実際は、きちがい的な感覚をもつ家族がおらず、きちがい的な感覚を持つ家族が鳴らす、非常識な音にさらされた経験がない人が、「自分なら影響をうけない」「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と判断してしまう。こいつらは、夜郎自大だから、「自分なら平気だ」という前提でものを言う。たとえば、「入試のまえはだれだって緊張する」と言ったとしよう。誰かが言ったとしよう。けど、普通に暮らしていて、入試の前に緊張するのと、きちがい兄貴にずっと何年間も毎日やられてきて、入試のまえに緊張するのは、ぜんぜんちがうことなんだよ。「入試の前日にうまく眠れなかった」「入試の前日に緊張して眠れなかった」と、だれかが言ったとしよう。ぼくも、きちがいヘビメタが入試の前日に鳴っていたので、入試の前日にうまく眠れなかったわけだけど、それは、きちがいヘビメタがない人が言っている「入試の前日にうまく眠れなかった」とは、意味内容がちがうんだよ。けど、きちがい兄貴が実際にいない人には、それがわからない。きちがい的な感覚で、どこの家でもなってないような非常識な音で、ずっと、きちがい的な音を鳴らし続ける家族といっしょに暮らしたことがない人は、そもそも、きちがい的な音を鳴らし続ける家族といっしょに暮らしたことがないので、家族が鳴らすきちがい的な音にさらされた経験がない。入試の前日も鳴っていたけど、小学六年生のときから、日曜日も含めて、毎日、きちがいヘビメタが常に鳴っている状態なのだから、小学六年生のときから、睡眠回路がめちゃくちゃになって、うまく眠れなかったのだ。きちがい兄貴がヘビメタを鳴らす前は、ちゃんと毎日、普通に眠れることができたのだ。そういう状態で、入試の前日によく眠れなかったとしても、ぜんぜんちがうんだよ。だいたい、試験を受けるときは、きちがいヘビメタが鳴っているような混乱が「どうしても」しょうじてしまうのだ。これだって、きちがいヘビメタが鳴っていなければ、なかったことなんだよ。こういう症状だって、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、思いっきりヘビメタを鳴らしきるということにこだわらなければ、しょうじなかった症状なんだよ。よその人が……たとえば、「俺だって入試のまえは緊張した」とか「俺だって、入試の前日に眠れなかった」と言うかもしれなけど、その人が、きちがい家族による騒音を毎日、何年間も経験したことがない人なのであれば、その言っている内容がちがうのである。けど、よその人だって、苦労をしたことはあるし、困難を経験したことはある。だから、「おなじだ」と考えてしまうのだけど、ちがうんだよ。そして、普通の人のほうが多いわけだから、世の中に出回っている考え方というのは、普通の人の考え方なんだよ。特殊な家族に、ずっとま位置にやられ続けた人の考え方ではない。ようするに、たとえば、「苦労をした」「困難を経験した」と言っても、意味内容がちがうのである。