家族が、知らんぷりで、自分がこまることをやっているということが、どういうことなのかわかってないなぁ。しかも、それが、普通の家の人は、やらないことなのである。普通の家ではありえないことなのである。普通の家ではありえないことを、きちがい家族が、毎日あたりまえのようにやってる。こっちがこまっているということを、認めない。よその家じゃ、絶対にありえないような異常な行為を、毎日あたりまえのように、長時間やっている。これで、生活がくるっていく。そして、みんな、「そんなのは関係がない」と言うのだ。「俺だって苦労した」「だれだってつらい」と言うのだ。けど、その人たちは、きちがい的な家族と、いっしょに住んでない。一秒も、いっしょに住んだことがない。学校や職場で、きちがい的な人にこませられるだけだろ。しかも、きちがい的な人が、「公的な場で」きちがい行為をするなら、「みんな」見ている。「みんな」知っている。けど、「うちのなか」だと、そうじゃないんだよ。「みんな」見てない。「みんな」知らない。
「みんな」きちがい家族による騒音を、聞かされてない。聞かされてないんだよ。どういう生活になるか、わかってない。
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何度も言うけど、きちがい家族と一緒に住んだことがないから、きちがい家族がだす騒音を経験してない。一秒も経験したことがない。普通の家族がだす騒音と、きちがい家族がだす騒音はちがう。やっているときのきちがい感覚がちがうから、ちがう。質、量、ともに、ちがう。
やられたことがないから「そんなのは関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「過去は関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うのだよ。やられたことがないから「みんな、つらい」と一般化して言うんだよ。やられたことがないから「できると言えばできる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「できると言ったってできない」ということを、思い知らされてないだけなんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族にやられたことがないから、「暗いことを考えなくても、暗いことが起こる」ということが、わかってないんだよ。思い知らされてないんだよ。