2024年9月30日月曜日

「瞬間移動のことなんて言ってない」

 自分ができないと思っている範囲では、「言ったことが現実化する」ということは、ない……と思っているのだ。AさんとBさんがいたとする。Aさんは、「言えば、言ったことが現実化する」と、普段、言っているけど、瞬間移動ができるとは思ってないない。だから、瞬間移動できると言えば、瞬間移動できるようになると思っていないのだ。しかし、「言えば、言ったことが現実化する」いう文は、瞬間移動するということまで、含んでいる。なんで、瞬間移動することを除外するのか? 瞬間移動だって、瞬間移動できると言ってしまえば、言ったことのなかに含まれるのである。しかも、法則性について語っているのである。Aさんにかぎらず、言霊主義者は、宇宙をつらぬく法則性について語っているのである。なんで、「自分」が「できない」と思うことは、除外するのだ? 「自分」が「できない」と思うことも、言えば、言ったことのなかに、含まれる。除外できない。

Bさんは、ボロボロにつかれはてて、元気だと言っても元気にならないとする。しかし、Aさんは、Bさんがボロボロにつかれはてているということを、認めないのである。Aさんにとっては、Bさんも、「元気だと言えば」元気になる人なのである。どうしてかというと、言霊が成り立っているからだ。Aさんは「言ったことが現実化する」と思っていて、なおかつ「言葉には言霊が宿っていて、言霊の神秘的な力によって、言ったことが現実化する」と思っているからだ。 言えば、現実化するのである。どれだけつかれていても、「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのである。元気だ元気だと言ったのに、元気にならないことはないのである。楽しい楽しいと言えば、楽しくなるのである。楽しい楽しいと言ったのに、楽しくならないということはないのだ。ようするに、「できる」と思っていることについて、語っているのだ。無意識的に?できないことは、無視している。だから、「瞬間移動なんてできるわけがない」「瞬間移動のことなんて言ってない」と言い出すのだ。しかし、Bさんにとっては、つかれはてているとき、元気だ元気だと言うことで、元気になるということは、瞬間移動ができないのとおなじぐらいに、できないことなのだ。「できないこと」として想定されている範囲がちがうだけのことなのである。これは、Aさんが思っている「できること」の範囲と、Bさんが思っている「できること」の範囲がちがうということを意味している。Aさんは、勝手に、「元気だ元気だと言えば、言霊の力によって、元気になる」と思っているだけなのだ。しかし、そんなAさんも「瞬間移動できると言えば、言霊の力によって、瞬間移動できるようになる」とは思ってないのだ。だから、Aさんは、ほんとうは「言えば、言ったことが現実化する」とは思ってないのだ。しかし、Aさんが、じつは自分ができることの範囲を事前に決めていて、「言えば、言ったことが現実化する」とは思ってないということに、気がついてない。自分のことなのに、ぜんぜんわかってない。自分の考えなのに、前提となる範囲について、誤解をしているのである。ようするに、「言ったことが現実する」と言っているときは、それは、どんなことにも成り立つと思っているのである。けど、「瞬間移動」という具体的な例をあげられると、Aさんも、「瞬間移動なんてできるわけがない」と考えてしまうのである。Aさんも……じつは、「瞬間移動できると言っても、瞬間移動なんてできるわけがないだろ」と思っているのである。ようするに、意識はしないけど、無意識的には「言えば、言ったことかが現実化する」とは考えていないのだ。すべてのことに成り立つことだと、意識的には考えているけど、無意識的には、すべてのことに成り立つわけではないと考えているのだ。Aさんは、考えている。

*     *     *

手短に言うと、「できること」の範囲がちがうのである。手短に言うと「できないこと」の範囲がちがうのである。頭のなかで考えている「できること」の範囲がちがうのである。そして、Aさんのような言霊主義者は、無意識的には「できない範囲」についてわりと、現実的に考えているのだけど、意識的には「できない範囲」について、現実的に考えていないのである。意識的には「言えば、現実化する」と思っているのである。もちろん、「おカネがわきだす」とか「自分の銀行口座に、一億円、振り込まれる」というようなことは、含まれていない。けど、文としては、含まれているのである。だから、Aさんにかぎらす、言霊主義者は、自分が頭なかで思っている「できる範囲」と「できない範囲」が、その都度ちがうということになる。そして、ちがうのだということに、まったく気がついていない。

*     *     *

他人のことについては、自分のことではないので、できない理由がわからないのである。他人には、できない理由がある場合がある。けど、他人のことなら、無視できる人は、他人の理由を無視して、「できると言えばできる」ということを言ってしまう。ほんとうは、法則性がないのに、法則性があるようなことを言ってしまう。「これが真理だ」と言ってしまう。「これが、宇宙をつらぬく真理だ」と言ってしまう。けど、そんなことを言っている本人が、「言ったって、できないことはできない」と思っているのだ。 本人が、自分の矛盾に気がついていないから「これが真理だ」「これが、宇宙をつらぬく真理だ」と思っているだけだ。いいかげん、気がつけ。

「どんな条件だって」

「どんな条件だって」という言葉のなかに、「条件がない」ということが、含まれているかどうかということが重要だ。「どんな条件だって」という言葉のなかに「条件がないという条件が含まれている」と考える場合と、「条件がないのだから、条件がない場合は、条件があるとは言えない(だから、どんな条件だってという場合の、条件のなかには、条件がないという条件は含まれない)」と考える場合とでは、イコールになるかどうかがちがってくる。集合の大きさが、イコールになるかどうかということだ。とりあえず、「どんな条件だって」という言葉のなかに「条件がないという条件が含まれている」ということにして、語ってきた。「意味的に等価である」と言う場合は、「条件がないという条件が含まれている」という考えにしたがうことにする。

努力論は、カルト理論だ

努力論の「努力が足りなかったんだ」という言い方は、言霊理論の「言い方が悪かったんだ」という言い方と位相が、おなじ。まず、「努力をすれば、成功する」と言っておく。次に、相手が、成功しなかった場合は、「努力が足りないから成功しない」と言う。「努力をすれば、成功する」というのが、カルト理論なのである。妄想が前提に横たわっている理論なのである。妄想が、前提に横たわっているという点では、言霊理論と、かわりがない。努力論は、カルト理論だ。ほんとうは、カルト理論なんだけど、実際に努力すればできるようになることがあるので、みんな、気がつかない。カルト的な部分があることに、気がつかない。言っておくけど、「努力をすれば、成功する」ということと、「努力をすれば成功することがある」ということは、ちがうことだ。「努力をすれば、成功する」ということと、「努力をすれば成功する場合がある」ということは、ちがうことだ。「努力をすれば、成功する」いう言葉のなかには、「努力をしても成功しない場合がある」ということは、含まれない。

瞬間移動できないのは、あまえ

瞬間移動できないということに、こだわっているから、ダメなんだ。瞬間移動できないというこだわりをすてれば、瞬間移動できるようになる。瞬間移動できないのは、あまえ。できないと言うから、できない。できると言えば、できる。

なにもない空間から一〇〇万円、わきだすと言えば、わきだす。わきださないと思っているから、ダメなんだ。一〇〇万円、わきだすと言えば、一〇〇万円、わきだす。できないというのは、あまえ。できないというこだわりをすてれば、できるようになる。

*     *     *

瞬間移動できると言えば、瞬間移動できるのに、どうして、瞬間移動できると言って、瞬間移動しようとしないのか?

やってみるということが、重要。やらないで、あきらめて、どうする。まず、やることが必要。人の言うことを、素直に聞くということが重要。トライもしないで、あきらめるのか?

できるわけがないと思っているから、できないんだよ。

2024年9月29日日曜日

どんだけの、ほかの人にはない、苦労がつみかさなるか、ほかの人には、わからない。

 きちがい兄貴の「わからなさ」というのが、ほんとうに、病的なわからなさ、なのである。きちがい親父の「わからなさ」というのが、ほんとうに、病的なわからなさなのである。この二人のような人間は、そんなにはいない。非常にレアな存在だ。だから、ほかの人のうちには、めったにいないタイプの人間だということになる。だから、きちがい兄貴やきちがい親父のやることが、ほかの人には……多くのほかの人には、わからないのである。そして、これが肝心なことなのだけど、きちがい親父はきちがい親父が、きちがい的な意地でやったことについて、まったく無頓着で、まったくわかってないし、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が、きちがい的な意地てやったことについて、まったく無頓着で、まったくわかってない。どんだけの、ほかの人にはない、困難がつみかさなるか、ほかの人には、わからない。どんだけの、ほかの人にはない、苦労がつみかさなるか、ほかの人には、わからない。

俺は、死にたくなるような気持ちをがまんして、ずっと動いてきた。

 あんまり、言いたくないけど、まだ、頭にダメージが残っている。痛いわけじゃないけど、いやな感じがある。もう、つかれたなぁ。いまさっき、下におりていったら(一階に行ってみたら)畳の上で、ゴキブリが死んでいた。まあ、ネズミよりはましなんだけどさ。

