃ、そうだろ。あたりまえのように、自分の勉強時間が破壊されているんだぞ。きちがいヘビメタが鳴っていたら、宿題のような簡単な勉強だってできない。きちがい兄貴にどれだけ言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父のように、まったく理解しない状態で鳴らしているんだぞ。腹がたつだろ。腹がたった顔になるだろ。鳴らされているあいだ腹がたっているのだから、腹がたっている顔になるだろ。そして、鳴らされているさいちゅう……次の日のトラブルが予想できるのだから……不安になるだろ。そして、また、腹がたつだろ。そして、きちがい兄貴に、「宿題をするからやめろ」「しずかにしろ」と何十回、言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のくそ頭を搭載していて、きちがい兄貴のくそ頭の命令に従って、「自分の満足できる音」で鳴らしているので、やめない。腹がたつだろ。

何度も言うけど、俺が、こういう暗いことを考えたから、きちがい兄貴がヘビメタを、きちがいおやじがほかのことでやるのとおなじやり方で、やりはじめたわけではないのである。なので、思霊の人たちは、ぼくのことを、不必要にディスっていることになる。なんで、まちがった原因を考えて、勝手に断罪して、勝手に、エイリのせいにするのだ。どうして「エイリがヘビメタが鳴るという暗いことを考えたから、暗いことが現実化した」と考えるのだ。こんなのはおかしい。勝手に、へんな理由を考えて、断罪し、俺のせいにしてしまうのである。人のせいにしているのは、思霊の人たちだ。

そして、「そんな音で鳴っているはずがない」と思う人たちだって、勝手に俺を嘘つきにしたてあげて、勝手にきらいになって、勝手に攻撃をしはじめる。いろいろと、言葉で、攻撃しているよ。それは、「そんな音で鳴っているはずがない」ということが、真実なら、(その人たちのレベルで)あたりまえのことなのだろうけど、「そんな音で鳴っているはずがない」ということが、真実ではないので、的外れな攻撃だということになる。的外れな攻撃なら、よいのかというと、よくない。的外れな攻撃でも、俺にあたってないわけではなくて、俺にあたっている。原因についての思考が的外れなのだ。バカだから勝手に、推測して、事実だと断定してしまうのである。こういう要素がある。きちがい的な家族がやることは、きちがい的なことだから、ある意味、普通の人が信じないことなのである。だから、きちがい的な家族にやられた人が、普通の人から、攻撃されることになる。言葉の攻撃だけど、誤解がかかわっているぶんだけ、こたえるのである。きちがい家族にやられ、普通の人から誤解の攻撃をうけるわけだから、たまったもんじゃない。

2024年12月14日土曜日

そして、「うち」のなかで、起こっていること全体について、誤解をしている。

 きちがい兄貴の認識にずれがあるわけだけど、きちがい兄貴の認識にずれがあるということは、きちがい兄貴は、自分が気にせず、ものすごくでかい音で鳴らしたいと思っている限り、催眠術にかかったように、気がつかないのである。

いっぽう、無意識に問題がある家族と、いっしょに暮らしたことがない人は、ぼくの話を、信じないのである。無意識に問題がある家族といっしょに暮らしたことがない人にとっては、「そんなのは、言えばわかることなのだから、ちゃんと言えばいい」ということになってしまう。

ところが、きちがい兄貴にどれだけちゃんと言っても、ズレがあるので、認めないのである。まったくつたわらないのである。何万回言っても、つたわらないまま、問題となる行為をしてしまうのである。

そして、きちがい兄貴のほかに、きちがい親父がいるということが、どういう影響をあたえるか、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、これまた、わからない。

だから、ここでもまた、誤解がしょうじるのである。

けど、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、ここでも、自分のほうが誤解をしているとは、思わないのである。「そんなのはへんだから嘘だ」と思ってしまうのである。

「そんなにでかい音で鳴らしているのに、家族が、文句を言わないのはおかしい」と思ってしまうのである。

きちがい親父の構造は、きちがい兄貴の構造よりも、一般人にしてみれば「へんな構造」なので、きちがい兄貴の構造すら、理解できない人が、きちがい親父の構造を理解できるとは思えない。

「そんなのはへんだ」「そんなのはへんだから、エイリが嘘を言っている」と思っている人は、ぼくのことを誤解している。そして、「うち」のなかで、起こっていること全体について、誤解をしている。

「そんなにでかい音で鳴ってない」「エイリが嘘を言っているだけだ」と思う人は、ぼくが嘘を言う人間だと思っている。そして、もし、嘘でなく、ほんとうに、でかい音で鳴らしていると思っているのであれば、エイリは精神病だと思うのである。

どうしてかというと、エイリのお兄さんは、でかい音で鳴らしてないということが、事実だと思っているので、お兄さんがでかい音で鳴らしてないのに、エイリが「兄貴がでかい音で鳴らしてこまる」と言うのであれば、エイリのほうの現実認識がまちがっているということになってしまうのである。

もちろん、ぼくの現実認識はまちがっていない。

けど、「エイリが嘘をついている」と思っている人は、そういうふうに推測してしまう。兄貴の、「ズレ」が、ぼくのほうの「ズレ」だと(うたがっている人は)思うわけだ。

きちがい兄貴が、現実世界で、「ズレ」があることをしているのだけど、「そんなことはない」「えいりのお兄さんは、そんな音で鳴らしてない」と考えている人にとっては、ぼくが、ズレをもっているということになってしまう。そして、嘘つきか、精神病の人か、なんとか障害の人になってしまうのである。

そして、これがやっかいなことなのだけど、ヘビメタ騒音で、通勤通学ができなくなって、社会から取り残され、友だちとも疎遠になると、引きこもりと呼ばれる状態になる。

たとえば、ぼくが、引きこもりであると思っていて、なおかつ、引きこもりに悪いイメージをもっている人は、「エイリは、引きこもりだから、お兄さんがでかい音で鳴らしていたという嘘をついている」と考えてしまう。

あるいは、「引きこもりだから、なんらかの精神病を患っていて、それで、現実認識がおかしくなり、お兄さんが、ものすごくでかい音で鳴らしていると言っている」と考えてしまうのだ。

無職属性でもおなじことが起こる。きちがいヘビメタで、働けなくなったのに、無職だから、嘘を言っていると思われたり、無職だから、精神病を患っていて、お兄さんを悪く言っていると思われたりするのだ。

あとは、悪口を言っているということに関しても、ちょっと言っておく。この人たちの頭のなかでは、エイリのお兄さんはでかい音で鳴らしてないということになっている。

そうなると、でかい音で鳴らしてないお兄さんの悪口を、エイリが言っているということになってしまうのである。この人たちの頭のなかでは……。

きちがい兄貴が、無意識的なレベルで、まちがいをおかし、自分のやりたいことをやってしまうと、次々にこういうことが起こるのだ。

無意識的なレベルで音量の認知を書き換えないと鳴らすことがができないようなでかい音で鳴らしたいので、無意識的なレベルで音量の認知を書き換えて、でかい音で鳴らしてしまうのである。

