ヘビメタ騒音をやられていれば、いわゆるポジティブ思考とは、溝ができる。ヘビメタ騒音というのが、ものすごい、ものなのである。
ものすごく、エネルギーを消費することなのである。
普通の生活エネルギーを、うばいまくるものなのである。
だから、ヘビメタ騒音をやられているときのぼくと、ヘビメタ騒音をやられていないときのぼくはちがう。「とき」というのは、一日のなかで、ヘビメタが鳴っているときと、鳴っていないときがあるという意味ではない。ヘビメタ騒音が鳴っている期間というのは、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も、ヘビメタ騒音が鳴っている時間とおなじように、つかれはてている状態なのである。
まあ、さすがになっている最中は、程度の差がある。鳴っているときのつかれ方を一〇〇だとすると、鳴っていないときのつかれ方は八九ぐらいだ。
そして、ヘビメタ騒音一日目よりも、ヘビメタ騒音一〇〇〇日目のほうが、つかれる状態の『深度』が深くなっている。
底のほうまでつかれるのである。
ともかく、これ、実際にはどんな感じかということは、実際にやられた人にしかわからないと思う。
だから、「俺だってつかれているときはある」と言っている人にはわからないつかれ方だ。そして、「俺だって騒音ぐらいある」と言っている人には、わからない騒音だ。こういう言い方をする人が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音について、知っていることなんて、なにもない。
そんな言い方で、相対化できるわけがないだろ。同質の騒音を同量だけ浴びたように、誤解するようことを言うな。同質の騒音を同量だけ浴びたという前提で、ものを言うな。それだけで、とても失礼なことだ。
他人は、実際に、きちがい兄貴と一緒に住んでいるわけではないので、実際に、きちがい兄貴の騒音が、人生のなかで続いたということがないのである。
そりゃ、騒音はある。騒音はあるのだけど、騒音の騒音がちがうのだ。これ、ほんとうに、きちがい的な人しかやらないことなのである。きちがい的な思考で、自分がやりたい音を普通の音だと書き換えてしまう人じゃないとできないことなのである。
普通の人は、そういう特殊なしくみをもってないので、きちがい兄貴のようには鳴らさない。
普通の人は、どれだけ、無視していても、聴覚が正常なのであれば、いま鳴っている音のでかさというのは、正常に知覚してしまう。
自分がものすごくでかい音で鳴らしたいので、ものすごくでかい音を鳴らして、それが普通の音だと思うことは、普通の人には、できないことなのである。
きちがいだから、できる。
そういう、きちがい兄貴のようなきちがいが少ないので、普通の人は、めったに、やられないのである。
ぼくとおなじことをやられないのである。
ぼくは、きちがい家族と一緒に住んでいたから、きちがいヘビメタ騒音を経験してしまったのである。ほかの人には、経験がない。
「俺だって騒音ぐらいあった」というひとことで、相対化できることではない。
「おなじだ」と言えることではないのだ。
けど、他人は、他人の身の上に起こったことを、小さいことだと考えがちなので、ぼくではない他人は「きちがいヘビメタ騒音なんて言ったって、小さなことだ」と考えてしまうのである。
そういうところに、常にギャップがあるのである。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなかったら、こんなことは、しょうじてないんだよ。
* * *
他人とあうときは、いつも、心身ともにボロボロな状態なのである。ほかの人にはわからない。まあ、生気がない人だとか、元気がない人だとか、憂鬱そうな人だとか、他人は思うだろう。
それは、ある程度、様子を見て、理解したということだ。けど、他人がこういう印象を持って、いいことがあるかというと、ない。
ヘビメタ騒音のことを言ったって、他人は、理解しない。影響のでかさを理解しない。だから、他人には、性格的に、勝手に憂鬱になっている人に見えるわけだし、性格的に、勝手に元気がない人だと見えるわけだ。
それは、他人にとっては、できれば(修正してもらいたい)内容なのである。リクエストなのである。
他人からぼくに対するリクエストなのである。
けど、きちがいヘビメタ騒音の影響で、そんなリクエストには到底、対応できない状態なのである。帰れば、きちがいヘビメタ騒音がまっているわけで、ほんとうに、憂鬱なのである。数千日にわたって、よく眠れなかったし、昨日もよく眠れなかったので、たいへんつかれた状態なのである。
これは、たとえば、ヘビメタ騒音期間中じゃないときに、「元気がない」と言われたということではない。ヘビメタ騒音期間中に「元気がない」と言われるということと、ヘビメタ騒音期間以前の期間に「元気がない」と言われることは、意味がちがうのである。
ヘビメタ騒音期間以前の期間なら、対処可能だけど、ヘビメタ騒音期間中は、対処不可能なのである。
けど、他人は、ヘビメタ騒音以前の期間と、ヘビメタ騒音期間中は、たいしたちがいがないと思っているのである。感覚的には、おなじなのである。他人は、ヘビメタ騒音以前の期間とヘビメタ騒音期間中のちがいを無視するので、ヘビメタ騒音以前の期間中の感覚で、ぼくにものを言ってくる。
そして、そういうふうに無視する他人に、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、そういうふうに無視する他人の九九%ぐらいが、説明されたあとも、ヘビメタ騒音の影響を過小評価し、あるいは、無視するので、けっきょく、他人は、おなじ態度で接してくるのである。
説明をされた場合も、説明をされなかった場合とおなじような感覚、おなじような態度で、ぼくに接してくるのである。
これ、他人にしてみれば、たしかに、ぼくのヘビメタ騒音は「どーーーでも、いいこと」であり、簡単に無視しても、まったく問題がないことなのだけど、ヘビメタ騒音は、ぼくにとって、そういう問題ではない。
無視すればなくなってしまうような問題ではないのだ。
* * *
手短に言って、「過去は関係がない」とか「そんなのは関係がない」とか「鳴り終わったら関係がない」とかと言ったやつに対する、ぼくの側の怒りは、尋常ではない。とてつもなく、不愉快だ。とてつもなく……。「関係あるよ」と言って、ぶんなぐってやりたくなる。あのくるしい状態が、関係ないわけないだろ。睡眠にも、多大な影響をあたえる。関係ないわけないだろ。毎日、何時間も何時間も続いて、くるしかったよ。鳴り終わったあとも、くるしかったよ。
たいていのやつが「鳴ってたんだろ」「けど、そんなの関係がない」というようなことを言う。「騒音があったのはわかった」「けど、鳴り終わったら関係がない」というようなことを言う。
いやーー。まったく、わかってないでしょ。
それで、「自分だって苦労した」「自分だって狂いことがたくさんあった」「自分だって騒音ぐらいあった」ということを言う。こいつらみんな、わかってない。
「そんなことじゃない」と(俺が)言っても、こいつらは、みんな、認めない。「そんなことじゃない」と言われたあとも「そんなもんだろ」と思っている。