普通の人には、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいない。
きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいる人は、ぼくが言っていることを理解できる。
けど、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいない人は、ぼくがっていることがわからない。
そして、そんなことよりも、もっともっと、重要なことなのだけど、実際に、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族がいない人は、毎日、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員にやられるということが、ない。
毎日、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員は、きちがい感覚で、きちがい的なことを、きちがい的な意地でやる。
兄貴のヘビメタ騒音がまさしくそういうものだ。
きちがい兄貴にとってみれば、あたりまえのことなので、やめるつもりは、まったくない。
そして、きちがい兄貴はきちがいなので、「ゆずる」ということに関しても、きちがい親父とおなじような感覚をもっているのである。
だから、絶対の意地で、ゆずらない。
なので、きちがい家族が、自動的に、迷惑行為をするということになる。毎日毎日、きちがい家族が、きちがい的な感覚で、迷惑行為を、すべての時間を使ってやるのである。すべての時間というのは、使えるすべての時間という意味だ。
きちがい家族が、生きていて、起きていて、使える時間を使って、迷惑行為を「意地になって」やるのである。四六時中、迷惑行為を「意地になってやっている」のに、迷惑行為をしているという感覚がまったくないのである。
だから、どれだけやっても、やったことになってないのである。相手がこまっているということは、きちがい的な感覚で無視するので、相手は、こまっていることにならないのである。
どれだけやっても、気がつかない。
どれだけ、「やめてくれ」と言われても、気がつかない。
気がつかないまま、なにもしてないつもりで、四六時中、迷惑行為を……きちがい的な意地で、きちがい的な感覚でやりきる。
ようするに、そういうきちがいが、家族のなかにいない人は、そういうきちがいやることを、自分の身で、経験してないのである。
きちがい家族がいないのだから、きちがい家族が意地になって、毎日、四六時中やることの影響をうけなくてすむのである。
まず、これを理解しなければならないのである。
ところが、「自分だって苦労した」と言えば、きちがい家族の迷惑行為も経験したことになってしまうのである。
きちがい家族がもたらすのと、おなじぶんの苦労、おなじ質の苦労を、自分だって、経験したというとになってしまうのである。
そして、「自分だったら、お兄さんを説得できた」というような感覚もあるので、必然的に、説得できなかったエイリを見下してくるのである。
こういう人間が九割以上いた。九割以上だ。
ようするに、普通の人は、そういう反応をするのである。きちがい家族にやられたことがないので、実際にはやられたことがないので、それがどういうものなのか、経験的にわかってないのである。
けど、わかってないということ理解してないのである。
こうなると、普通の人が、きちがい兄貴に、似てきてしまうのである。しくみは、ちがう。けど、まちがった認識をもっているということと、まちがった認識をもっているということを知らないという意味で、きちがい兄貴に似てくるのである。普通の人が、なんとなく、きちがい兄貴とおなじようなことをしてくるということになる。
きちがい兄貴は、きちがい感覚で無視して、普通の人は、経験がないから無視するのだけど、無視するということは、おなじなのである。
だから、きちがい的な家族が、きちがい的な感覚でやると、よその人は、経験的に理解できないので、まちがった解釈を自動的にしてしまうのである。
それが、また、きちがい的な家族にやられた人の、足かせになるのである。
きちがい家族がいない人も「自分だって苦労した」という魔法のひとことを言えば、苦労を、均質化、同質化、同量化してしまうことができる。
けど、きちがい家族がいない人は、きちがい家族がもたらす苦労を経験したことが、一度もないのである。
だから、きちがい家族がもたらす苦労がどういうものか、必然的に、わからない。そして、「苦労」という言葉は、非常に抽象的な言葉なので、苦労のなかみがちがういうことに気がつかないのである。
「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言えば、言ったとたんに、苦労のなかみがおなじようなものになってしまうのである。
同量の苦労、同質の苦労をしたということになってしまうのである。
同量の苦労、同質の苦労をしたのであれば、通勤通学ができている自分はえらくて、通勤通学ができないエイリはだめだということになるのである。
同量の苦労、同質の苦労をしたのに、自分はちゃんと通勤して働いている。同量の苦労、同質の苦労しかしてないエイリが、できないというのはおかしいということになってしまうのである。
同量の苦労、同質の苦労なら、通勤できるので、通勤できないと言っているエイリはあまえているということになってしまうのである。
こういうところがある。九割以上の人が、こういう発想だ。自分が通勤して働いているかどうかは別にして、割以上の人がそう感じてしまう。定年退職して働いていない人も、そう、感じてしまうのである。
自分だって、定年退職して、それ以降働いてないのだから、通勤して働いていないにもかかわらず、自分は通勤して働いていたから、そういうふうに言う権利があると思ってしまう。
働いてない学生だって「自分だって苦労した」という魔法のひとことを放てば、同量の苦労、同質の苦労をしたことになってしまうのである。同量の苦労、同質の苦労をした自分が、通学できるのだから、「通学できないなんて、あまえだ」と考えてしまうのである。
だから、きちがい兄貴が、よその人には考えることができないことを、ガンガン毎日、きちがい感覚でやると、よその人から、俺が、誹謗中傷されるようになるのである。
きちがい兄貴が、きちがい感覚で、非常識な騒音を鳴らし続けると、きちがい家族による非常識な騒音を経験したことがない人まで、おなじ量の騒音経験したことがある、おなじ質の騒音を経験したことがあるという前提で、エイリを見下してくるようになるのである。
しかも、そうやって、見下してくるやつらは、「助言をしてやっている」「あたりまえのことを言っただけで、自分は悪いことをしてない」と思っているのである。自分はエイリを見下してないし、自分はエイリのことを誹謗中傷してないということになっているのである。