その場合、そういうことをする家族というのは、他の人の家族のなかにはいないわけだから、俺が、いろいろと、うたがわれるのである。

「人の悪口を言うべきではない」とこういうふうに、俺のことを疑って、悪口を言ってる人たちが言っているのである。

兄貴が、実際に鳴らしてないのであれば、ぼくが、兄貴が非常識な音で騒音を鳴らしていると、兄貴の悪口を言っていることになる。

兄貴のヘビメタ騒音を経験したことがない人は、それがどれだけ強烈な影響をあたえるかわからないのである。

俺の精神にあたえる影響、俺のからだにあたえる影響、俺の勉強にあたえる影響がわかってない。

まとめて言うと、俺の日常生活にあたえる影響がわかってない。

「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちとおなじで、兄貴が実際にはぼくが言うような音で騒音を鳴らしてないと考える人たちは、騒音の影響を無視してしまう。

ところが、この人たちはわかってないけど、騒音の影響がある。

どれだけ、無視して暮らそうとしても、ものすごい影響がある。

 「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちは、でかい音で鳴っているという事実を無視してないけど、でかい音で鳴らされると影響をうけるということを無視している。

そして、「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」と考える人は、もちろん、鳴ってないのだから、騒音の影響なんて考えないのである。

そして、実際に、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちの家族も、「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」と言う人たちの家族も、きちがい兄貴のような騒音を鳴らしていないのである。

だから、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たち「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」は、ぼくが、うちのなかで、経験した、きちがい兄貴による騒音と同程度の騒音を、経験してないのである。

毎日続くということが、どういう影響をあたえるか、まったくわかってないのである。

経験がないから、影響をうけてないだけなのに、「自分は影響をうけない」「自分は平気だ」「自分はだいじょうぶだ」「自分だったらお兄さんに注意して、やめさせることができる」と思っている人は、ぼくを、影響をうけるぼくを侮辱し、平気でないぼくを侮辱し、だいじょうぶはないぼくを侮辱し、注意してやめさせることができないぼくを、侮辱するのである。

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たとえばの話だけど、影響を無視して、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちといっしょにいて、ぼくが楽しいと思うか? 「過去は関係がない」「影響はない」と言われて、ぼくが不愉快にならないと思うか?

たとえばの話だけど、『そんなのは、おかしい』『エイリのお兄さんはでかい音で鳴らしてない』『エイリが嘘を言っているか、精神病だ』と思っているやつと、いっしょにいておもしろいと思うか。

まあ、この手のタイプは、裏にまわって、徒党を組んで、おもしろおかしく不満を言いながら、俺のことを、ディスる。

悪口を言っているのは、こいつらなのに、俺が、兄貴や親父の悪口を言っているということになっている。

こいつらが、まちがった事実認識にもとづいて、俺の悪口を言っているのに、俺が兄貴や親父の悪口を言っていると思って、「人の悪口を言うのはよくない」と言うのだ。

いやーー。人の悪口を言っているのは、おまえらだろ。

*     *     *

「受け止め方をかえればいい」と思っていて、なおかつ「俺だって、騒音ぐらいあった」と思っているやつは、俺が「あなたが経験した騒音とは、質も量もちがうんだ」と言ったら、受け止め方をかえて、「そうなんだ」と思えばいいんだよ。

ところが、人に「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、自分の受け止め方をかえない。

「受け止め方をかえればいい」と思っていて、なおかつ「俺だって、苦労した。」と思っているやつは、俺が「あなたが経験した苦労とは、質も量もちがうんだ」と言ったら、受け止め方をかえて、「そうなんだ」と思えばいいんだよ。

ところが、人に「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、自分の受け止め方をかえない。

なんで、受け止め方をかえないんだ? どうして、腹をたてるんだ? どうしてむきになって、「俺だって、同等の苦労した」と言うんだ? 受け止め方をかえればいいのだから、かえればいいだろ。

*     *     *

俺がきちがい兄貴のヘビメタ騒音について説明しても、それを信じないやつというのは、誤解をして俺をひどい目にあわせている。裏で悪口を言って、盛り上がって、楽しんでいる。

そんなやつが、道徳をくちにする。

ほんとうにふざけたやつらだ。兄貴のような人間がいるということがわからないだけだろ。親父のような人間がいるということがわからないだけだろ。

自分が経験してないから、きちがい家族による騒音がどれほど、つらいかわかってないだけだろ。自分が経験してないから、きちがい家族による騒音がどれほど、人生に影響をあたえるか、わかってないだけだろ。


でかい音で鳴らすために、認識の穴をつくったわけだから、言われたって、認めない

 まず、きちがい兄貴が、普通のうちでは鳴らせないような音で、思いっきりヘビメタを鳴らしたいと思うわけだ。

けど、普通のうちでは鳴らせないような音では、鳴らせないので、普通のうちでは鳴らせないような音で鳴らしているのに、普通のうちでは鳴らせないような音で鳴らしているわけではないと思うことにしたのだ。

これが、無意識的な過程で起こることで、無意識的にはそういうふうにしているのだけど、意識的にはそういうふうにしているという気持や感覚がない。

ようするに、認識がない。この認識は、自分が認識してはならない認識なので、普通に言われたって、発狂してはねのけてしまう。何度言われようが、認めるわけにはいかない。どうしてかというと、自分が普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で、鳴らせなくなってしまうからだ。だから、普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしているという認知は、ぽっかりと穴があいた状態になる。ようするに、生きて、覚醒して活動しているわけなのだけど、その認知だけは、どれだけ認知しようにも、認知できないということになる。基本的には、無視をして、鳴らしてしまう。「でかい音で鳴らしている」ということを言われても、それは、頑固に無視して、「でかい音で」鳴らしてしまう。でかい音で鳴らすために、認識の穴をつくったわけだから、言われたって、認めないのだ。

こういうことの頑固さは、普通の頑固さではないのである。無意識がかかわっている頑固さというのは、意識がかかわっている頑固さとはちがうのである。質的にちがうのである。けど、無意識に問題がある家族といっしょに住んだことがない人は、無意識に問題がある家族のことが、よくわからない。無意識に問題がある家族といっしょに住んだことがない人は、無意識に問題がある家族のことを理解しないのである。

2024年12月13日金曜日

とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしの青春がほしい

 とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしの青春がほしい。ヘビメタ騒音なしのわかい時期がほしい。これ、やられてないやつには、まったくわからないことだと思う。ほんとうに、できることがちがう。まわりの人の態度がちがう。きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、できたことがいっぱいある。それに関しても、どのみち他人は、「ヘビメタ騒音がなくたってできなかったことかもしれないよぉーー」と言うわけだけど、ちがう。ヘビメタ騒音なしなら、できた。

「ただ単におとがなっていただけだ」と思ってしまう人がいるのだけど、ぜーーんぜーーん、ちがう。ちがいすぎる。けっきょく、こういうことを言うやつは、普通の騒音しか経験してない。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこりまくって、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、ヘビメタを鳴らすまえだって、俺にも、「騒音体験」はあった。普通の騒音は経験しているのである。こいつらは、きちがい家族による騒音は経験してないままなのだ。そして、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を経験したということになってしまう。ぜーーんぜん、ちがうということに、気がつけない時点で、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を聞かされてないことが、あきらかだ。ぜーーんぜん、ちがうのである。デートだってほかの人とのつきあいだってぜーーんぜーん、ちがうのである。あの生活がどういう生活か、一日にも経験してないからわかってないだけなのに、くそを言うな。自分だって騒音ぐらい経験したと言って、同じ程度の騒音を経験したことにするな!! ぜーーん、ぜーーんということがまーーーったく、まーーーむたく、わかってないのだから、経験してないということが明白なんだよ。

