きちがい親父からしょうじたことが、全部いやだ。きちがい兄貴からしょうじたことが全部いやだ。
全部、いやだ。全部、ぶち殺したいほど、腹がたつ。全部、おなじ。
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きちがい親父は、怒り狂ってはねのければ、それで、まったく関係がない人になってしまう。きちがい兄貴は、怒り狂ってはねのければ、それでまったく関係がない人になってしまう。どれだけ、こっちがこまるか。こんなの、怒り狂って殺さなかったら、ずっとやれるだけになってしまうだろ。あいつらは、きちがい的な意地でやるのに、きちがい的な意地でやったことは、全部やってないことになっている。
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それで、きちがい親父がネズミを入れたことで、発生したことが、またいやなんだよ。いまだって、腕をダニに刺されている。きちがい親父がやったことを、きちがい親父が死んだ後に、あるいは、きちがい親父が入院しているときに、対処しなければならなくなるのだけど、それがまた、きちがい親父から派生したことというのは、いろいろな問題がしょうじることになっているんだよ。俺がやらなくていいと言ったことを、やっちゃうようなやつが工事をすることになる。これ、家がふるすぎて、ふるい家のことがわかっている人じゃないとだめなのだ。考え方が、むかしの人だから?一度関係ができたら、自分が好きなようにやってあげるのがいいと思っているところがある。やるなと言ったことは、やらなくていいのに、やるなと言ったことを、やってしまう。信用が置けないので、ほかの人に頼もうかなと思って見つもりにきてもらったら、見積もりにきた人が、蚊に刺されたと文句を言う。これだって、俺がずっと、親父に言っていたのに、もっとひどい状態だったのだ。ダニのことで文句を言われることは想定していたけど、竹は、一度きれいに切ったので、竹のことで文句を言われると思ってなかった。丈は、背丈が三〇センチぐらいになっていた。切るまえは三メートルあった。「これで切ったというのか?」と怒って言いやがる。「切ったんだよ」と俺がこたえた。ともかく、イレギュラーなことばかりで、ほんとうにいやになる。門だって、ほんとうはなおしたいけど、門をなおすとなると、ガスボンベが通らなくなるのだ。全部がつむようにできているんだよ。この、ネズミの侵入というのは、ほんとうに親父らしいことなんだよな。普通の人は、二三(にじゅうさん)時間、なにもかけないで、魚の切り身を出しっぱなしにしない。これも、どれだけ、言っても、きかないのだ。やめない。毎日、魚の切り身を二三時間ぐらい、テーブルの上に置いておくということにこだわって、そうする。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、これとまったくおなじだ。宿題をしなかったことで俺が文句を言われる。みんな、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしているかわからないから、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。「できないのだ」と言ったって、相手は認めない。その相手だって、詩文がきらいな音をあの至近距離で、あの音の出かされで鳴らされたら、宿題なんてできないのに、それがわかってない。しかも、鳴っているときだけではなくて、鳴り終わったあとも、できないのだ。けど、実際にやられたないやつは、これもわからない。「鳴り終わったらできるだろ」と思ってしまう。これも、午後一一時一〇分までやられたとき、どういう状態になっているか、自分のからだでわかってないから、好き勝手なことを、想像で言ってくることになる。
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きちがい兄貴が、きちがい行為を、きちがい行為だとわからずに、やりきると、俺がほかの人から文句を言われるようになるんだよ! そして、ほかのやつは「人のせいにしている」と言い出す。宿題ができなかったことを、兄のヘビメタ騒音せいにしているというのだ。屈辱。しかも、こういうことを言ったやつが、俺を特別に侮辱しようと思って、わざと言っているのではなくて、ほんとうにそう思って言っているのだ。こういう、バカの壁。未経験者の壁。このバカの壁。こいつらも、認めないという点では、頑固だ。きちがい兄貴とおなじだ。できなくなるのに、できなくなるということを認めない。自分なら、そんな騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできると思っている。鳴ってない時間ならできると思っている。できないんだよ。これは、できない。どれだけ、がんばってやろうとしてもできない。何時間もきちがい騒音にさらされて、からだがボロボロになっている。脳みそがボロボロになっている。そして、ほとんど、眠れないまま、次の日の朝になってしまう。そういうことの繰り返しでいいわけがない。
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ともかく、きちがい兄貴の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。他人は、たしかに、きちがい兄貴ではなくて、きちがいヘビメタを鳴らしてない。けど、俺を侮辱している。
ともかく、きちがい親父の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。波紋のように広がっていく。
