ヘビメタ騒音とおなじ苦労をしてきた人、あるいは、ぼくと同等の苦労をしてきた人は、「人間は働くべきだ」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」とか「明るいことを考えれば明るいことが発生して、暗いことを考えると暗いことが発生する」とかということを、絶対に言わない。言うわけがない。わかってないから言っている。同等の苦労をしたことがないから、言っている。
そんなこと、言えなくなる。経験してたら、心底「ちがう」ということがわかるようになるので、そんなことは、言えなくなる。経験していたら、そんなことは、言えなくなる。言えるわけがないだろ。裏切り続けてきたことだ……。どんな気持ちになると思っているんだ?
どんな気持ちになるか、まったくわかってないというのも、経験がないということの証拠になる。そういうことを言われたら、どんな気持ちになるか、まったくわかってないのだから、まったく経験したことがないんだよ。そういうことというのは、「人間は働くべきだ」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」とか「明るいことを考えれば明るいことが発生して、暗いことを考えると暗いことが発生する」とかということだ。こんなことを言われて、どんな気持ちになるかわかってない。わかってないのだったら、経験がないということだ。経験があればわかっている。経験があればわかっている状態になる。何回も何回も、つきつけられて、ちがうということを理解しなければならなくなる。突きつけられたことがないんだろ。そんな気分でいられるような苦労なんだろ。経験というのは、ぼくと同等の騒音経験だ。きちがい家族による、毎日の、長期間の、騒音だ。ものすごくひどい騒音だ。非常識な騒音だ。ほかの「うち」にはない、騒音だ。ほかのうちじゃ、一日に、一分間だって鳴ってないような音なんだよ。だから、ちがうと言っているだろ。まったく理解してくれない。
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「つきつけられて、ちがうということを理解しなければならなくなる」という部分に含まれる「ちがうということ」が、どういうことか、ちょっと説明しておく。たとえば、「楽しい楽しい」と言っても、はげしくつらい状態がまったくかわらないので、「楽しいと言えば楽しくなる」ということは、どんな状態でも成り立つことではないということを、学習してしまうわけ。「ちがう」ということが、いやおうなく、わかる。わかるようになる。ちがうということを、繰り返し、繰り返し、学習してしまう。
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「自分だけが苦労したと思ってんのか?」という質問に関しては、もう、すでに述べたので、そこのところを読んでくれ。