しかし、つかれた。生まれたときから、きちがい的な父にやられて、くるしかった。不愉快だった。きちがい的な父が、生前やったことが、ネズミやダニに影響をあたえている。いまだに、俺は、ダニに刺されている。ネズミの糞対処をしなければならない。粗大ごみ業者の人がダニに刺されることを気にして、粗大ごみ業者の人を呼べない。

ほんとうは、引っ越すはずだった。もっともっと前に引っ越すはずだったのだ。けど、シェディング(トランスミッション)の関係で引っ越せなくなった。理由は、トランスミッションだけではない。けっきょく、だるい。だるくて体が動かせないときがある。もう、ちょっとした作業が、死にたくなるほどいやなのだ。俺は、死にたくなるような気持ちをがまんして、ずっと動いてきた。

2024年9月28日土曜日

言霊主義者だって、言霊で、あるいは、言霊の力で、問題を解決しようとしない。

 長時間通勤をずっと毎日やっていると、つかれる……。けど、言霊主義者なら「つかれない」と言えば、それで、つかれないからだになるので、つかれないのだ。「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのだから、「つかれた」と思うたびに「元気だ元気だ」と言えば、元気になって、つかれなんて感じないのだ。どうして、言霊主義者なのに、言霊で、長時間通勤でつかれるという問題を、解決しようとしないのだ。言霊が、たよりにならないから、言霊で解決しようと思わないのだろ。「元気だ元気だ」と言っても、たまりにたまったつかれがとれないから、「元気だ元気だ」ということで、たまりにたまったつかれを、どうにかしようと思わないのだろ。つかれていれば、つかれていると感じる。人間身体をもっていれば、そうなる。つかれていると感じている状態が自分にとって不都合なら、「元気だ元気だ」と言って、問題を解決してしまえばいいのである。あるいは、つかれているので、ミスをするという場合も、「元気だ元気だ」と言って、問題を解決してしまえばいいのである。「元気だ元気だ」と言って、自分を蚊つれていない状態にすれば、ミスが減る。そもそも、「自分はミスをしない」とひとこと言えば、ミスしないようになるのである。どれだけつかれていても、ひとこと「自分はミスをしない」と言えば、ミスしない自分になれるのである。言霊主義者なら、「自分はミスをしない」と言って、ミスをしないようにするべきだ。
話はもどるけど「元気だ元気だ」と言えば、元気になるという認識はどこから生まれたのかということになる。たぶんだけど、「中立的な状態で元気だ元気だと言ったら、なんとなく!元気になったような気がした」という経験をとおして、「元気だ元気だ」と言えば、元気になるという認識が生まれたのだ。あるいは、たぶん、「元気だ元気だと言えば、元気になる」ということを、師匠が言ったので、「元気だ元気だ」と言えば、元気になると認識したのだ。けど、しんどいつかれが、毎日、長期的にたまる場合は、「元気だ元気だ」と言ったって、元気にならない。「中立的な状態」で「元気になったような気がした」だけだ。ちゃんとつかれる理由が外的に存在して、なおかつ本人が、その理由で疲れていると認識している状態で「元気だ元気だ」と言ったわけではないのだ。自分がほんとうにつかれている状態で「元気だ元気だ」と言ったら、ほんとうに、まったくつかれを感じていない状態になったというわけではないのだ。ほんとうにつかれているとき、「元気だ元気だ」と言ったら、言う前より「なんとなく元気になったような気がする」というレベルの話なのだ。ほんとうに「つかれ」を解決するような影響がないのだ。けど、それを、どんな状態でも「元気だ元気だ」と言えば元気になると、まちがって認識してしまったのだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」という文は、「どんな状態でも、元気だ元気だと言えば元気になる」という文と、意味的に等価だ。どれだけつかれていようとも、「元気だ元気だ」と言えば、そのつかれをまったく感じない状態になるのだ。そのくらい、「元気だ元気だ」と言うことには、チカラがあるということだ。影響力ということを考えると、「元気だ元気だ」と言うことには、つかれを吹き飛ばしてしまうほどの影響力があるということだ。ところが、「元気だ元気だ」と言ったって、ほんとうに(ぼろぼろに)つかれているときは、(ぼろぼろに)つかれたままなのだ。それを知っているので、言霊主義者だって、ほんとうにつかれているときは、「元気だ元気だ」と言って、つかれている状態をどうにかしようとしないのだ。睡眠をとるというような現実的な方法で、つかれている状態をどうにかしようと思うのだ。現実的な問題に関しては、言霊主義者だって、言霊で、あるいは、言霊の力で、問題を解決しようとしない。

*     *     *

「中立的な状態で、元気だ元気だと言えば、元気になったような気分がする」ということと「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、意味的に等価じゃない。けど、このふたつを区別しない人は、意味的な等価だと感じてしまう。あるいは、ただ単に、ちがいに気がつかない。だから、おなじものだと認識してしまう。

2024年9月27日金曜日

「ちゃんと言わないからダメなんだ」

 きちがい的な父や、きちがい的な兄にやられると、ほかのやつから、ぼろくそに言われるようになる。えらそうなことを言われる、はめになる。

きちがい的な父や、きちがい的な兄を、殺さなければ、解決できない状態なのに、「ちゃんと言わないからダメなんだ」と言われる。

どれだけ、ちゃんと言ったって、相手がきちがいなら、相手は、きちがい感覚で反応して、「ちゃんと言えばえられる結果」なんて、かえってこない。

きちがい的な父や、きちがい的な兄にやられてないやつは、「ちゃんと言えばえられる結果なんて、かえってこない」ということが、根本的に、わからない。だから、自分がまちがった発言をしたとは思わない。

*     *     *

きちがい的な家族にやられた場合、世間の人の反応というのは、こういう反応だ。ほかのすべてのことで、こういう反応が……こういうレベルのまちがった反応がかえってくる。無理解ぶりを発揮している。これは、経験がないからわからないというレベルのあやまちだ。

そのあやまちは、きちがい的な家族のあやまちとは、ちがう。だから、きちがい的な家族と、世間の人は、ちがう。あやまちのレベルがちがう。あやまちがしょうじるしくみがちがう。

けど、世間の人は、きちがい家族について、なにも理解してない。

世間の人たちに、こういうことを言うと、「俺と、そのきちがい兄貴が、いっしょだと言うのか」と言う人がいるわけだけど、いっしょではない。ちがう。あきらかに、ちがう。だから、人間として、おなじような性格をしていると言っているのではない。

兄と世間の人が、人間として、おなじような性格をしていると、ぼくが言っているわけではない。

ただ、理解がないということが、おなじなのだ。理解がないという点においておなじだけど、性格がおなじだと言っているわけではない。世間の人があやまちをおかすしくみと、兄があやまちをおかすしくみがちがうのである。

けど、世間の人は、兄のしくみがわからないので、「俺と、そのきちがい兄貴が、いっしょだと言うのか」と言ってくることがある。ぼくに言ってくることがある。ぼくが言っていることを、世間の人は、完全に理解してない。

*     *     *

ちなみに、きちがい的な家族が、ときを選んで、適切なときにきちがい行為をするのかというと、それはちがう。ずっと、きちがい的な頭を搭載して生きているので、ずっと、きちがい行為をやるのである。

不適切なときも、きちがい行為をやるのである。これがもたらす効果というのが、尋常じゃないのだ。こっちは、きちがい家族の行為でこまっているのに、そのきちがい家族が、頑固に認めないで、こまっているときに、さらにきちがい行為をする。

こういうことがつくりだす「切羽詰まった気持ち」というのは、ない。半端じゃない。尋常じゃない。

じゃあ、その「切羽詰まった気持ち」が、世間の人にわかるのかというと、わからない。

世間の人だって、切羽詰まった気持ちは経験したことがあると思う。

けど、きちがい家族によって、切羽詰まった気持がしょうじるということは、きちがい家族と一緒に暮らしている人にしかないことなんだよ。世間の人は、きちがい家族と一緒に暮らしているわけではない。

世間の人が感じる、切羽詰まった気持ちと、きちがい家族と一緒に暮らしている人が感じる切羽詰まった気持ちは、ちがう。そして、頻度もちがう。ぜんぜんちがう。

出来事と関係なく、「気持ち」が存在しているわけではないのである。

過去の出来事と関係なく「気持ち」が存在しているわけではないのである。

過去の出来事と切り離された「気持ち」を想定して、アホなことを言うのは、やめろ。

これ、精神世界の人が良くやることなんだよ。そうやって、精神世界の人が、きちがい家族にやられた人をせめて、きちがい家族にやられた人を、さらに追い込むことになるのである。

こっちが、現実だ。これが、現実だ。

精神世界の人は、アドバイスをしているつもりになっているかもしれないけど、不適切な発言だ。世間の人も、きちがい家族に関しては、精神世界の人とおなじようなレベルの理解しかない。だから、精神世界の人も世間の人も、まちがったことを言うことになる。

2024年9月25日水曜日

俺の人生はなんだったんだ?

 きちがい兄貴は、ほんとうに、つもりがなかったんだな。あんなに、きちがい的な意地で、いつもいつもやって、絶対にゆずってくれなかったのに、つもりがない? 一五年間やりきったあとに、「すまん」とひとこと言えば、それですむのか?

