きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、ほんとうにひどいんだよ。よそのうちでは、絶対に一日に一分間だってなってないような音で、ずっと鳴っているんだよ。でかい音で鳴っているわけ。至近距離で聞かされるぼくには、無視するという選択肢はない。そりゃ、放射能をあびれば、放射能を浴びたというとになる。放射能を浴びているけど、無視すれば、放射能をどれだけ浴びても、浴びていないということになる……わけじゃない。もちろん、きちがい兄貴は、気持ちがいいから、どでかい音で鳴らしているわけ。だから、放射能とはちがうということになるのだけど、ぼくにとっては、放射能とおなじなんだよ。耳栓をしたって、きつく手で、両耳をふさいだって、「ものすごい音」でヘビメタ騒音がせめてくる。けど、きちがい兄貴は、「しずかな音で鳴らしている」と思っている。「普通のよくある音で鳴らしている』と思っている。その自己催眠の効果が、みごとなので、ほかの人が、ぼくのことを疑うようになってしまのである。「そんなでかい音で鳴っているわけがない」「そんなでかい音で鳴っているのに、ほかの家族が注意しないなんておかしい」と思うわけ。だから、ぼくが嘘を言っていると思っている人は、ぼくのいろいろなことをうたがって、解釈をつくりだすようになる。「ほんとうは、お兄さんは、普通の音で鳴らしているのに、神経質なエイリが、うるさいと言っているだけだ」「ほんとうは、そんなにでかい音で鳴らしてないのに、エイリさんが大げさに言っているだけだ」ということになってしまうのである。疑いを持った普通の人の頭のなかではそうなってしまう。そして、ヘビメタ騒音の結果、無職になれば、「無職になったいいわけをしている」「お兄さんの騒音のせいにしている」と思うわけ。どれだけ、いろいろなことで、うたがいをもたれるか、きちがい家族……きちがい兄貴とおなじように、きちがい的な意地で、きちがい的な音を鳴らし続ける家族と……一緒に暮らした人じゃないと、わからない。その人が、ほかのところで、どれだけいい意思をもっていたとしても……その人が、俺のことをうたがって、いろいろなことを誤解してしまうということになれば、その人は、ぼくにとって、悪い意思をもっているということになる。その人が、、どれだけいい性格をしていたとしても……俺のことをうたがって、いろいろなことを誤解してしまうということになれば、その人は、ぼくにとって、「悪い性格の人だ」というとになる。そりゃ、そうだろ。悪意のかたまりのような存在になる。どれだけ誤解してるんだよ!と言って、なぐりたくなる。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴自身を、うまい具合にだましているので、俺がほかの人から、うたがわれるようになるのである。そして、ほかの人は、実際に、きちがい兄貴のような家族に、騒音で、虐待されたことがないので、実際に経験してないという意味で、きちがい兄貴のような家族が出す、騒音が、どれだけ、「やられているほうの」すべての能力に影響をあたえるかということが、わかってない。わかっていなければ、これもまた、「ない」のとおなじなんだよ。だから、よその人は、やられてないという意味で、普通に、やられた俺の「分量」を無視する。「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、同質の、同量の騒音があったということになってしまうのである。その人の頭のなかでは、そうなる。
きちがい兄貴自身の「矛盾した部分」が、よその人たちの思考に「矛盾」としてあらわれてしまうのである。 矛盾を解決しようとすると、俺の言っていることを信じないという解決方法を思いつくのである。そして、それは、経験則から言って、ありえないことなので、エイリが「うそを言っている」と決めつけてしまうのである。いったん決めつけたら、俺が妄想の持ち主だから「ものすごい音のでかさでヘビメタ騒音が鳴っていた」と妄想を言っていると思ってしまうのである。そうなると、ぼくが、実際には、兄貴がやっていないことについて、兄貴に関して、文句を言っているということになる。そういう意味で、「人のせいにする人だ」ということになってしまうのである。「宿題ができない」ということも、お兄さんのせいにしているだけだということになってしまうのである。「勉強するができない」ということも、お兄さんのせいにしているだけだということになってしまうのである。妄想をもっているエイリが、ただ単に浪人しているだけなんだということになってしまうので。もうそうをもっているエイリが、ただ単に、無職になっただけだと思ってしまうの出る。けど、そういうふうに言う人たちだって、実際に、おなじ質の、おなじ分量のヘビメタ騒音相当の騒音を、あれだけの時間、毎日毎日浴びせられたら、「宿題ができなくなる」し「勉強することができなくなる」し「(入学試験に失敗して)浪人するようになる」し「(働けなくなって)無職になる」のである。ところが、自分のことじゃないからわからない。自分の経験ではないので、実際の「影響」がまったくわかってないのである。相手の身になって考えるということが不得意な人は、「自分だってそのくらいやれたら、働けなくなる」とは考えずに、「自分だったら、そのくらいやられても働ける」と軽く考えて「人は働くべきだ」と言ってくるようになるのである。