エイリがへんなことを言っているだけだということになってしまうのである

 

 きちがい兄貴ときちがい親父が、普通の感覚の持ち主ではないので、普通の感覚の持ち主は、ぼくの話をうたがうのである。こんなの、ない。

「そんなのは関係がない」ということを言う人が約七割で、あとの約三割は、「そんなのは、嘘だ」と言うのである。ぼくが嘘をついていると思っているのである。

そうなると、その人のなかでは、ぼくが嘘を言うような悪い人間だということになる。

つまり、実際には、お兄さんは、そんな音で鳴らしてないのに、エイリさんが、そういう音で鳴らしたと嘘を言っているという解釈をしていしまわけだ。

そして、きちがいヘビメタ騒音で、寝不足になり、遅刻や不注意といった問題がしょうじているのだけど、それも、実際には鳴ってないのに、鳴っていると言っているわけだから嘘をいいわけをしているだけだということになってしまうのである。エイリさんは虚言癖があるというとになってしまうのである。そいつらの頭のなかでは、そうなってしまうのである。きちがい兄貴の構造がわからないから、俺が嘘を言っていると思うわけだ。きちがい親父が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を黙認して、裏から支持しているところがあるのだけど、それも、こいつらにはわからない。俺が……エイリがへんなことを言っているだけだということになってしまうのである。

きちがい兄貴側の問題が、俺の問題のように言われてしまうのである。

どうしてかというと、繰り返しになるけど、普通の人が、きちがい兄貴における「脳の構造」を理解してないからだ。普通の人が、きちがい兄貴における「感覚」を理解してないからだ。そして、きちがい親父が、きちがい兄貴とおなじ「脳の構造」をもっていて、きちがい兄貴の「感覚」とおなじ「感覚」をもっているということを理解してない。

そうなると、「そんな音で鳴っているのに、家の人が文句を言わないのはおかしい」と考えてしまうのである。そして、実際に、きちがいヘビメタ騒音の連続で、人のせいにしているだけだということになってしまうのである。

「そんな音で鳴ってたら勉強することができなくなるよなぁ」と言ってくれるのは、一%未満の人たちだ。ごくわずかな人しか、きちがいヘビメタのたいへんさを理解しない。きちがい兄貴みたいな感覚をもっている人がいるということを理解してくれない。

2024年12月11日水曜日

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまう

 自己責任論というのは、どんな状態だろうが、やられたほうが悪いという理論なんだよ。どんな状態だろうが、やられたほうに落ち度があるという理論なんだよ。

だれになにをやられたにしろやられたやつの責任だという理論なんだよ。こんな、圧迫面接官がやるようなことを、上下関係がない他人にやりまくるやつがいいやつであるはずがないだろ。

こういう場合は、こうだ……という思考がまったくないんだよ。

どういう場合でも、やられたほうには、やられた責任があるという、くそ理論なんだよ。

それじゃあ、悪いやつのかたをもつことになる場合がある。加害者のほうが悪いのに、被害者が悪いと言いはるやつが、自己責任論者だ。問答無用で、条件に関係なく、状態に関係なく、理由に関係なく、ともかく、やられたやつが悪いのである。

こんな、めちゃくちゃなことを得意げに言って、なにも疑問をいだかないやつが、かしこい人間であるはずがない。

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまうのである。そして、たいていの自己責任論者が、それに気がつかない。最初は、アンガー・マネジメントのようなことを言っているけど、最後には、すべての場合において、やられたやつが悪いという理論になる。

他人の責任をとことん追及する理論になる。やっていることは、自己責任論をふりまわして、他人の責任を追及することなのである。そして、その他人に責任がある場合もあるけど、その他人に責任がない場合もあるのである。

けど、理論的に、他人に責任がない場合はないと決めつけてしまう。条件が悪い人にとっては、それ自体が腹立たしいことだ。きちがい的な家族と住んでいる場合、きちがい的な家族は、きちがい的な脳みそを搭載しているので、よそではありえないようなことをするのである。

その場合も、やられたら、やられたやつのせいだということになる。

「やれられやつには、なんだろが、落ち度があり、落ち度があるのだから自己責任だ」とやられやつをせめるようになるのである。

本人を対象にした自己責任論であるならば、他人の責任を追及することはないのである。

だから、最初に提示された、本人の責任を追及する自己責任論と、他人の責任を追及するやつがふりまわす自己責任論は、似て非なるものなのである。

けど、他人の責任を追及するやつにとっては、まさに、他人の責任を追及する自己責任論が、自己責任論なのである。

事実に関係なく、勝手に他人に罪をなすりつけ、「おまえの責任だ」と言い切る自己責任論者が、やっていることは、よくないとことなのである。

しかし、自分はいいことをやっていると、たいていの自己責任論者は思っていることだろう。

まちがっことを思いついて、他人をせめたやつは、自分がまちがっていたと自分の責任をツ級することがないのである。自己責任論者は、まちがったことを思いついて、他人をせめている場合がある。責任を感じるなら、そのことに、責任を感じるべきなのである。

他人の責任を追及する自己責任論者は、普段は、自己責任だと思って生きているつもりなのだけど、ちょっと問題が発生したら「だれだっておこる」といかりをあらわにして、他人をせめるようなやつなのである。

「いやー、おまえがやられたなら、おまえの自己責任だろ」と他人の責任を追及する自己責任論者に言いたくなる。ぼくは言いたくなる。

これ、本人はほんとうに意識してないのだけど、たいていの自己責任論者は「自分の責任だ」と感じなければならないところで、自分の責任だとは感じないのである。

いやーー、だれだっておこるといかりをあわらにしないで、自分の責任だと考えるべきだろ。

アンガー・マネジメントもくそもないなぁ。

実際に、自分の身に、ちょっとでも「おかしい」と思うことが発生したら、これだ。

けど、他人には「すべては自己責任だ」と言う。ここらへんの矛盾が、まったくわかってないんだよね。

「こんなことをされたらだれだっておこる。なんだ!くそ!!」とおこっているときこそ、「すべては自分の責任だ」と思うはずなんだけど、そうじゃないのだ。

2024年12月10日火曜日

希望がもてる言葉は、裏では、人をせめる言葉に、はやがわりするのである

 叱責セットのなかに、努力論に関するものを入れなかった。努力論だって、「努力してないからダメなんだ」「努力不足だ」というせめの言葉をうみだす。

「努力をすれば、成功する」と言った場合、努力をすれば成功するのである。努力をしたのに成功しないということはないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「どんな状態であろうが、努力をすれば成功する」ということを意味している。状態は関係がないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「どんな条件でも、努力をすれば成功する」ということを意味している。条件は関係がないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「努力をすれば、かならず成功する」ということを意味している。一〇〇%の確率で成功するのである。