俺の人生はなんだったんだ?

どいつもこいつも、俺が普通の騒音にさらされたのだと思うのだ。ちがうね。うちは、幼稚園のとなりだから、ずっと、普通の騒音よりでかい騒音にさらされている。けど、きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすまでは、普通の人とおなじぐらいしか、騒音でこまったことがなかったのである。限度を超えている。きちがい兄貴のヘビメタは、いつもいつも、限度を超えている。どれだけ、俺が「きちがい兄貴のヘビメタは、いつもいつも、限度を超えている」と言ったって、ほかのやつらは、まるでまるで、理解しない。こいつらもこいつらで、兄貴とおなじように、理解しないということも理解しないという状態で、理解しない。

普通の気分で暮らしていて、「うるさいときがある」ということではないんだよ。どんだけ、切羽詰まった、めちゃくちゃな気分か、ぜんぜんわかってないなぁ。

こっちの問題は、現実の問題なんだよ。

  じつは、わかいころ、本屋さんに行ってた頃の夢を見た。閉店間際なんだけど、参考書を探していて、その参考書がないというような感じだ。あーー。こうやって書くと、なんでもないことなんだけど、あのときの、雰囲気といったらない。ヘビメタ騒音にやられて、ものすごく、くるしかった。ヘビメタ騒音が鳴っている毎日というのが、どれだけつらいか、みんな、わかってない。ヘビメタ騒音が鳴っている毎日というのは、ただ生活しているだけで……めちゃくちゃにストレスがたまる生活なのである。あの、気持ちは……ない。あの暗い気持ちが、どういうものだか、みんなわかってない。問題の張本人が、まったく気がついてない状態だからな。気がついてない状態で、がんがん鳴らしまくる。この鳴っている時間というのは、たしかに腹立たしい時間なんだけど、それ以外に、超・うつ病・うつ状態のような憂鬱がある。切羽詰まって、やりきれない状態になっている。自殺を考える状態になっている。発狂しそうな、腹立たしい状態で、不安で切羽詰まって自殺を考えている……。常に毎日、何時間も何時間も、そんな状態が続いていいわけがない。けど、鳴っていると、鳴っているあいだそういう状態なのである。鳴り終わったら、怒りの状態……音によって、発狂するほど腹がたつわけなんだけど……強制的に腹がたつわけなんだけど……そういう怒りの状態はぬけるのだけど、もともとある、超・うつ病・うつ状態のような憂鬱がある。切羽詰まって、やりきれない不安が残る。どっちにろ、暗黒。

強制的にそうなってしまうというのが問題なんだよ。きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で、強制的にそうなってしまうんだよ。言霊論者の「できると言えばできる」というような状態ではない。これ、言霊主義者は気がついてないけど、自分だって、ほんとうにだるいときは、できないのだ。それだけじゃなく、「言ったって解決しないこと」に関しては、最初から、言霊的な解決方法をこころみようともない。本人が、自分が言ったって、どうにもならないことは、言霊で解決できると思ってないから、言いもしないということに、気がついてない。言霊主義者の言っていることは、牧歌主義的なところがあって、切羽詰まった問題をかかえている人には、まったく無意味なのだ。言霊主義者は、「人の問題」に関しては、理解力が極端にさがるので、妄想的なことを考えてしまう。「言えば、問題が解決する」と思ってしまう。まあ、言霊主義者に対する、いらだちのようなものがあるんだよ。それは、きちがいヘビメタ騒音に、ほんとうに、毎日やられたからだ。きちがい兄貴がこの世に存在せず、至近距離で、毎日、自分の嫌いな音を、大音響で聞かされることがなかったら、言霊主義者が、どれだけ牧歌的なことを言ってたって、まったく問題を感じなかった。言霊主義者が、どれだけ、矛盾した行動をしていても、まったく問題を感じなかった。言霊主義者は、切羽詰まった状態を無視しやがるのである。こっちの問題は、現実の問題なんだよ。

2024年9月24日火曜日

努力論は悪い条件下の人を、さぼり魔にしてしまう。

  努力論は、努力をしたかどうかだけを問題にする。努力という変数だけが、結果を決めるのである。なので、条件とか、状態というのは、関係がないということになる。認知症でも、努力をすれば、複雑な仕事ができるようになるのである。努力をしないから、複雑な仕事ができないのである。努力だけが問題なのだ。あるいは、努力の量だけが問題なのだ。認知症かどうかということは関係がない。認知症の程度も関係がない。ただ、努力をしたのかどうかということが問題になる。できないのであれば、努力が、足りなかったということになるのである。あれは、あとだしだ。複雑な仕事ができないのであれば、努力をしなかったということになる。あるいは、努力の量が、足りなかったというとになる。このような妄想的な理論が、正しい理論として流通していると問題がしょうじる。たとえば、認知症になったから複雑な仕事ができなくなった人もいるわけだ。しかし、努力論にしたがえば「認知症でも、努力をすれば、複雑な仕事もできるようになる」ということになる。「その人が、努力をしなかったから、複雑な仕事ができない」ということになるのである。ようするにその人が、努力不足だから、できないのだ。そして、たとえば、努力論にしたがえば……努力をすれば、認知症はなおるのである。なおらないのであれば、それは、努力が足りないから、なおらないのである。「努力が足りないから、認知症のままなのだ。認知症をなおすような努力をすれば、なおるのに、努力をないからダメなのだ」ということになる。なおらなければ、努力が足りないだけなのである。努力が足りない人のことを、さぼり魔だというのであれば、さぼり魔だから、認知症がなおらないのである。努力論は悪い条件下の人を、さぼり魔にしてしまう。

別に、認知症だということに「こだわっている」から、できないわけではない

 認知症だけど、自分が認知症だと思っていない人について考えてみよう。

まず、認知症になったのは、認知症になると思ったから、認知症になったのか?

ちがう。

自分が認知症だという認識がないのだから、認知症になると思ってないことがわかる。もちろん、過去において、「認知症になる」と思って、現在、過去において認知症になると自分が思ったことを忘れてしまっている場合はある。

けど、認知症になると思ったから、認知症になったのではなくて、脳の機能が阻害されたから、認知症になったのだ。

認知症になるメカニズムは、ひとつではない。「症」と言っているように、ただたんに、そういう症状を呈しているということにすぎない。理由は、いくつかあり、別々の理由で、そのような症状を呈しているだけだ。

思霊にチカラがあって、そのチカラによって、認知症という症状が出ているわけではない。ほかにちゃんと理由がある。理由のプロセスがある。ここで言う、プロセスというのは、時間的な経過のことだ。

思霊思考ではなくて言霊思考なら、「認知症になる」と言ったから、認知症になったという説明になる。言霊はない。言霊の不思議な力によって、認知症ではない人が認知症になったわけではない。

あとは、「認知症だとこだわっているから、認知症になる」という言い方や「認知症にこだわっているから、仕事ができないままなのだ」という言い方について考えてみよう。

病識がない人は、「認知症にこだわってない」なのに、認知症になっている。こだわっているから認知症になるわけではない。病識がない人は、認知症にこだわっていない。

けど、認知症だ。

「認知症にこだわっているから、仕事ができないままなのだ」ということは成り立たない。

「認知症にこだわっているから仕事ができないのであり、認知症に対するこだわりをすてれば、仕事ができるようになる」という考えたはまちがっている。

こだわりをすてたって、認知症なら、仕事ができない。程度によるので、だましだまし、仕事を続ける場合があるかもしれない。けど、程度による。認知症だとできない複雑な仕事は、認知症だとできない。

別に、認知症だということに「こだわっている」から、複雑な仕事ができないわけではない。認知症だということにこだわっているからできないのであれば、認知症だということに対するこだわりをすてれば、認知症でも、複雑な仕事ができることになる。しかし、認知症だというこだわりをすてても、認知症であれば、複雑な仕事は、できない。

矛盾している。

その人がこまっている、その状態を、「こだわっている」と評して、こだわっているからダメなんだというやつがいるけど、こいつは、自分でインチキをしていることがわかってない。思考的なトリックがある。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが「こだわっているからダメな人たちがいる」と考えているとする。Bさんが認知症だとする。Aさんは「Bさんが認知症だということにこだわっているから、ダメなんだ」と言うのだ。Aさんの主張にしたがえは、Bさんが、(自分が)認知症であるというこだわりをすてれば、だめじゃなくなるのである。たとえば、認知症であるというこだわりをすてれば、仕事ができるようになるのである。

ところが、Bさんが、認知症であるというこだわりをすてたって、認知症である以上は、仕事ができない。

だから、認知症だということにこだわっていることが問題なのではなくて、認知症だということが問題なのだ。認知症であるということが、問題を引き起こしている。Bさんが問題を引き起こしてこまるのは、Bさんと、Bさんの仕事にかかわった人たちやBさんの相手をしていた人たちなのだけど、Aさんは、こういう問題が「こだわり」によって引き起こされると勘違いしているのだ。だから、Bさんが「こだわり」をすてれば、問題が解決するはずなのである……。Aさんの主張にしたがえば、そういうことになる。