けど、それは、自分も、きちがい家族によるきちがい的な騒音を経験したことがあるという前提が正しい場合の話だ。
正しいなら、誹謗中傷してないのだろう。
けど、前提が正しくないので、誹謗中傷している。
悪口を言っている。
けど、これもまた、「自分だって苦労した」という言葉を放つ人間は、認めないのである。
一日のなかでの持続時間だけではなくて、騒音が何時からはじまってな何時まで続くかということは、騒音の質に影響をあたえる。そして、一一歳のころから騒音がはじまって、けっきょく、二五歳のときまで騒音が続いたということも、騒音の質に影響をあたえる。ぜんぜんちがうのである。
騒音の質と騒音の量がぜんぜんちがうのに、「自分だってそういう騒音を経験するという苦労をした」ということになってしまうのである。「自分だって苦労した」とひとこと言えば、自分だって、「同量の騒音、同質の騒音を経験した」ということになってしまうのである。
そいつのなかで、「同量の騒音、同質の騒音がもたらす、さまざまな苦労をした」ということになってしまうのである。
けど、きちがい兄貴がいない家では、ぼくと同量の騒音を経験することができないのである。きちがい兄貴がいない家では、ぼくと同質の騒音を経験することができないのである。だから、経験してない。
あたかも、自分だって「同量の騒音、同質の騒音を経験した」ということになっているのだけど、経験してない。
だから、「同量の騒音、同質の騒音」がほんとうにもたらす、いろいろな影響をすべて無視して、「自分だって苦労した」と言い放ち……自分も同量の騒音、同質の騒音がもたらすことを経験したという前提で、ものを考えて、ものを言ってくるわけだけど、前提がまちがっている。
まあ、こういう説明をしたところで、「前提がまちがっている」ということを、認めてくれるのは、はなして、何人か?
* * *
言っておくけど、ぼくは、「働いてないやつは働くべきだ」とか「通勤できないなんていうのは、あまえだ」とかということを言ってないからね。
エイリだって、俺が苦労したような苦労を経験してないじゃないか……だから、エイリがそういうことを言うのは不当だ……と考えるやつらがいるのだ。
ぼくは、その人たちの苦労を否定してない。
自分(エイリ)は、その人たちが経験した苦労を経験してないということを、ちゃんと理解している。
そのうえで、「人間は働くべきだ」とか「通勤できないなんて言うやつは、あまえている」とかというようなことは、言ってない。
言ってないのだから、最初から、はずしているぞ。
「エイリだって、自分が経験した苦労をしてない。だから、エイリが言っていることはまちがっている」と思うやつらがいるのだけど、最初から、はずしている。
* * *
まわりの人が『義人』なら、いちいち、侮辱されることがない。あれ、侮辱なんだよ。ヘビメタ騒音の一日がどういう一日だと思っているんだよ?
どういう一日だと思っているんだよ?
* * *
ぼくが経験してない苦労をしている人がいる。そんなのは、わかっている。だから、「人間は働くべきだ」とか「通勤ができないなんてあまえだ」とか「できると言えばできる」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「努力をすれば成功する」なんて言ってない。言ってないんだよ。
逆に、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかということを、否定している。否定しているんだよ。ぜんぜんちがう。
* * *
「人間は、働くべきだ」ということと「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」というのは意味的に等価なのである。「条件がない場合」と「条件がある場合」にわけて、 「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」と言った場合は、「条件がない場合」がぬけているので、意味的に等価ではない。けど、「条件がない」という条件が成り立っていると考える場合は、意味的に等価になる。
「条件がない」という条件が成り立っていると考える場合は、「人間は、働くべきだ」ということと「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」というのは意味的に、等価になる。
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ともかく、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと、ぼくは言ってないのだから、「エイリさんだって、自分の苦労がわかってない」という批判は、意味がない。
「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと言っている人が、エイリの苦労を否定するので、あるいは、ヘビメタ騒音の不可避的な影響を否定するので、問題が発生する。
最初から俺(エイリ)は、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと言ってない。
働けなくなるような苦労をした場合は、働けなくなると思っている。「どんな条件でも、人間は働くべきだ」という意味をこめて「人間は働くべきだ」と言ってない。これ、本人が、自分が言っていることの意味がわかってないのである。「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉と「人間は働くべきだ」という言葉が、この人たちの頭のなかで、意味的に等価なのである。本人は、おなじ意味で言っているのである。けど、まちがっている。理論的にまちがっている。「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉の意味と「人間は働くべきだ」という言葉の意味は、完全にちがう。ちがうのでちがう。「人間は働くべきだ」という言葉に、「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という意味を込めるのはむりだ。
自分の言葉の意味が「よく」わかってないのである。
* * *
「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉なら、いいのかというと、ぼくの場合はそうでない。ぼくに対して、この言葉をはきだしてきたやつらは、ヘビメタ騒音が働けない理由にならないと思っているのである。だから、「人間は働くべきだ」と(ぼくに)言ってくるのである。