努力をしたのに、成功しないということはないのである。

かならず、成功する。

なので、成功しないなら、努力をしなかったということになる。

あるいは、成功してない人は、努力をしなかった人なのである。

だから、「努力をすれば成功する」というような希望がもてる言葉は、裏では、人をせめる言葉に、はやがわりするのである。

これは、表と裏の関係だ。

ライフハックの言葉は、ほんとうは、でたらめだ。法則性なんてない。条件を無視している。

条件というのは、今現在の条件だけではなくて、今現在の条件をつくった過去の条件も関係している。時系列的な条件の変化があるのである。

ところが、時系列的な条件の変化を無視する。「条件なんて関係がない」からだ。そして、妄想的なことを言う。

 

2024年12月9日月曜日

解決策が解決策ではなくて、さらにトラブルをうむ有害な策だからだ。

「叱責セット」と書いたけど、ようするに、これは、他人をせめる言葉だ。この他人をせめる言葉と、こういうふうに解決できるという解決策が、セットになっている。

そして、その解決策というのが、有効な解決策ではなくて、妄想の上にたつ有害な解決策なので、条件がわるい人が、こまるのである。こまりまくるのである。もう、条件がわるいなら、こまることが決まっているのである。どうしてかというと、解決策が解決策ではなくて、さらにトラブルをうむ有害な策だからだ。

条件が悪いから、こまった状態になっていのである。「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言うけど、こまっている人がこまった状態でるのは、Xをしなかったからではない。

ようするに、たとえば、ヘビメタ騒音でこまっている場合、ヘビメタ騒音でこまっているのだ。きちがい親父のきちがい行為でこまっている場合、きちがい親父のきちがい行為でこまっているのだ。どれだけ言っても、相手……きちがい兄貴やきちがい親父がやめないから、こまっているのだ。

Xをしないから、こまった状態になったのではない。

「人に親切にすれば、しあわせになる」ということについて考えてみよう。ぼくが、人に親切にしなかったから、しあわせになれず、こまっているわけではないのだ。

原因がちがう。

ところが、 「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言う人たちは、みんな、相手の現実的な原因を無視するのだ。どんな原因だろうが、「Xをすれば、Yになる」のである。「Xをすれば、Yという状態になる」のである。いまこまっている原因はまったく関係がないのである。条件を無視している。

たとえば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の場合、感覚器を無意識的なレベルで書き換えてしまって、自分の耳が悪くなるほどでかい音でヘビメタを長時間鳴らすから、ぼくがその騒音でこまっているのだ。

過去から、現在にいたるまでの時間、きちがい兄貴が鳴らしているから、こまる。ここで、ぼくが「人に親切にしても」、きちがい兄貴のきちがい行為にはまったく影響がないから、きちがい兄貴のきちがい騒音からもたらされる、不幸な状態が続くのである。

両方のセットをあわせた全体構造を強化しているのである。

  なんとなくよさそうに聞こえるライフハックと「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」という言葉は対になっているということを説明した。

言霊(言ったことが現実化する)、思霊(思ったことが現実化する)、書き霊(書いたことが現実化する)ということもライフハックの中に含まれる。お気軽な解決方法だ。

ところが、条件があるので、お気軽な解決方法では解決できないのである。

あたかも、解決できるようなことが言われる。けど、解決できない。

そうなると、今度は「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」といいはじめるわけ。

だから、これらのものは、セットになっている。そして、条件を無視するという共通項がある。「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」だけだと問題があるので、まったくでたらめな解決方法が用意されているのである。

そして、まったくでたらめな解決方法で、うまく解決できないのであれば、それは、個人……つまり、その個人のやり方が悪いのだということになって、その個人をせめはじめるのだ。

ようするに、「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」という「叱責セット」と言霊(言ったことが現実化する)、思霊(思ったことが現実化する)、書き霊(書いたことが現実化する)といった「妄想ライフハックセット」が両方のセットをあわせた全体構造を強化しているのである。

潜在意識なるものを過大評価しすぎなのである 潜在意識 2

書いたら、書いたということが、潜在意識に影響をあたえるということが言われるけど、潜在意識なるものを過大評価しすぎなのである。

潜在意識がものすごい力をもっているということになっているけど、どうして、それなら、一度メモしたことを忘れてしまうのか?

潜在意識がものすごい力をもっているのなら、一度メモしただけで、忘れない。顕在意識が忘れても、潜在意識がおぼえているので、ものすごい力を発揮して、メモをしたことを、ごく自然におこなうことができるということになる。

ところが、忘れないようにメモをしたのである。それは、将来、忘れることがあるということを前提とした話だ。こういう前提が成り立っている話をしているわけだから、一度メモしたのに忘れるということが、わりと頻繁にあるということを意味している。

潜在意識に残っているなら、本人が意識しなくても、メモをした内容を、正確に実行できるはずだ。実行できないのであれば、じつは、潜在意識なんて大したものではなくて、ぜんぜん頼りにならないものだということだ。

けど、そう言ってしまっては、カモがよってこない。

潜在意識という、学術的なタームではないタームをつくりだし、あたかも、潜在意識がものすごい力をもっているということを前提とした話をするわけだ。

そうすると、潜在意識はものすごく頼れるパートナーであるから、言霊理論の言霊のように、魔法のような力を発揮するのである。

しかし、潜在意識がすごいパワーを発揮しない場合が、当然出てくる。

その場合は、「(あなたが)パワーを引き出せないだけだ」という説明をするのである。

だから、いつでも、パワーを引き出せるようなコツを教えてあげると言って、おカネをもうけようとするのである。

ひどいやつになると、潜在意識が宇宙意識につながっているということを言いだし、潜在意識に命令しただけで、すべてのことがかなうということを言いだす。これも、トリックなんだよ。

潜在意識に命令するのは簡単で、ようするに、紙に書きだせばいいということを言う。紙に書きだしただけで、潜在意識に命令したことになる。

だから、潜在意識が宇宙意識を動かして、宇宙意識が、書いたことをすべて、実行しはじめるというのだ。

ここにおいて、言霊理論における言霊のような役割をするのである。言霊理論は、言っただけで、言霊の力が、言ったことを現実化するという理論だ。

書いただけで、潜在意識と宇宙意識がつながっているので、宇宙意識が潜在意識に残っている内容……つまり、書いたことを実行しはじめるという説と、書いたものをはりだして、普段から見るようにすると、潜在意識に焼きつくので、宇宙意識が潜在意識に残っている内容……つまり、書いたことを実行しはじめるという説がある。

けど、どっちも、でたらめだ。

けど、別に、目標を紙に書いて、はりだしておくというようなことを否定するつもりはない。それは、普通の意識的な行動だ。見たら『いやな感じになる』こともあるけど、見たら『やりたくなる感じになる』ことだってある。