世の中には、自分が認知症であるという自覚をもってないけど、認知症である人がいる。その人は、最初から、当然「こだわり」なんてもってない。「自分が認知症である」と思ってないのだから「自分が認知症であるということにこだわり」をもてるはずがない。こういうケースがあるのだから、「こだわり」が問題を引き起こしているわけではないということがわかるはずだ。

けど、たとえば、認知症ではなくて、バカの場合はどうか? 本人が「俺はバカだ」と思てっいるとする。そして、「バカだからできない」と思っているとする。Aさんのような思考スタイルをもった人は、「バカだからできない」ということにこだわりわっているからダメなんだと言い出す。「自分はバカだ」という「こだわりをすてれば」バカだということに悩まずにすみ、バカだというこだわりからしょうじる(とAさんが見なしている)問題が発生しなくなるのだ。けど、実際には、「バカだからできない」といっている人が、バカであるというこだわりをすてても、状態がかわらない。「バカだからできない」といっている人は、なにかができないと思って悩んでいる。たとえば、じゃあ、仕事でいいや。自分はバカだから仕事ができないということで、悩んでいるとする。Aさんのような人は「バカだというこだわりをすてれば、仕事ができるようになる」ということを言うのだ。とりあえず、バカだ思っている人をCさんだとする。Aさんが、Cさんの状態を見て、Cさんが「自分がバカだということにこだわっているから、ダメなんだ」と思っただけなのである。Aさんは、評価する側。Cさんは、評価される側だ。Aさんが、「こだわりに問題がある」と思っただけなのだ。Cさんがこまっていることは、そういうことではない。Cさんは、現実世界において、自分の理解力がたりなくて、こまっていることで、こまっているのだ。この場合、Cさんが実際にそのように感じているということが重要なのだ。そして、その認識は、Aさんの認識よりは、あっていることが多い。Aさんが勝手に、Cさんのこまった状態の根源は、「Cさんが自分がバカだということにこだわっていることだ」と思っただけなのである。けど、これが、勘違いなのである。Cさんが「こだわり」をすてても、Cさんの状態というのは、かわらない。

たとえば、Dさんが慢性疲労症候群だとする。Dさんは、自分が慢性疲労症候群であるから、仕事ができないと思っている。けど、それを、Aさんが「Dさんは、慢性疲労症候群だということにこだわっているからダメなんだ」と評価するのである。Aさんのなかでは、「こだわり」がだめなのだから、「こだわり」をすてれば、Dさんの問題は解決するということになる。たとえば、Dさんが「慢性疲労症候群でこまっている。慢性疲労症候群だから、仕事ができない」ということを、何回か言っていたとする。その様子をAさんが見て、Dさんは、自分が慢性疲労症候群だということに「こだわっている」と評価しただけなのである。「自分が慢性疲労症候群だということにこだわっているからダメなんだ」とAさんが勝手に思っただけなのである。Aさんから見て、Dさんが「こだわりをすてた状態」というのが、どういう状態なのかはっきりしないけど、たぶん、Dさんが「慢性疲労症候群でこまっている。慢性疲労症候群だから、仕事ができない」ということを口にしない状態なのだろう。「慢性疲労症候群でこまっている。慢性疲労症候群だから、仕事ができない」と言わなくなっても、慢性疲労症候群で仕事ができないなら、慢性疲労症候群で仕事ができないという(デーさんの)状態はかわらない。だから、問題は解決しない。Aさんという勘違い野郎が、勝手に、「Dさんは、慢性疲労症候群にこだわっている」と評価して、勝手に「こだわりをすてれば、問題が解決する」と思っているだけなのだ。

「腰痛は、あまえ」「あまえたことを言うな」 「老化は、あまえ」「あまえたことを言うな」

 たとえば、言霊おじさんだって、としをとって、もう自分のからだが思うように動かなくなったので、この仕事はできないと思うことができる。自分の場合は、理由がはっきりしているので、妄想思考が出てくる余地がない。ところが、ひとごとだと「できないと言うからできない。できると言えばできる。やればいい」と言うわけ。「できないと言うからできない」と判断しているわけ。自分のことなら、としをとって、もう昔のようには動かないからできなくなったということを感じるわけ。感じていれば、まちがわないわけ。けど、ひとごとだと「としをとったということにこだわるからダメなんだ。こだわりをすてればできる。やればいい」と言うわけ。

たとえば、たとえば、言霊おじさんだって、腰がいたくなる病気になったら、もう腰がいたいから、この仕事をするのはむりだと思うわけ。自分の場合は、理由がはっきりしているので、まちがった理由を想定してものを言わない。「腰がいたくてできないと言うからできない」のか? ちがう。腰がいたいからできない。「腰がいたい」ということにこだわっているから、できないのか? ちがう。腰がいたいから、できない。いちいち、まちがった理由を想定してものを言うのは、相手に失礼だからやめたほうがいい。

「腰痛は、あまえ」「あまえたことを言うな」 

「老化は、あまえ」「あまえたことを言うな」

自分のことではなくて、エイリのことなので、簡単に無視できる。

  ほんとうに、おまえら、あの状態がどういう状態なのかまったくわかってないなぁ。ほんとうに、おまえら、鳴り終わったあとの状態が、どういう状態なのか、まったくわかってないなぁ。あんなことを、毎日やられ続けて、通勤できるからだが維持できるわけがないだろ。あんなことを毎日、ずっとずっとずっと、やられて、通学できるからだが維持できるわけがないだろ。あんなことを、やられて、維持できるわけがない。維持できるわけがない」と思ってないのは、実際に、きちがい家族による、しつこいしつこいしつこい、騒音を聞かされ続けた経験がないからだ。きちがいが、どういう感覚で、鳴らしているかまったくわかってないなぁーー。きちがいの特殊なこだわり方が、まったくわかってないなぁーー。きちがいの、手前勝手な、言い分がまったくわかってないなぁ。これ、わかってないという点では、きちがい兄貴とおなじだ。まあ、もちろん、きちがい兄貴がやったことであって、ほかの人がやったことじゃない。ほかの人が、こっちの状態を無視して、ずっと、鳴らしてはいけない騒音を鳴らし続けたわけではないということだ。それは、知っている。それは、理解している。けど、ヘビメタ騒音の影響を無視するな。影響をうけるということを無視するな。これ、勝手に無視して、「平気だ」ということにして、くそを言ってくる。

無視すれば……影響を無視すれば、影響がないことになるので、俺のからだが現在、過去のヘビメタ騒音の影響をうけてないということになってしまうのである。そいつから見ると、そうなる。そうなると、エイリは働ける体だということになるのである。あるいは、エイリは通勤できるからだだということになるのである。「どうして、エイリが働ける体なのに、働かないのか?」……「それは、エイリがあまえているからだ」……ということになってしまうのである。理由付けとして、エイリの意識に問題があるというとになってしまうのである。

ブジョク、ブジョク。ふざけるな。こいつらはけっきょく、きちがい家族がいない。きちがい家族が、きちがい的な感覚で、爆音を鳴らし続けたのでこまったという経験がない。言っておくけど、きちがい家族による騒音だからな。これ、普通の人の騒音じゃないんだよ。普通の人は、そんな音で鳴らさないし、自分がでかい音で鳴らしていれば、いやでも、でかい音で鳴らしているということを認識してしまう。ところが、きちがいだと、よその人が鳴らさないような非常識な音で鳴らしてしまうし、でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているという認識がまったくしょうじないという状態で、鳴らし続けるということになってしまう。だから、そういうきちがい家族による騒音を経験したことがない人は、経験がないので、それがどういう影響をあたえるか、根本的に、わかってない。自分が根本的にわかってないことは、簡単に無視できるので、無視してしまう。自分のことではなくて、エイリのことなので、簡単に無視できる。どういうからだの状態になるかなんて、一日分ですら、経験してない。五〇〇〇日つもったとき、どういうからだの状態になるかということが、根本的に、わかってない。経験がないからまったくわかってない。こいつらもこいつらで、わかってないということがわかってないのだ。「俺だって苦労した」とひとこと言えば、俺がヘビメタ騒音で経験した苦労とおなじ量の苦労をしたということになってしまう。ところが、ちがうのだ。こいつらが想像できないような苦労を、した。こいつらが想像できないような苦労が、きちがいヘビメタ騒音によって、実際に、俺の身の上に、もたらされた。事実だ。

*     *     *

こだわるという言い方にもちょっと言及しておく。こだわるという言い方をするやつも、じつは、影響を無視している。こいつは、エイリではないので、エイリが経験したヘビメタ騒音を経験してない。あるいは、エイリが経験したヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない。こいつが、ヘビメタ好きだととくに、無視しやがる。それは、自分が好きだから、たいして苦に感じないのだ。自分がヘビメタが好きだから、ヘビメタ騒音と言われても、ピンとこないのだ。あるいは、想像力がたりないから、自分がきらいな音が、大音響で鳴っているところを想像できない。こいつらは、自分の身に置き換えて考えるというとが、苦手なので、どうしても、あいての身の上に起こったことは、過小評価してしまう。無視してしまう。影響を無視するなと言っているだろ。影響を無視したので、過去において、ヘビメタ騒音がどれだけ鳴ってたとしても、働けるのである。エイリは働けるという前提でものを言っている。エイリが働けないと言っているのは、エイリがヘビメタ騒音にこだわっているからなのだ……。これも、まちがった思考だ。こういうろくでもない考え方しかないやつが、「こだわっているからダメなんだ」という言い方をする。とてつもなく、失礼。ブジョク!ブジョク!ブジョク!

