こいつらが、どれだけ「俺だって苦労した」と言ったって、きちがい行為の質がわからないぶんだけ、しあわせなのである。これ、わかるかな? 毎日、きちがい家族にやられてないから、言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができる。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができるということは、たいした苦労をしてないということなんだよ。きちがい家族にやられたことがないということなんだよ。きちがい家族に毎日やれることを経験してないということなんだよ。
うちのめされてないから、言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができる。現実のなかで、うちのめされていたら、「そんなことは成り立たない」と思う。思って当然だ。思わなかったのだから、たいした苦労はしてない。現実のなかで、徹底的に、毎日毎日、うちのめされたことがないということだ。ちょっと我慢すれば、たえられるような苦労なのだ。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を言えば、たえられるような苦労なのだ。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を信じているということが、「たいした苦労をしてない」ということを意味している。
* * *
そんなこと、言えるわけがないだろ。「言ったことが現実化する」なんて言えるわけがない。「すぐに鳴りやむ」と言ったって、まったくなりやまないからなぁ。鳴っているとき、どれだけつらいと思っているんだ。まったく役に立たないことを、思い知らされるのである。言霊主義者のくそ発言だって、つらさの一部になっている。経験したことがないからわからないだけでしょ。経験したことがないから「言ったことが現実化する」なんて、妄想的なことを、言えるんだよ。ちなみに、「努力すれば成功する」ということも、妄想的なことだ。