きちがい兄貴の騒音で「不可避的に」ダメになっているのだけど、ほかの人には「不可避的に」ダメになっているようには見えなぃ。「そんなのは、自分なら平気だ」「騒音が鳴ってたんでしょ」というレベルの理解でしかない。しかし、自身に騒音体験があるので、「騒音が鳴っていると不愉快に感じる」という理解ある。けど、それは、騒音に対する理解であって、きちがい兄貴の、きちがい的な騒音に対する理解じゃない。けど、その人たちは、騒音に対する理解ときちがい的な騒音に対する理解はおなじものだと思っている。だから、こっちが、どれだけ説明しても溝が埋まらないということになる。
きちがい兄貴がやっていることであって、理解がない一班人がやっていることじゃない。ようするに、無理解ぶりを発揮する人が、やったことじゃないのだ。だから、無理解ぶりを発揮している人が、ヘビメタ騒音を鳴らし続けて、ぼくをくるしめ続けたわけじゃない。けど、ヘビメタ騒音に対する理解がないのである。騒音に対する理解があるけど、きちがい兄貴による、きちがいヘビメタ騒音に対する理解が、まったくないのである。影響を無視する。きちがい家族による騒音というものを経験したことがないので、経験的には、まったくわかってない。だから、影響のでかさは、まったくわかってない。影響を無視するのである。けど、こっちの身の上には、きちがい家族によるきちがい騒音の持続があり、その影響を無視できないのである。たとえば、一般人と話しているときも、その影響下にあるのである。ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の影響下にあるのに、一般人のほうは、まったく影響下にないのである。そして、「つらい」とか「つらさ」とか「しんどい」とか「しんどさ」という抽象的な言葉を使った話になってしまう。けど、ヘビメタ騒音特有の、つらさに対応するつらさが、相手の側にはないのである。ヘビメタ騒音特有の、しんどさに対応するしんどさが、相手の側にはないのである。もちろん、相手の側がなんか特殊な病気になっていて、なおかつ、ぼくの側にその病気の経験がないなら、おなじことが成り立つ。立場は逆だけど、おなじことが成り立つ。