これは、普通の意識の問題だ。

意識や注意や認識や行動といった普通の用語で説明できることだ。潜在意識などという、インチキ用語を使って、説明しなくてもいい。

けど、どんな条件下でもそうなるのだろうか 潜在意識 1

  たとえば、目立つところに、邪魔なものが置いてあると、「邪魔だ」と感じる。視界に入るものは、たしかに、こころに影響をあたえている。

普通は、なんか邪魔なものが視界に入る場合、どかすという行為をすることになる。どかせないのであれば、なにか理由があってどかせないのだ。だから、まあ、そのままになるというのは、そのままになるだけの理由があるということを、いちおうは、おさえておかなければならない。

邪魔だと感じるものが(自分が普段生活する場所に)置いてある場合は、邪魔なものが意識に影響をあたえる。「目障りだ」「邪魔だ」と思っているとき、ある程度不愉快な気持になる。その邪魔なものは、見るものに、ある程度、ストレスをあたえていると言っていい。

しかし、それは、潜在意識とは関係がない。潜在意識なるインチキ用語を使わなくても、普通の用語で説明ができることだ。「邪魔だなぁ」と思った時点で、ストスレを感じている。「邪魔だなぁ」と思う部分は、脳の正常な働きだし、ストレスを感じるのも脳の正常な働きだ。

これとおなじように、目標が書いてある紙を見たときに、やる気になる(かもしれない)というのも、正常な脳の働きだ。潜在意識なんて関係がない。顕在意識なんて関係がない。普通の意識が関係している。認識、想起、意欲という言葉で説明できることだ。潜在意識なんて関係がない。

だいたい、潜在意識という用語を使っている人たちは、かならず、プラス向きの働きがあるということを言っている。

たとえば、目標が書いてある紙を見ると、それが、潜在意識に影響をあたえて、自然にやる気になるということを言う。

けど、目標が書いてある紙を見て、あせった気持ちになる場合だってある。目標が書いてある紙を見て、憂鬱な気持になる場合だってあるのだ。目標が書いてある紙を見ると、それば、潜在意識に影響をあたえると、その潜在意識と宇宙意識がつながっているので、宇宙意識が目標をかなえようとガーーーッと動くというようなことを言う人もいる。

「絶対!合格」と書いた紙を貼っておくとする。「合格」と書いた紙を見たときに、どういう反応が起こるのかということは、わからない。「絶対!合格」という文字を見て、むなしい気分になる場合だってあるし、あせる場合だってあるのだ。

「絶対!合格」と書いた紙を見たということは、「合格」と書いた紙を見たということだ。宇宙意識……関係ない。潜在意識……関係ない。普通に、見たものに反応しているだけだ。

意識の範囲の出来事だ。書いてあることの意味を理解して、その意味に関係したことを想起している。そして、その想起が感情に影響をあたえる。普通の脳みその働きで、説明ができることだ。宇宙意識……関係ない。潜在意識……関係ない。

だいたい、この人たちは、見ているときの状態をまったく考えていない。かならず、潜在意識によい影響をあたえて、かならず、宇宙意識によい影響をあたえると考えている。しかし、実際の状態というのは、いろいろとある。

たとえば、試験日まで、あと一日というとき、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っているところで「絶対!合格」と書いた紙を見たときは、あせりを感じるかもしれないのである。ヘビメタ騒音が鳴っている状態……ヘビメタ騒音が鳴っているという条件なんて、まったく考えてないのだ。

ヘビメタ騒音じゃなくても、はげしい騒音が鳴っているところで、書いたことを見た場合の反応については、まったく考えてない。

潜在意識に(よい)影響をあたえるので、潜在意識が目的を果たそうとして、(目的を果たす方向で)からだが、自然に動く……。どんな条件下でもそうなると言っているのが、まあ、潜在意識教の人たちの言っていることだ。

けど、どんな条件下でもそうなるのだろうか?

 


「ゴミ拾いをすると、運があがる」(1)

 「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人が、完全に無視していることがある。

それは、複数の悪い条件をかかえている人が、どういう気持で「ゴミ拾い」をしているかということだ。複数の悪い条件をかかえている人は、切羽詰まった気持ちで、ゴミ拾いをしている。

この、切羽詰まった気持ちがわかるか? 余裕がある人が、楽しんでゴミ拾いをしているのとはちがうのだ。

あるいは、ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人とはちがう。

ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標。ゴミ拾いをすれば、目標を達成できる。「運をあげるために」ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標ではなくて、運をあげることが目標なのである。

これが、どれだけちがうことかわかってない。

ゴミ拾いをしても、運があがらなければ、目標を達成できないのである。行為と目標がずれているのである。これは、大きな影響をあたえる。心理的な影響はでかい。


「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえていている人の条件を無視している。

つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人が、ゴミ拾いをしているときの気持ちを無視している。

つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、行為と目標がずれていることがあたえる心理的な影響について無視している。

つぎに、「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人の体力的なリソースや時間的なリソースを無視している。

悪い条件をかかえている人は、体力的なリソースがゼロ付近、時間的な余裕もゼロ付近で、暮らしているのである。

そりゃ、相対的に条件がいい人には、体力的なリソースも時間的なリソースもある。どうしてかというと、条件がいいからだ。

条件がいい人が「自分だって苦労した」と言うけど、その苦労は、条件が悪い人の苦労とは質もちがうし、量もちがうのである。

条件が悪い人は、もう、ボロボロになって余裕がない暮らしをしているのである。

ゴミ拾いをしはじめるときの状態が、条件のいい人と、条件が悪い人とでは、ぜんぜんちがうのである。

「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、条件を無視するので、そんなことは、一切合切、考えてないのである。


あるいは、一切合切、考えてないお気楽さがある。このお気楽さは、裏をかえせば、傲慢さだ。相手の条件を考えずに、でたらめなことを言う傲慢さがある。無慈悲で傲慢なのである。

抽象的な話に興味があって、「あがる(はずだ)」ということを言うけど、相手が、ほんとうはどんなことでこまっているのかいうことに関しては、まったく、無感覚だ。無感覚、無慈悲なのである。実際にやってみた相手の状態なんて、気にならないのだ。

だから、このお気楽さ、無感覚さ、無慈悲さは、容易に、「せめのことば」に結びつく。「そんなのは関係がない」「そんなのは影響がない」「そんなのは、やり方が悪いんだ」「こころをこめてやらないからダメなんだ」などなど。相手の現実的な条件を無視して、相手をせめまくる。

「ゴミ拾いをすると、運があがる」ということが、そういうことを言う人のなかでは、正しいことになっているので、「ダメだった」「効果がなかった」ということを言われると、相手が悪いのだということを言いだすのである。

ようするに、理論は正しいので、相手に落ち度があると考えるのだ。理論が悪いのではなく、相手が悪いと決めつけて、相手の責任を追及しはじめるのである。

そして、ダメだしをする。

けど、理論がそもそもまちがっているのである。

こんな、無慈悲な行為をしているのに、どこに「愛」があるんだ?