ほんとうは、通勤して働けるのに、ヘビメタ騒音にこだわっているから、働けないと思っているだけなのだ……という解釈が頭のなかに成り立っている。けど、この解釈はまちがっている。ヘビメタ騒音にこだわっているからではなくて、ヘビメタ騒音の影響が実際にあるから、働けないのだ。「こだわっているから働けない」……「こだわをすてれば働ける」……。頭が悪いのか、性格が悪いのか、よくわからない。ともかく、まちがった考え方が前提に横たわっている。どうして、そうやって、人を侮辱するような解釈を思いつくのだ。

悪意はないのだろうけど、誤解がある。まちがった前提がある。しかも、「まちがった前提がある」と思ってないわけだろ。いやだなぁーー。こういうの……。

きちがい兄貴にやられれづけると、こういうやつらに、へんなことを言われることになる。きちがい兄貴にやられなかったら、こんなことを、言われなくてもすんだ。

こいつらだって、こいつらにとって、きらいな音をずっと聞かされ続けたら、通勤して働けない状態になる。こいつらだって、「きらいな音にこだわっているからダメなんだ」と言われたら、腹がたつと思うよ。原因についてまちがった考えをもっているやつの発言というのは、人を傷つける。どんだけ、不可避的に影響が出るか、まったくわかってない。まったくわかってないやつらの、クソ発言。

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということと、「過去は関係がない」ということは、両立しない

 基本的なことを言っておこう。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということと、「過去は関係がない」ということは、両立しない。「楽しい楽しい」と言ったという過去の出来事が、現在の気持ちに影響をあたえるということを言っているのだから、この場合も、過去は関係がある。楽しい楽しい」と言ったあと、楽しく感じるわけだから、過去の出来事に対応して、自分の感情が動ている。過去の出来事と、現在の自分の感情は、関係があるのである。「楽しい」の「た」を言いはじめたときから、「楽しく」感じることがあるかもしれない。その場合は、「あと」ではないということができる。「楽しい楽しい」と言い終わったあと、楽しく感じる場合ではなくて、「た」と言ったときに、楽しく感じているわけだから、「楽しい」と言い終わってない。だから「言ったあと」楽しく感じるわけだからと言う部分がまちがっていると主張する人がいるかもしれない。けど、その場合も、たとえば「た」と言ったとき、想起があり、想起の結果、楽しくなったのである。時間的には、過去だ。それなら、「たと言えば、楽しくなる」と彼らが主張しているかと言うとそうではないのだ。「たと言えば、楽しくなる」では、普通の場合、意味が通じない。なんらかの想起があり、想起の結果、楽しくなったのだから、時間的に過去の出来事が、現在の感情に影響をあたえているのである。その線は、かわらない。

「た」と言うことにしろ「楽しい」と言うことにしろ、それはもう、過去の出来事なのである。現在進行形でも、すでに進行したことは、過去の出来事なのである。なんらかの言葉を発すること、あるいは、発したことが、現在の感情に影響をあたえるのであれば、それは、現在よりも過去の出来事が、現在の感情に影響をあたえということになるのである。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということと、「過去は関係がない」ということは、両立しない。

2024年9月23日月曜日

足のひっぱられ方がちがうんだよ

 どれだけ、精神的にも、体力的にも、学業的にも、足をひっぱられるか、わかってないやつらが、好き勝手なことを言う。きちがい家族にやられると、好き勝手なことを、言われる立場になる。不可避的だ。しかも、ほんとうに、「どれだけ、足をひっぱられるか」ほかの人、まーーーったく、まーーーったく、わかってないのである。この基本構造だけでも、腹立たしい。腹立たしい。きちがい兄貴は、俺にどれだけはじをかかせれば気がすむんだ。きちがい構造で無視しやがる。きちがい構造で、俺がどれだけこまっているか、無視しやがる。きちがい構造で、詩文がどれだけでかい音を鳴らしているか、無視しやがる。無視したら、どれだけ、がむしゃらに、言うことをきかないで、やってたって、やってないということになる。この構造……。きちがい親父がつくりだした構造だけど……。きちがい兄貴がそっくりそのままおなじなんだよね。きちがい兄貴ときちがい親父が、まったくおなじ構造をもっている。四人家族で、ふたりがきちがいと言うことが、どういうことなのか、ほかのやつらはまったくわかってない。きちがい家族が、どんな方法で、足をひっぱるのか、ほかのやつらは、ぜんぜんわかってない。けっきょく、きちがい家族がいないから、きちがい家族にやられたことがない。きちがい家族にやられたことがなくても、普通に生きていれば、そりゃ、苦労をする。けど、その普通の苦労と、きちがい家族にやられた苦労は、ちがう。足のひっぱられ方がちがうんだよ。土台を破壊されてしまう。「努力をすることが大切」ということになっているけど、「努力をしようにもできない状態になる」。そういうレベルで、足をひっぱられる。ハンディのでかさが並じゃないのである。すべてに影響をあたえる。

 

きちがい家族による騒音が、どれだけ、足をひっぱるか、ほかのやつらはまったくわかってない。 

*     *     *

たえるだけで、すべての「努力体力」を使ってしまうのである。そして、マイナスだ。赤字続き。容赦なく、きちがいが鳴らす。マイナス。赤字続き。発狂的な意地で、がんばってがんばって、普通以下になってしまう。自分の普通以下という意味だ。これ、ほんとうに、すさまじいマイナスなのである。きちがいヘビメタなしで、さぼってさぼって、さぼりきっているほうが、一〇〇万倍、ましなのである。どれだけ、努力をしても、マイナス、マイナスの連続で、赤字がつもっていく。だから、一〇〇日目には、一〇〇日分つもった状態なのである。一〇〇〇日目には、一〇〇〇日分つもった状態なのである。過去は関係がないなんて言ったやつは、ほんとうに、ぶんなぐってやりたい。そういう発言をすること自体、無理解だということを露呈している。まったく、状態がわかってないから、そういう発言ができる。わかってないことの証明。けど、『わかっている』『理解した』と言いやがるんだよ。「騒音が鳴ってたんだろ。そんなのわかっている」……。おまえの理解は、そういう理解だ。騒音が鳴っていたということは、認識したのだろうけど、騒音の影響はまったく認識してない。そういうレベルの理解だ。そして、「俺だって騒音はあった」とか「俺だって苦労した」とかと言えば、それで、影響までわかったつもりになる。ほんとうに、そういうことを言うやつが、くそなんだよ。

*     *     *

「努力できなかった」のか「努力した」したのか、どっちかという問題について語っておこう。「努力できなかった」の努力は、普通の努力だ。前向きの努力なんだよ。普通の状態でできる、前向きの努力だ。きちがいヘビメタにやられると、普通の努力はできなくなる。普通の状態で前向きの努力をすることだ。ぼくがヘビメタ騒音のなかでやったのは、たえる努力だ。ヘビメタ騒音にたえて、生活する努力だ。ヘビメタ騒音にたえて、生きる努力だ。ヘビメタ騒音にたえて、生きるだけで、すべての力を使っている状態なのだけど、当然、マイナスが、つみあがる。

特殊な兄弟に特殊なことをやられてこまっているのに、常識的な判断をして、くそを言ってくるやつが多かったな

 ほんとうに、人が、特殊な兄弟に特殊なことをやられてこまっているのに、常識的な判断をして、くそを言ってくるやつが多かったな。その常識的な判断というのが、まちがっているんだよ。根本的に、おおきく、おおきく、まちがっているんだよ。けど、「まちがっている」ということを、常識的な人たちは、常識的な人たちで、絶対に認めようとしないのである。だから、無理解ぶりを発揮して、まちがった前提に立ってまちがったことを言うことになるのである。必然。必然。けど、常識てな人たちのほうが多い。そりゃ、特殊な兄弟にやられた人のほうが少ない。どうしてかというと、特殊な兄弟が少ないからだ。自分がでかい音で鳴らしたいから、無意識的なレベルででかい音で鳴らしているということを、無視してしまうような特殊な兄弟なんて、そんなにいるわけがない。そして、おなじ構造をもっている父親。おなじ構造なんだよ。どれだけ、こまるか、常識的な人はわかってない。

2024年9月22日日曜日

わからないで、クソを言うな。

 小学六年生のときから、ヘビメタ騒音で、毎日がズタボロだった。これ、ほんとうに、死ぬか生きるかの問題なのである。ものすごく、くるしい時間なのである。ものすごく、くるしい時間がずっと続いた。鳴っている間続いたし、鳴り終わったあとも続いた。ほかの人は「鳴り終わったあとも続く」ということがわからない。鳴り終わったら、おしまいだと思う。鳴り終わったら、その瞬間に、騒音の影響がなくなると思っている。けど、それは、ちがう。きちがい家族による騒音の場合、鳴り終わっても、ずっと影響が残る。一日のなかでもそうだし、一生のなかでもそうだ。

