ほんとうに、俺の一生はなんだったんだ? ほんとうに、きちがい兄貴は、こだわってなかった。こだわりきってやってたけど、毎日、まったく気にしてないんだよね。どれだけ言われても、非常識なことをやっているということがわからない。やっていいことをやっているという態度だ。自分だって、ほかの音で一分間、聞かされたら、めちゃくちゃに頭にくるような大音響なのに、大音響で鳴らしたければ、それが、普通の音になってしまう。普通の音で鳴らしているのだから問題がないと思って、まったく気にしない。そういう態度だった。でっ、こっちは、こまりまくるんだよ。実際に毎日やられたことがない人にはわからないかもしれないけど、すべてにつながってしまう。そして、たとえば、言霊主義者は「できると言えばできる」と言い、受け止め方主義者は「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。しかし、しかし、しかし、そんなことは、できない。きちがい兄貴がモラルをまもらずに、普通の人が、「やるべきではないと考えているからやらないこと」を、やりきる。言霊主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。受け止め方主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。自分たちが言っていることなんて、しないし、できない。けど、自分が実際に経験してないから、子どもっぽい性格な人は、「俺なら平気だ」「わたしなら平気だ」と考えて、そういうことを言う。これ、ただ単に、子どもっぽいから、わかってないだけなんだよ。あるいは、ただ単に、経験がないからわからないだけなんだよ。あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う。えらそうなことを言ってくる。実際の、ぼくの状態というのは、そういう状態ではないのである。ぼく(エイリ)の話を聴いて、「この人(エイリ)は、このくらいの騒音にさらされて、うるさいと思っているんだな」と彼らが、思ったような状態ではないのである。けど、どれだけ言ったって、そりゃ、わからない。実際にやられてないから、わからない。どれだけ、あの時間帯の、あの音のでかさの、あの至近距離の騒音が、からだ全体に影響をあたえるかわかってない。
これを言うと、また問題があるのだけど、率直に言って、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくができないと思っているからできないと言って、ぼくのことを悪く言うのだ? どうして、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくが受け止め方をかえればいいと言うのか?