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(5)

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということに関する批判は、めちゃくちゃにうけが悪い。わるすぎる。そんなのは、わかっている。

けど、ぼくは言わなければならないのだ。これ、ほんとうは、問題があることなのに誰も言わない。そりゃ……。ゴミ拾いをしたいと思っているのだからゴミ拾いをしたっていいじゃないかという意見があると思う。

ぼくだって、別にゴミ拾いをするべきではないと言いたいわけじゃないのだ。

けど、お気楽ライフハックを人にすすめるような行為は、不幸な人をどん底に突き落とすような行為なのだ。みんな、それがわかってない。

そういう要素があるということが、まったくまったくわかってない。

どのみち、ある程度、めぐまれている人が書いたライフハックはまるで役に立たないのだ。役に立たないどころか、有害なのだ。有害さが、無視されている。この手のライフハックというのは、多くの不幸な人を自殺に追い込んできたと思う。

複数の「悪い」条件が成り立っている人がいるんだけど、その人が感じていることというのは、この手のライフハックでは解決しない。

そして、この手のライフハックがはやっているということ……正しいこととして流通しているということ自体が、複数の「悪い」条件をかかえている人を、くるしめるのだ。

特に「運」がどうのこうのという話は、よくない。

まったく、よくない。

これ、最後のひとおしになる。がけっぷちに立っている人を、突き落とす、最後のひとおしなのだ。ほとんどの人が、「運がよくなるのだから、いいことだろ」と思っていると思う。

ところが、これ自体が、くるしみの原因になってしまうのだ。努力論とおなじで、正しいこととして流通しているけど、不幸な人を、より不幸にするところがある。 最後のひとおしになる。

というか、最初から、これ、条件が悪いところでは、マイナスに働くことなのである。

何度も言うけど、条件は無視されているのである。これは、悪質だ。

個々人がかかえる条件を無視して、条件が悪い人を追い込む。「自己責任」「あまえだ」「いいわけだ」……これらのせめる言葉と組になって、運をあげる方法が語られるのだ。

これは、自転車の前輪と後輪だ。ライフハックとせめる言葉が組になっている。「ライフハック」は条件を無視しているし、「せめる言葉」も条件を無視している。条件をガン無視するという点では、両者はおなじだ。

*     *     *

その人が不幸なのは、ゴミ拾いをしてこなかったからじゃないぞ。

悪い条件が成り立っていたから不幸なのだ。ゴミ拾いをすると運がよくなる……。だったら、運がいい人は、みんな、ゴミ拾いをしてたのか?

ちがうだろ。

こんなの、論点そらし。

別に、ゴミ拾いをしてもいい。ゴミ拾いをすることで、本人が気持ちよくなれるなら、それでいい。けど、実際はちがう。どうしてかというと、運をあげようとしてゴミ拾いをする人は、すでに不幸だからだ。

運がない思い……をさんざんしてきたからだ。

こまっているからだ。

条件が悪いうちに生まれたということ自体が、運がないことだ。運というなら、そういこうとになる。

運というのは、じつは、現実を言い換えたものだ。

たとえば、悪い親のもとにうまれてきた人は「運が悪い」のである。悪い親のもとにうまれてきたという事実を「運」という言葉で、言い換えているにすぎない。

 現実の写し絵なのでおなじものをみて、ふたつのことを言っているだけだ。そして、ふたつのあいだに関係があるというようなことを言うのである。

けど、おなじことを言っているのである。現実世界で、現実的にダメな状態で生活している人は、運がないのである。けど、運がない人は、現実世界で、現実的にダメな状態で生活している人なのである。

「運」というのが、現実の写し絵なのだから、こんな意味のない言葉の繰り返しになっても、しかたがない。

運の悪い人が運をよくする……ための方法……。けど、運が悪いとみなされる状態は、じつは条件によってつくりだされたのである。

だから、条件がかわらないとだめなのである。条件がかわらないと運が悪い状態が改善されないのである。

けど、条件を無視して、妄想的なことを言う。条件を無視している。

これは、原因を無視しているということとおなじだ。現実を繰り出している条件についてはまったくふれずに、別の原因を考え出し、それをしないからダメなのだとダメ出しをするのだ。

たとえば、運をあげる方法をやってみたけど、ダメだった人がいたとする。この人に言われる言葉は「続ければいい」という無慈悲な言葉だ。だいたい、条件を無視している時点で、無慈悲なのだ。こんなに思いやりがない行為はない。

相手の条件を無視するということは、すでに、相手に対する侮辱なのである。どうしてかというと、相手の状態がわるくなったほんとうの原因を無視することになるからだ。

そして、「いいわけだ」「あまえだ」「続ければいい」と言う。こんなことをして、いいことをしたつもりでいるというのがおかしい。

いいことをしたつもりになっているのは、自分が提示した方法が、ほんとうに相手の運をあげると思っているからなのである。

ところが、相手をよりくるしめる方法なのだ。

条件が悪い人が「運をあげる方法」をこころみたとしても、いいことなんてない。どうしてかというと、実際には、条件のわるさがわからないからだ。

*     *     *

はっきり言ってしまうけど、社会改革のほうがいい。社会がかわれば、だいぶ、条件がかわる。条件がかわれば、実質的に運がよくなった?状態になる。



「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(4)

  この「運をよくするためにやったこと」というのは、不幸な人の首をしめることがある。

たいていは、トラブルになる。

どうしてかというと、不幸な人は、条件が悪いからだ。さまざまな悪い条件をかかえているからだ。

そして、悪い条件からしょうじる悪い出来事の積み重ねがある。

過去における「悪い条件からしょうじる悪い出来事の積み重ね」は、いまの悪い状態をつくりだしている。それを、ライフハックでひっくりかえせるかというと、かえせない。

「自分の場合は運があがった」と言っている人は、相対的には、不幸がつみあがった人よりも、しあわせなのである。ようするに、いい条件がある。

ところが、人間系のライフハックの対象は、人間なので、よい条件とか悪い条件というものを一切合切無視して、「人間というものは、こういう動物だ」というようなことを言う。

 こういう動物でなければ、こういう存在でもいい。

人間なら、Xをすれば、Yの状態になるのである。人間なら、ゴミ拾いをすれば、しあわせな状態になるのである。人間なら、元気だ元気だと言えば、元気になるのである。

Xをしているときの状態なんて、まったく関係がないのである。

*     *     *

ただ、Xをしただけで、条件をすべてこえて、状態をひっくりかえせるのである。これが、ほんとうのことならいいのだけど、嘘なのだ。そんなことにならない。

 「自分の場合は運があがった」と言っている人は、なんかのまじないをしたあと、いいことが起こったから、このまじないにはチカラがあると思っている人なのだ。

まじないにチカラがあるわけではなくて、まじないの行為をしたあと、時間的に接近して、その人がいいことだと思えることが起こっただけなのである。

他の人が、そのまじないをしても、まじない自体には、チカラがないので、いいことが起こらないのである。まじないをしなくても、いいことが起こる確率と、まじないをするといいことが起こる確率は、おなじだ。

 

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(3)

  「法則性がある」と言った時点で、個々人がかかえる特殊な条件というのは、捨象されてしまう。

ところが、個々人がかかえる特殊な条件が、生活感に影響をあたえているのである。

なので、たとえ「法則性がある」と思っている人が、「法則性がある」と言っても、言われたほうの条件が、かわるわけではない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。 Aさんはボロボロな経歴を持つボロボロな50歳のアルバイターだ。Bさんは「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということを、信じている人だ。