基本、小学六年生のときから、ヘビメタ騒音で、毎日がズタボロだと、基本的な体力や睡眠力がなくなる。そして、満足な学歴や普通の職歴がなくなる。これは、必然なんだよ。おなじ状況なら、だれもがそうなるんだよ。けど、やられてないやつは「自分なら平気だ」「自分ならどうにかできる」「自分なら、そのきちがい兄貴をしずかにさせることができる」と思っている。だから、「自分なら平気だ」という前提でものを言う。この前提は、語られるときもあるし、語られないときもある。あまりにも、ごく自然にそう思い込んでいるので、自分がそう思っているという自覚がない場合もある。

ともかく、十数年も続くと、通勤して働けない状態になる。通学できない状態になる。これが、「がんばった」結果なのだ。死にものぐるいの努力の結果なのだ。これ、そうするしかないから、そうしたのだ。これも、きちがい野郎だと……あるいは、想像力がない人だと、あとだしで、「努力の方向がまちがっている」と言う。言ったりする。これがまた、腹がたつポイントなんだよな。あんなことをやられて、普通の状態でいられるわけがないだろ。前日、ヘビメタ騒音にさらされたけど、学校に行くということが、どれだけむずかしいことか、ぜんぜんわかってない。前日、ヘビメタ騒音にさらされなければ、簡単にできることなのだけど、前日、ヘビメタ騒音にさらされると、できないことになるのだ。死にものぐるいの努力なしでは、できないことになってしまう。一日だけならいい。けど、数千日続いたらどうなるか? 数千日、そういう状態で、俺は学校に通ったんだぞ。どれだけの努力が必要だったか、わからないのか? わからないで、クソを言うな。

これ、この世の『いやな経験』のひとつだ。

 理解しない他人といっしょにいて、楽しいかというと、まったく楽しくない。ぜーーんぜん、たのしくない。まーーったく楽しくない。こんなの、ない。きちがい兄貴が押し付けてきたことというのは、こういうことなんだよな。たえれば、どのみち、こういうことになる。他人というのは、きちがい兄貴のやり方を理解しない。実際に、やられたことがない。きちがい的な家族といっしょに住んでいるわけではないので、実際にやられたことがない。実際に、きちがい家族にやられたことがない人には、わからないことがある。実際に、きちがい家族といっしょに住んだことがない人には、わからない。だから、他人というのは、基本的に、きちがい家族にやられたことを過小評価したり、無視したりする。『理解した』というのは、やられたことがないやつが『理解した』ということだ。だから、『理解した』としても、理解してない。まーーったく理解してない。

過小評価したり」と書いたけど、過小評価するやつは、まだましだ。普通のやつは、完全に無視する。影響を無視する。きちがい家族というのが、背後にある問題は、きちがい家族といっしょに住んだことがない人間にはわからないことなんだよ。いっしょに住んでいるということは、一日二四時間中、二四時間、影響をうける可能性があるということなんだよ。たとえ、いっしょにいない時間も、四六時中騒音を鳴らすということだと、騒音が鳴ってない時間も影響をうける。けど、騒音が鳴ってない時間も影響をうけるということが、からだでわかってないのだ。きちがいにはきちがいのやり方がある。きちがいにはきちがいの感覚がある。普通のうちに気ちがいがいないのであれば、普通の人は、きちがいがやることがわからない。きちがいに実際にやられてなければ、きちがいがやったことが、どれだけ影響をあたえるか、わからない。実際に、経験しないと、そのつらさがわからない。

むしろ………。たとえば、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言われることは、「負の体験」なんだよ。これ、言っているほうは、いいことをしたと思っているんだろ。正しいことをしたと思っているんだろ。いい助言をしたと思っているんだろ。そんなの……。こんなの……。こんなの、きちがいヘビメタから「押し出される」もうひとつの「悪い体験」なんだよ。悪い体験を付与している。こいつらがやっていることというのは、きちがい家族にやられた人間に対して、無理解という攻撃をくわえるということだ。これ、攻撃なんだよ。攻撃のつもりはないかもしれないけど、攻撃なんだよ。そして、きちがい家族にに、きちがい的なやり方で、やられたことがない人と、きちがい家族にゆちがい的なやり方でやられたことがある人のあいだには、ものすごい、溝がある。家族!なんだよ。家族。家族と言うことが問題なんだよ。家族と言うことが問題なんだということも、こいつらは、まったくわからない。わかるわけがない。そうすると、普通の家族といっしょに暮らしてきた常識で、ものを言うということになる。これが、どれだけ、ずれた発言か、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、わからない。わからない。

*     *     *

きちがい家族にやられてない人はわからないと思うけど、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言われることは、ものすごくいやな体験がみっつ、くわわったということだ。これ、いい体験じゃないのである。これ、言っているほうは、元気づけるつもりなんだろ。あるいは、常識的な考えを、自分のなかで納得するように言っているわけだろ。これ、「ジタイ」のほうが、異常なのだから、常識的な発言は、非常識な発言になる。これ、ほんとうは人間の真理を無視した発言なのである。「ジタイ」というのは、経験したこと自体ということだ。こっちが経験したこと自体だ。かけことばで「事態」という意味もある。

*     *     *

「いい体験じゃない」と言ったところでわからないかと思う。そりゃ、こんなことを言うやつらにわかることじゃない。わかることじゃないということはわかるけど、言っておく。これ、負のストロークなのである。これ、この世の『いやな経験』のひとつだ。きちがいヘビメタ騒音から、ほぼ不可避的に発生してしまう、いやな出来事のひとつだ。人生が楽しくないとか、この世の暮らしが楽しくないということについて、言っておこう。こういう負のストロークが増えるから、楽しくないというところがある。もちろん、基本は、きちがいヘビメタ騒音で生じたのである。けど、きちがいヘビメタ騒音をあびると、必然的に生じてしまうとことが、ほかの人にはわからない。わからないのがスタンダードなのだ。ときどき、ヘビメタ騒音をあびていないにもかかわらず、ある程度理解してくれる人がいるのだけど、その人たちは、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」なんてことは言わない。これ、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言うことで、どれだけ、人を傷つけているのかわからないのかね? 無理なことを言っているんだよ!! まあ、わからないか。

 *     *     *

きちがい兄貴が、きちがい行為を夢中になってやる。毎日、すべての時間を使って、きちがい行為をやる。きちがい行為の影響をうける。どうしたって、うける。ところが、やられてない人は、影響をうけてない。やられてない人は、自分のからだで、どういう影響があるのか、確かめてみたわけではない。けど、きちがい家族におなじことをやられてない人だって、そりゃ、この世に生きていれば、いやなことは、いっぱい経験する。苦労もしたのだろう。けど、その苦労は、きちがい家族によって生み出される「毎日の」苦労ではないのだ。だから、ともかく、きちがいヘビメタ騒音のことは、わからない。普通の人は、経験がないので、どういう影響が出るのか、わからない。わからないまま、「そんなのは関係がない」と言う。もちろん、「自分なら、影響をうけないで暮らすことが可能だ」という前提がある。その前提がまちがっているのだけど、経験がないから、前提がまちがっているということが、根本的に、わからない。だから、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい行為をすると、ぼくが、ほかの人から、必然的に誤解されるようになる。

それから、この世の出来事というのは、基本的な感情に影響をあたえる。この世の出来事が、不愉快なことばかりだったら、やはり、不愉快になる。きちがい的な騒音というのは、身体にひびく。ずっと、浴びせられたら、浴びせられてない時間も、ずっと影響をうける。毎日、続けば、リターン不可能な影響をうける。この「リターン不可能だ」ということも、ほかの人にはわからないけど、「リターン不可能なのだ」。リターン不可能性というなら、リターン不可能性がある。きちがい的な騒音の繰り返しは、こころの根本に、リターン不可能な影響をあたえる。けど、ほかの人は、これを、無視する。無視したということすら、意識にのぼらないレベルで、無視する。こいつらに、どれだけ「リターン不可能なのだ」と言うことを言っても、むだだ。こいつらは、こいつらで、理解しない。経験の範囲で言えば、絶対に理解しない。

『いやな経験』のひとつだと言ったけど、『いやな経験』がつみかさなることは、こころの根本に影響をあたえる。どいつもこいつも、無理難題を言ってくるのであれば……無理解ぶりを発揮して無理なことを言ってくるのであれば、それは、言われたほうは、気分が悪くなる。不愉快な経験だ。たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」などということを言うやつがいるけど、こいつは、バカだ。頭がわるい。こういうバカなやつにえらそうなことを言われる。そして、大多数が、こういうバカなやつに、賛成する。俺の側に立たない。こういう状態になる。きちがい的な家族に、やられると、そういうことになる。

ようするに、きちがい家族にやられていない普通の人が、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うたびに、いやな経験がひとつずつ、増えていくのだ。異口同音。いろいろな、異なる個人が、普通の感覚で「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うわけだから、回数が増えていくことになる。

*     *     *

 「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」だけではなくて、「過去は関係がない」ということもおなじ効果がある。基本、こいつらは、ヘビメタ騒音の影響を無視している。無視できるのは、やられてないからだ。本人がやられてないからだ。やられていたら、そんなことは言えない。

感じ方の総体と言うことを言うのであれば、まさしく、こいつらが、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「過去は関係がない」と言えば言うほど、ぼくの「楽しみを感じる回路」がこわされていくのだ。まあ、もちろん、きちがい兄貴の実際の行為によって、ぼくの「楽しみを感じる回路」というのはこわれているのだけど……すでにこわれているのだけど、なんか、後押しをする部分があるのだ。そりゃ、きちがい兄貴がやったことにくらべれば、ずっとずっとずっと、軽いことだ。一無量大数分の一なのだろう。けど、こういうのも、つもっていく。「楽しみを感じる回路」がよけいに、こわれていく。むしろ、そういう発言は、「楽しみを感じる回路」をこわす。修復しない。修復するほうの力にならない。修復する方向で後押しをするわけではなくて、破壊する方向で後押しをする。

ようするに、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言われるたびに、「楽しくない体験」が増え、「楽しみを感じる回路」がしなびていくのである。

 

 

ふざけんな!!

