長時間通勤をずっと毎日やっていると、つかれる……。けど、言霊主義者なら「つかれない」と言えば、それで、つかれないからだになるので、つかれないのだ。「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのだから、「つかれた」と思うたびに「元気だ元気だ」と言えば、元気になって、つかれなんて感じないのだ。どうして、言霊主義者なのに、言霊で、長時間通勤でつかれるという問題を、解決しようとしないのだ。言霊が、たよりにならないから、言霊で解決しようと思わないのだろ。「元気だ元気だ」と言っても、たまりにたまったつかれがとれないから、「元気だ元気だ」ということで、たまりにたまったつかれを、どうにかしようと思わないのだろ。つかれていれば、つかれていると感じる。人間身体をもっていれば、そうなる。つかれていると感じている状態が自分にとって不都合なら、「元気だ元気だ」と言って、問題を解決してしまえばいいのである。あるいは、つかれているので、ミスをするという場合も、「元気だ元気だ」と言って、問題を解決してしまえばいいのである。「元気だ元気だ」と言って、自分を蚊つれていない状態にすれば、ミスが減る。そもそも、「自分はミスをしない」とひとこと言えば、ミスしないようになるのである。どれだけつかれていても、ひとこと「自分はミスをしない」と言えば、ミスしない自分になれるのである。言霊主義者なら、「自分はミスをしない」と言って、ミスをしないようにするべきだ。
話はもどるけど「元気だ元気だ」と言えば、元気になるという認識はどこから生まれたのかということになる。たぶんだけど、「中立的な状態で元気だ元気だと言ったら、なんとなく!元気になったような気がした」という経験をとおして、「元気だ元気だ」と言えば、元気になるという認識が生まれたのだ。あるいは、たぶん、「元気だ元気だと言えば、元気になる」ということを、師匠が言ったので、「元気だ元気だ」と言えば、元気になると認識したのだ。けど、しんどいつかれが、毎日、長期的にたまる場合は、「元気だ元気だ」と言ったって、元気にならない。「中立的な状態」で「元気になったような気がした」だけだ。ちゃんとつかれる理由が外的に存在して、なおかつ本人が、その理由で疲れていると認識している状態で「元気だ元気だ」と言ったわけではないのだ。自分がほんとうにつかれている状態で「元気だ元気だ」と言ったら、ほんとうに、まったくつかれを感じていない状態になったというわけではないのだ。ほんとうにつかれているとき、「元気だ元気だ」と言ったら、言う前より「なんとなく元気になったような気がする」というレベルの話なのだ。ほんとうに「つかれ」を解決するような影響がないのだ。けど、それを、どんな状態でも「元気だ元気だ」と言えば元気になると、まちがって認識してしまったのだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」という文は、「どんな状態でも、元気だ元気だと言えば元気になる」という文と、意味的に等価だ。どれだけつかれていようとも、「元気だ元気だ」と言えば、そのつかれをまったく感じない状態になるのだ。そのくらい、「元気だ元気だ」と言うことには、チカラがあるということだ。影響力ということを考えると、「元気だ元気だ」と言うことには、つかれを吹き飛ばしてしまうほどの影響力があるということだ。ところが、「元気だ元気だ」と言ったって、ほんとうに(ぼろぼろに)つかれているときは、(ぼろぼろに)つかれたままなのだ。それを知っているので、言霊主義者だって、ほんとうにつかれているときは、「元気だ元気だ」と言って、つかれている状態をどうにかしようとしないのだ。睡眠をとるというような現実的な方法で、つかれている状態をどうにかしようと思うのだ。現実的な問題に関しては、言霊主義者だって、言霊で、あるいは、言霊の力で、問題を解決しようとしない。
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「中立的な状態で、元気だ元気だと言えば、元気になったような気分がする」ということと「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、意味的に等価じゃない。けど、このふたつを区別しない人は、意味的な等価だと感じてしまう。あるいは、ただ単に、ちがいに気がつかない。だから、おなじものだと認識してしまう。