Bさんにとっては、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということは、法則性があることなのである。

なので、高いところで、抽象化すると、Aさんも、ゴミ拾いをすることによって、しあわせになるはずなのである。Bさんは、法則性があると思っているのだけど、法則性なんてないのだ。

ゴミ拾いをしても、しあわせになれない人が、ざらにいる。

これは、そもそも、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」という文であらわさることには、法則性がないということを意味している。

そして、Bさんは、Aさんの条件を無視している。Aさんには、語られるかどうかは別にして、さまざまな条件が成り立っているのである。おぎゃーとうまれた瞬間から、いろいろな条件が成り立っているのである。いや、おぎゃーとうまるまえから、いろいろな条件が成り立っている。

母親のおなかのなかにいたとき、だれかが母親のおなかを強くぶんなぐれば、母親のおなかにいる子どもが物理的な影響をうける。生まれるまえから、じつは、物理法則は影響をあたえている。

おなかのなかにいる子供がAさんだとする。まだ、母親のおなかのなかにいたAさんが、なぐられたことによって、生涯続く障害が発生したとする。うまれてきたAさんが、この障害を「ゴミ拾いをすること」によってくつがえすことができるかというと、できないのである。

Aさんが障害をもって、生まれてきたせいで、いろいろな不愉快な思いをしたとする。それを、ゴミ拾いをすることによってくつがえすことができるのか? ということなのである。ぼくが言いたいのは、そういうことだ。

Aさんの身のうえに、50年間、いろいろな出来事が降りそそいだとする。Aさんが、いろいろな出来事を、いろいろな不幸な出来事ととらえているなら、いろいろな不幸な出来事が降りそそいだということになる。

不幸な出来事がたくさん発生したなら、「自分は不幸だ」と思っても不思議ではない。過去における不幸な出来事の積み重ねは、現在の不幸感(あるいは幸福感)に影響をあたえる。

ゴミ拾いをしただけで、その不幸感がひっくり返るのかどうかということだ。たいていの場合は、ひっくり返らない。不幸な人が、ゴミ拾いをしても、しあわせにならない場合のほうが、多い。不幸な人が、ゴミ拾いをして、しあわせになることは、あったとしても、めずらしいことだ。

不幸な人がゴミ拾いをしても、たいていの場合は、しあわせにならない。

ところが、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」といっている人は、「すべての場合において、ゴミ拾いをすれば、しあわせになる」と言っているのだ。対象は人間であり、人間はみんな、ゴミ拾いをするとしあわせになれる生き物なのである。

たとえば、Aさんが「今日」職場でいじめられたとする。Aさんがゴミ拾いをすれば、明日は、いじめられないようになるか。たいていの場合は、Aさんがゴミ拾いをしても、職場のいじめには影響をあたえない。

Aさんが「今日」の夜8時に「明日も会社に行けばいじめられる」と考えたとしよう。これは、根拠がない想像ではないのである。根拠のない不安ではないのである。ずっといじめられてきたので、「明日も、いじめられる」と思ってしまうのである。

そして、根拠があるから、実際にそうなる確率が高い。Aさんが「今日」の夜8時10分に、ゴミ拾いをしたとする。ゴミ拾いをしたので、「運があがって」いじめられないようになるのか?

ゴミ拾いはいじめに影響をあたえない。

そりゃ、職場の人がAさんをいじめている。職場の人にAさんがゴミ拾いをしたことの影響があらわれなければならないのである。そうしないと、職場におけるAさんの幸福感に影響をあたえない。

なんかものすごい力が働いて、急に、運があがり、いじめられなくなる……というようなことは、おこらない。

まあ、美談のなかでは、Aさんがゴミ拾いをしているところを、会社の同僚であるCさんが見かけて、Cさんが、職場の人に「Aさんがゴミ拾いをするようないい人だから、もう、いじめるのはよそう」と言って、いじめがなくなった……というようなことになるのかもしれない。

美談なんて、いくらでもつくれる。

*     *     *

ここで語るべきではないのだけど、出来事というのは、本来、中立的で、「不幸な出来事が発生した」と思うのは、「不幸な出来事が発生した」と考えた人が、「中立的な出来事」に「不幸な出来事」だという解釈をあたえただけだという考え方がある。これに関して、すでにのべたことがあるので、今回は、省略する。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(2)

 美談を語る人というのは、他人の状態というのは考えてない。

他人の条件というのも考えてない。

法則性について語るだけなのである。

しかし、その法則性の根拠というのが、ない。

一例として、こういうことがあったと言われたから、法則性が成り立っていると思っているだけだ。ほんとうは、法則性なんて成り立ってないのに、ひとつの例において法則性が成り立っているように見えれば、どんな条件でも法則性が成り立っていると思ってしまう人たちなのだ。

たとえば、「言ったことが現実化する」というようなことを言う人がいるとする。

実際に、自分が「明日、雨になると言ったら、雨になったから、法則性がある」と言っているだけなのだ。「言ったことが現実化する」という法則はない。もともと、法則性がないことについて語っている。

そして、実際の『例』としてあげられる……「自分が明日、雨になると言ったら雨になった」……ということも、「言ったことが、言ったから、現実化する」ということを意味してない。

これは、「自分が明日、雨になる」と言ったあと、別の理由で雨がふっただけなのだ。自分が明日、雨になると言ったことと、雨が実際にふったことはなんの関係もないことなのだ。

ようするに、法則性があるということについて勘違いしているだけではなくて、実例が適切であるということについても勘違いしているのだ。

「あと」と「から」の区別ができないから、『例』としてあげているのである。

「あと」と「から」の区別がついていたら、実例としてもあげていない。法則性はないし、法則性が正しい証拠のように扱われている実例も、例として不適切なのだ。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(1)

  たとえば、ボロボロな経歴を持つボロボロなアルバイターがいたとする。この人は、もう50歳で、職場でいじめられているとする。この人には、この人の条件が時系列的に成り立っている。

とりあえず、この人のことをAさんだとする。「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということを聞いたAさんがゴミ拾いをすることでしあわせになるのかどうかということが、気になる。手短に言うと、Aさんは、ゴミ拾い以外のことで、くるしんでいるのである。

その苦しみが、ゴミ拾いをすることでなくなるのかどうかということだ。

たいていの場合は、なくならない。

ゴミ拾いをどれだけやっても、ゴミ拾いで幸福になるということはなくて、さまざまな人のいじわるによって、ボロボロな気分の、ボロボロな生活が続く確率のほうがはるかに高い。

ゴミ拾いをすると、運がよくなって、運がよくなった結果、いいことが発生して、Aさんがしあわせになるというのが、基本的な理論だ。

ようするに、ゴミ拾いをすることで、運があがるということが基本になっている。そして、運というのが、マジックワードで、どのようにも、言えることなのだ。分解すると、「運」という予想がかかわってくるのだけど、「運」という中継地点については、しばし、省略される。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということは、実際には「ゴミ拾いをすると、運があがって、しあわせなことが発生するので、しあわせになる」ということだ。