 俺が、ヘビメタ騒音でくるしんでいるとき、普通に勉強できたやつじゃないか。なにが、「俺だって苦労した」だ? ふざけんな!!

勉強でくるしかった? ふざけんな!!

ヘビメタ騒音でくるしい。

俺が、ヘビメタ騒音に苦しんでいるとき、普通に生活できていたやつが、なにを言うか?

どんだけ、長い間、あの生活が続いたと思っているんだ? ふざけんな!!!

こういうレベルのバカだ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で毎日、くるしかった。くるしくてくるしくて、たまらなかった。「自分なら平気だ」「自分なら影響をうけない」という前提で、説教をしてくるな!! こいつら、ほんとうに、バカ。こいつらには、バカの壁を感じる。いい気なもんだよな。きちがい兄貴に相当する人物が、家族のなかにいなかっただけじゃないか。やられたら、絶対に、影響をうける。絶対に、「できなくなる」。けど、「自分なら、鳴っていても、できなくなるということはない」という前提でものを言ってくる。「あれができない」「これができない」「そんなのはあまえだ」とやられたことがないやつが言ってくる。きちがい家族と同居したことがないやつが言ってくる。そいつの、「やられてない基準」でものを言ってくる。やられてないから、わかってないだけだろ。やられてないから、実際に、影響をうけてないだけだろ。ところが、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいある」と言ってしまえば、それで、おなじだけの騒音をあびたということになってしまう。おなじだけの苦労をしたということになってしまう。今現在、そく凡人たちが、通勤して働いているなら、それは、おなじだけの苦労したということではないということを意味している。そく凡人たちが、通勤して働いているなら、それは、おなじだけの騒音をあびてないということを意味している。ぜーぜん、ちがう。あうやつ、あうやつが、こういうレベルのバカだ。

2024年9月21日土曜日

ヘビメタ騒音なしで

 ヘビメタ騒音なしで、ちょーかわいい女の子と、つきあいたかった。ヘビメタ騒音なしで……ね。死ぬ前に思うことが「ヘビメタ騒音なしで、ちょーかわいい女の子と、つきあいたかった」なんてことかも、しれない。

2024年9月20日金曜日

雑感

 「どれだけ言っても、わかってくれない」というやつを、ダイヤでも経験した。「こっちがどれだけ言っても」……「相手はわかってくれない」ということだ。あのとき、友情回路が完全にこわれた。こころがくるしかった。きちがい兄貴が、きちがい回路を搭載して、きちがい的な音を鳴らし続けるとそういうことになる。これ、ほんとうに、人間関係に大きな影響をあたえる。オオハラさんに、プレゼントをお返しできなかったのも、きちがいヘビメタで、高校をおちまくっていたからだ。そのときの状態というのがあるんだよ。高校をおちまくっているのに、きちがい兄貴がやめてくれない。問題の根源であるきちがい兄貴がやめてくれない。これが、どういう、こころをそだてあげるか。これがどれだけ、根本的なこころに影響をあたえるか。こんなことをやられ続けて、「楽しく感じる回路」を維持できるわけがないだろ。ところが、くそ凡人は、「俺だって苦労した」と言って、「そんなのは関係がない」「過去は関係がない」と言う。これだって、きちがい兄貴が、きちがい回路を搭載せずに、やりきらなかったら……うちのきちがい兄貴がきちがいではなく、普通の人だったら、発生しなかったことなんだぞ。さらに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音でだめになると、だめになったのは、おまえのせいだと、きちがい凡人が言ってくる。自己責任。自己責任。こいつら、自分がたまたま、きちがい家族のうちに生まれてこなかっただけなのに、自分は平気だという前提で、ものを言う。不可避的にダメになるということはないという前提で、ものを言う。俺だった自分で、どうにかできたという前提でくそを言う。ほんとう、くそ。くそ凡人。

ほんとうに、どれだけがんばってもできなくなるのに、「自分ならどうにかできる」と言う前提で、そくを言ってくる。くそ凡人。きちがい兄貴がきちがいなんだよ。きちがい兄貴が、よそじゃ絶対にないことをやっているんだよ。きちがい兄貴が、よそじゃ、一五年間どころか、一日だって、絶対にないことをやっているんだよ。その人は、まったく、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされてないんだよ。音のでかさだけが問題じゃないんだよ。時間の長さ、期間の長さ、正当性が問題なんだよ。けっきょく、「よそ」じゃないから、「よそ」の人は、まったく経験してない。自分の問題じゃない。だから、ヘビメタ騒音のことを軽く考えて「自分なら、どうにかできるだろう」と思う。そして、無理を言う。こいつらだって、きちがい兄貴じゃないけど、無理を言っているつもりがない。つもりがないんだよ。バカの壁を感じる。

2024年9月19日木曜日

ヘビメタ騒音が俺にあたえた影響を、そいつは、説明を聞いたあとも、無視する。

 ほんとうに、きちがい兄貴が一日目にしずかにしてくれたら、サカマの問題だって、九号室の問題だって、発生しなかった。

ほかのやつは、きちがい兄貴が一日目にしずかにしてくれた場合と、きちがい兄貴が一〇年間、しずかにしなかった場合の区別がついてない。

どっちだって、そいつには、関係がないことだから、区別しない。

おなじことなのである。

けど、きちがい兄貴が一日目にしずかにしてくれと、そのままずっとしずかだった場合の一〇年後と、きちがい兄貴が一日目に静かにしてくれず、そのあと、ずっとうるさかった場合の一〇年後は、ぜんぜんちがうんだよ。

精神、体力、実際に発生した出来事……すべてがちがいすぎるほどちがうんだよ。

一〇年と一日目に、ぼくが、だれかにあったとしよう。一〇年間やられたぼくと、一〇年間やられなかったぼくは、立場も経歴もちがうんだよ。

学歴もちがうんだよ。精神も、体力もちがうんだよ。

けど、一〇年と一日目にあったやつにとっては、そんなのはまったく関係がないことなんだよ。たとえ、ぼくがヘビメタ騒音のことを説明したとしても、ぜんぜん関係がないことなんだよ。

なので、実際の、一〇年間毎日の、影響を無視する。ヘビメタ騒音が俺にあたえた影響を、そいつは、説明を聞いたあとも、無視する。

そいつらには関係がないけど、一日の「不快」が毎日、一〇年間、つみかさなっている。無視できる量じゃない。不快と書いたけど、これ、不快なんて、単純に表現できるものじゃないのである。これ、病気みたいなもので、身体がくるしいのである。「その時間」勉強ができないのである。ものすごく腹がたった状態なのである。ヘビメタ騒音を浴びせられると、睡眠にも、ものすごくでかい影響がでる。そういう一日なのである。発狂的な一日なのである。普通なら勉強ができる時間に、まったく勉強が出ない一日なのである。勉強してないのに、発狂的に、ものすごく、つかれまくる一日なのである。こんなの毎日続いていいわけがないだろ。

どうして、「過去は関係がない」「そんなの鳴り終わったら関係がない」と言うのだ?