きちがい兄貴の頑固な行為やきちがい親父の頑固な行為が、いろいろな、トラブルを引き起こす。他人とのトラブルの原因になっている行為を、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがい的な意地でやめない。そして、他人は、きちがい兄貴ときちがい親父の「きちがい的な意地」に関して、無頓着なのだ。わかってないからわかってない。他人は、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから、きちがいというものが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をやるのかわかってない。まったくわかってない。「言えばいいでしょ」という意見なのだ。他人は、簡単に考える。言って解決するなら、とっくに解決している。
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ちなみに、「できると言えばできる」というようなことを言う人も、まったくわかってない人なんだよ。こいつらの、妄想的な思考というのは、ほんとうに、腹がたつ。
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きちがい親父、きちがい兄貴、きちがい親父の行為とはまったく関係がない人、きちがい兄貴の行為とはまったく関係ない人が、次から次へと、俺をくるしめる。きちがい兄貴が、うちでやることなんて、ほかの人にはわからない。ほかの人はほかの人の基準でものを言う。そして、その基準が、うちのなかでは、妄想なのである。まったく現実的ではない、妄想なのである。うちのなかでは、世間の常識のほうが、妄想なのである。きちがいがどれだけの意地で、きちがい的に矛盾があることをやるか、みんな、わかってない。きちがい的に矛盾があることというのは、きちがい的な意地でやったのに、本人は、まったくやってないつもりでいるということだ。きちがい兄貴や、きちがい親父が、気がついてないのである。こんなの、普通の人が想定して考えられることではない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。やってないことにしてしまう。そして、きちがい的な意地で、頭がおかしいことをやりきる。「やったって、やってない」のだ。そういう、きちがい的なやり方で、自分の欲望を満たそうとする。そういうきちがい的なやり方で、自分がやりたいことをやる。そういうきちがい的なやり方で、「やってはいけないこと」をやり通す。それで、「やったって、やってない」という感覚で生きている。それで、「やったってやってない」という気持ちで生きている。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、常識的に考えれば?……これは世間の人の常識と一致しているのだけど……常識的に考えればやっちゃいけないことなんだ。きちがい親父の、魚を出しっぱなしにする行為だって、くさいわけだから、やっちゃいけないわけなんだよ。くさいということを認めたくない場合は「くさくない!!!くさくない!!!くさくない!!!」と怒り切って、やり通すんだよ。そして、たとえば、自分が入院して、もう、くさい魚を出さなくていい状態になったら、「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」と命がけで、叫ぶ。おなじなんだよ。否定のしかたがおなじなんだよ。この「皿なんて出してない」というのは、自分が皿を出したということを認めると、まずいから、そういうふうな気持になって、事実を頭のなかで書き換えて、叫んでいるんだよ。わかるかな? くさい魚を出しっぱなしにして、ネズミを入れたということを、認めたくないんだよ。そうなったら、事実をくつがえして、否定する。そのときはそのときで、「皿なんて出してない」という気持でいっぱいなんだよ。皿というのは、もちろん、魚をのせた皿のことだ。
ヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、「でかくない」と思うんだよ。そうしたら、自分はでかい音で鳴らしているわけではないといういいわけが頭のなかにできるんだよ。そうしたら、きちがい的にでかい音でずっと鳴らしきることができるようになる。きちがい的にでかい音で、ずっと鳴らしたって、きちがい的にでかい音でずっと鳴らさなかったということになってしまうのである。どうしてそうなるかというと、無意識的には、ヘビメタの音が猛烈にでかい音だということを強いっているからだ。ヘビメタの音が迷惑な音だということを知っているからだ。自分が、意識のレベルで、迷惑な音だということを、認めてしまったら、自分が思ったとおりの音で、鳴らせなくなってしまうのである。だから、無意識的なレベルで、聴覚にかかわる認知を書き換えて、「でかい音じゃない」ということにしてしまうのである。そして、一五年間、それで毎日やりきるのである。その一五年間のあいだは、ずっと、きちがい的にでかい音で鳴らしたのである。それは、認めないのである。意識的には、でかい音で鳴らしてないことになっている。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしてないということにしてしまったのである。そういう、感覚のゆがみが常にあるんだよ。そして、そういうやり方で、押しとおしてしまう。そんなの、他人にはわからない。きちがい家族と一緒に暮らしてない人にはわからない。でかい音で鳴らしていればでかい音で鳴らしているということが、わかるはずだということになっている。もしわからないのであれば聴覚に異常があるからわからないのだということになっている。
やりきって、やりきって、きちがい的な意地でやりきって、認めないのである。きちがい的な意地でやりきったということを、きちがい的な意地で認めない。本人が認めなかったら、ほんとうに、本人のなかでは、やってないことになっているのである。
こまるんだよ。こまるんだよ。こういうやり方だとこまるんだよ。こまるんだよ!