ゴミ拾いをしても、運があがらない場合については無視している。運があがっても、しあわせなことが発生しない場合については、無視している。ようするに、ゴミ拾い→しあわせになる」ということのあいだに「運」という言葉がはいるのだ。

けど、ゴミ拾いをすると「運があがる」というのは、妄想にすぎない。そういうふうに言っている人が、妄想として信じていることにすぎないのである。ようするに、科学じゃない。ところが、法則性があるようなことを言うのだ。

こういうことを言う人は、実際の不幸を発生させているものに関しても、無視している。どういう事情で、Aさんが不幸なのかということは、この場合は関係がないのである。

ただ、スタートする時点で、Aさんが不幸であることは必要なことなのである。どうしてなら、ゴミ拾いをしなくても、Aさんがしあわせなら、自分の不幸な状態をどうにかするために、ゴミ拾いをはじめないからだ。

そして、たとえば、美談のなかの主人公は、ゴミ拾いをしたことで、運があがり、しあわせになるのである。あるいは、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人が、もともと、しあわせである場合がある。

ようするに、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人は、さまざまな条件において、Aさんよりもずっと、しあわせだったのである。

そして、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人が、単なる信者ではなくて、それなりに目立ったところにいる人だとすると、メディアがつくった人である可能性がある。ようするに、メディアが「したてあげた人」である可能性がある。メディアがしたてあげた人の条件と、Aさんの条件は、ちがいすぎるほど、ちがうのである。

さらに、言ってしまうと……言いたくはないのだけど、言ってしまうと、Aさんがゴミ拾いをすることによって、Aさんがもっと不幸になる場合があるのである。そもそも、Aさんが余裕のない限界生活をしているとする。その限界生活をしている人が、さらに、ゴミ拾いというタスクを実行しなければならないということは、現在進行形でむりな生活をしているAさんの、負担になるのである。

そして、ゴミ拾いをすることで、他人から、いちゃもんをつけられるかもしれない。そういう可能性だってある。美談を語る人は、Aさんがゴミ拾いをすることでしあわせになるということを言っているのだけど、Aさんがゴミ拾いをすることで逆にもっともっと不幸になることだってあるのだ。

けど、美談を語る人や、美談を語る人の取り巻き連中は、ゴミ拾いをして不幸になる可能性については、一切合切、言及しない。

2024年12月7日土曜日

こういう人たちとだって、ちゃんと話すことができた

  今日、見た夢は、そんなに悪い夢じゃなかったんだけど、そのあと、俺のことを研究者だと思った、研究者の人との、やりとりを思い出して暗い気持ちになった。ヘビメタ騒音さえなければ、こんな、思いをしなくてすんだ。そして、研究者の人には悪いことをしてしまったなぁと思うところもあった。ヘビメタ騒音のことを説明したくなかった。研究者じゃないところを説明するとなると、そこのところを説明しなければならなくなる。それが、いやだった。

アーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』という本の、中古本販売のときの話だ。たぶん、ここを見ないと思うけど、研究者の人が、ここを見たら、そういうことだったのかと思ってほしい。

そのほかにも、ドストエフスキー掲示板にちょっとだけ登場した研究者の人や、ソフトウエア会社の社長とか、ぼくにあってみたいと誘いをかけてくれた人がいたんだよな。けど、ヘビメタ騒音のことを話すのがいやだったから、見送った。これ、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこらなかったら、こういう人たちとだって、ちゃんと話すことができた。 

あってみたいと思っている人は、ぼくに興味を持って会ってみたいと思ってくれているわけだよ。けど、ヘビメタ騒音で学歴がない。さらに、無職だった。言えないよ……。

ヘビメタ騒音というのは、ぼくが言ってることを理解しない人たちともうまくいかなくなるし、ぼくが言っていることを理解してくれる人たちとも、うまくいかなくなる騒音なのだ。

2024年12月4日水曜日

「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ

  「やる気」というものを考える場合は、普通の生活体力がある状態なのか、普通の生活体力がない状態なのかということを考えなければならない。「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言うけど、これは、普通に生活体力がある人の話だ。

たとえば、セルフニグレクト状態になっている人に、こんなことを言ってもむだだ。

けど、「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言う人は、セルフニグレクト状態になっている人に対してもそういうことを言ってしまう。病院で、チューブをつけられて寝たきりになっている人に「行動を習慣化すれば、行動できる」に「行動を習慣化すれば、行動できる」と言ってもしかたがないのとおなじだ。

けど、セルフニグレクト状態になっている人は、病院で寝たきりになっている人とは、見た感じがちがう。ようするに、外見の問題だ。

そとから見て……「こういう人はこういう状態だ」と見た人が、判断しているにすぎない。

そして、「できる」という言葉は、無情なものだ。見た人が……対象になる人を見て……「見た感じ、外傷がないからできる」と思ったら、見た人のなかでは、対象になる人は、できる人だということになってしまうのである。

しかし、セルフニグレクト状態になっている人は、できないと考えているのである。

そとから見た人からすれば……「それは、あまえだ」と言いたくなる。あるいは、「それは、いいわけだ」と言いたくなる。

外傷がないのだから、できるに決まっているというのが、そとから見た人の考え方だ。

対象になる人は、脳みそが委縮しているのかもしれなぃ。あるいは、脳みそが物理的に委縮していなくても、なんらかの機能障害があるのかもしれない。そして、機能障害はつきつめて言えば、「萎縮」とおなじように、物理的な現象なのだ。

脳は、外側から見ることができないので、外側から見て、対象者ができるかどうかということを判断している人には、対象者における脳の状態は、わからない。

そして、、外側から見て……「対象者ができる」と判断している人は、内側の状態を気にしないのである。あくまでも、外側から見て……できそうなら……「できる」と思ってしまう。

そして、対象者が「できない」と言うのであれば、それはあまえだということになってしまうのである。「動けるのに、動けないと言っているのだからあまえだ」と自動的に考えてしまうのである。あるいは、「できるのに、できないと言っているのだからあまえだ」と自動ときに考えてしまうのである。

なので、対象になる人の内側の状態は、わからないということが、前提になってない。外側から見て、「だいじょうぶそう」なら、「できる」のであり、「できる」のに「できないと言うのはあまえだ」というとになってしまうのである。

もちろん、そう考えている人の頭のなかでそうなるわけだ。とりあえず、外側から対象者を見ている人を観察者ということにしよう。観察者は、対象者の内側を気にしない。観察者は、対象者の内側でなにが起こっているのか気にしない。

観察者にとっては、「外見」だけが、問題なのである。

そして、「対象者はできる」と観察者が判断したら、対象者はできる存在なのである。なので、対象者の内側に問題が発生していて、「できない状態になっている」とは、考えないのだ。

対象者の脳みそがどうなっているのかということは、気にしない。あくまでも、表面的に外側からわかる情報だけにたよって、「判断」している。

しかし、たいていの観察者は、対象者の外見と対象者の内面に、へだたりがある場合について考察しない。たいていの観察者にとっては、観察者自身における「対象者を外側から見た判断が正しい」と前提して判断してしまう。

ようするに、たいていの観察者は、「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性について、考えてないのである。「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ。

どうしてかというと、内側の状態というのは、外側からは見えないからだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。