こいつら、これで、はげましているつもりなんだよな。正しいことを言っているつもりだ。けど、これは、言霊理論のように、大きく、大きく、大きく、まちがっている。きちがい妄想のレベルだ。けど、このきちがい妄想が「常識」なのである。他の個体の「普通の判断」なのである。

きちがい兄貴には、きちがいの壁を感じる。強く感じる。きちがい親父にも、きちがいの壁を感じる。強く感じる。「そんなの鳴り終わったら関係がない」と言った個体には、バカの壁を感じる。強く感じる。


*     *     *

「わかってない」というのが、暴力になるときがあるんだよ。「そんなの鳴り終わったら関係がない」と言った個体のことじゃない。きちがい兄貴ときちがい親父のことだ。あいつらの「わからなさ」は暴力。殺したくなる。殺すの我慢すると、こっちの感情が、おかしくなる。たとえば、「楽しさ」を感じなくなる。「気力」がなくなる。「憂鬱」になる。まるで、病原体のような「親」や「兄」がいる。

2024年9月18日水曜日

ダメ人間

 だいじなことを教えておいてやろう。「社会」自体が、「ダメ人間製造装置」なのだ。だから、ダメ人間の数を減らしたいなら、「社会」自体がかわらなければならない。社会自体が、ピラミッド型の圧力容器になっていて、圧力容器がダメ人間をうみだす。圧力容器の圧力が高くなればなるほど、ダメ人間の数が増える。けど、圧力容器の問題には目をむけず、個人のせいにしてしまうのである。

盲点

  きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ヘビメタを鳴らし続けると、俺のことを心配してくれた良心的な人たちとも、うまくいかくなるのだ。

これは、決まっている。

どうしてかというと、これが、ほかの人たちにはわからないと思うけど、心配してくれた良心的な人たちも、けっきょくは、自分のからだで経験しているわけではなく、「根性論者」「努力論者」「言霊主義者」「思霊主義者」のようなことを、言い出すからだ。

あまりにも長いあいだ、ヘビメタ騒音が鳴っているので、ぼくは、どうしても、ヘビメタ騒音の影響をうけて、暮らしているということになる。

毎日、きちがい家族によるきちがい騒音が、鳴っているので、毎日、きちがい家族によるきちがい騒音の影響をうけている状態で、暮らすということになる。

その場合、どうしても、現実的に、実際の時間、ぼくと同じ生活をしている人と、ぼくとはちがう生活をしている人のあいだには、感覚的な差ができる。

そして、『きちがい兄貴の態度』が、あまりにも異常なので、ほかの人たちには、『きちがい兄貴の態度』の異常さがわからないということになる。

ほかの人たちは、自分の家族にはない、うちのきちがい兄貴の態度について、正確に理解することができない。

そりゃ、きちがい兄貴にしたって、本人脳みそにしたがって、自動的にそうなっているわけで、意識しているやっているわけではないのだ。

もちろん、意識して、ヘビメタをでかい音で鳴らしたくて、ヘビメタをでかい音で鳴らしているわけなんだけど、きちがい兄貴は、普通の音で鳴らしているという感覚や、認識しかないから、特別にうるさい音で鳴らしているという、感覚や認知が普通に成り立っている場合とは、ちがう行動をするのである。

そして、その部分が、ほかの人にも盲点になっているのである。

きちがい兄貴が、盲点の本体で、きちがい兄貴が盲点をつくりだしているのだけど、あまりにも完ぺきに、きちがい行為を、きちがい感覚でやってしまうので、「やってない」ことになっている。盲点の部分が見えないことになっているのだ。

そして、それが、他人にはわからない。絶対にわからない。

だから、きちがい兄貴の『実際の行動』について、ほかの人たちは、つねに、誤解をしているのである。

もちろん、きちがい兄貴も深く誤解しているわけだ。きちがい兄貴も、誤解をしているし、まったく関係がない他人も誤解をしている。

ただ、しくみがちがう。

きちがい兄貴本体の場合は、やはり、無意識的な部分に問題がある。そして、ズルを、ズルをしてないという認識のままやり続けてしまうという認知的な問題がある。

いっぽう他人は、……関係がない他人は……無意識的な部分には問題がないのだけど……経験的に、『きちがい家族』の行動についてまったく理解してないところがあるのである。

そして、『きちがい家族』が、自分の家族のなかにいないために、実際に、きちがい家族にやられ続けるということがないのである。自分の家族のなかにいないために、実際に、きちがい家族にやらたという経験がない。経験がないので、ぼくがそれについて説明をしても、あまりよくわからずに、うまく解釈できる線で考えて、けっきょく、誤解をするのである。

 

なお、「の」の重複は指摘しなくて、いい。

もし、ほんとうに、同等の騒音を経験したことがあるなら

 ともかく、頭がおかしいレベルで「こだわりつくして」鳴らした。きちがい兄貴が、鳴らした。容赦なく、鳴らした。絶対にゆずらないで、鳴らした。ゆずってくれなかった。一日に、一分だろうがちゃんとゆずってくれなかった。……これが事実だ。そして、そういう具合に、「自分がこの世で一番嫌いな音」を聞かさされづけていると、どれだけ、こころを強くもって、からだが影響をうけるのである。受けるから受ける。「受け止めようの問題だ」と言うけど、そいつは、やられてないから、そういうふうに言えるだけだ。実際に、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの至近距離で、振動込みで、聞かされ続けたら、睡眠回路も、基本的な体力もなくなる。基本的な体力がなくなって、からだを動かすことが、非常にむずかしい状態で、がんばって、からだを動かして生きているのである。みんなに、あわせて、ヘビメタ祖オウンが鳴ってないように、生活しているのである。こんなに負荷がかかった、生活をずっと毎日毎日続けて、いいわけがない。感情がこわれないわけがない。「楽しさを感じる回路」がこわれないわけがない。こいつら……やられてないやつらは、「無理難題」を言うのだけど、「無理難題」だとは思ってないのだ。どうしてかというと、実際に自分がやられてないからだ。実際に自分がそういう生活をつづけたわけではないからだ。けど、一丁前に、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのだ。ぜんぜんちがう。もし、ほんとうに、同等の騒音を経験したことがあるなら、こんなことは言ってない。そして、もし、ほんとうに、同等の騒音を経験したなら、その人も通勤して働ける体ではなくなっているはずだ。ようするに、普通意味で職歴がない状態で、生きているはずだ。そうではない状態で生きているなら、それは、同等の騒音ではなかったということだ。同等の騒音を経験したことがないということだ。同等の苦労ではなかったということだ。

「楽しさを感じる回路」がこわれてないやつが、「俺だって苦労した」と言う。その苦労は、楽しさを感じる回路をこわすほどの苦労じゃないということだ。通勤ができ、楽しさを感じる回路がこわれないやつが経験した苦労なんて、たいした苦労じゃない。同等の苦労を経験したら、「楽しさを感じる回路」がこわれているので、「ほんとうにつまらないやつは、つまらないつまらないといっているやつだ」というようなことを言えるはずがない。「楽しさを感じる回路」がこわれてない状態で、「俺だって苦労した」と言ったって、まったく意味がない。本人は、エイリよりすぐれていると思ってるかもしれないけど、ただ単に、経験したことがちがうだけだ。

どうしてなら、働ける体だったからだ。

 きちがい家族に、騒音でやられると、働けないからだになる。けど、きちがい家族に、騒音でやられたことがない人は、それがわからない。きちがい家族に騒音でやられたことがない人が、働けるなら……かろうじて働ける場合も含むのだけど……働けるなら、ごく自然に、働けないエイリをバカにしてくることになる。ようするに、きちがい兄貴がきちがい感覚で鳴らして、親父がそれを黙認した時点で、ぼくが、「よそのやつ」「ヘビメタ騒音にやられてないやつ」にバカにされることは決定していたのだ。そして、原因をつくっていたきちがい兄貴が、このことについて、一番無頓着なのである。二番目は、きちがい親父だ。この両方……きちがい兄貴と、きちがい親父が、普通の人間だったら、ぼくは、「よそのやつ」に、バカにされることがなかった。どうしてなら、働ける体(からだ)だったからだ。

2024年9月16日月曜日

けど、影響を無視しているという「一点」はおなじだ

「ヘビメタ騒音のしんどさ」ということを言っても、ヘビメタ騒音に毎日、一四年と数か月間さらされたことがない人には、そのしんどさがわからないのである。わからなければ、「ヘビメタ騒音しんどさ」の影響を簡単に、ガン無視できる。俺だって、騒音でしんどいときはあった」と言えば、同質化、均質化、同量化して、無視することができる。無視することに、疑問を感じない。きちがい兄貴が特殊な人間なので、きちがい兄貴が「なしたこと」特殊なのである。普通のうちには、きちがい兄貴のような人がいないので、きちがい兄貴のような特殊な人に、騒音を鳴らされことがない人ばかりだ。だから、一般人が出すそう音、おなじようなものだと、勘違いしてしまう。けど、特殊な人間が出す騒音は、特殊だ。一般人が出す騒音とはちがう。だから、特殊な人間が出す、騒音の影響は、一般人にはない影響なのだ。けど、「騒音」というところまで、抽象化すると、一般人だって、騒音を経験したことがあるのだから「俺だって、騒音でつらかったことがある」と言うことになる。特殊な家族が出す、特殊な騒音の影響はないけど、一般的な騒音の影響はあるというこになる。一般的な騒音なら、経験したことがあり、一般的な騒音の影響をうけたことがあるということになる。だから、一般的な騒音の影響を考えて、「騒音が鳴ってたって勉強はできる」「騒音が鳴ってたって、宿題はできる」「騒音が鳴ってたって、毎日、遅刻せずに、学校に通うことができる」と言うことになる。けど、それは、特殊な人間による、特殊な騒音の、影響を、無視していることになる。けど、無視しているということに、気がつかない。この、無視しているということに気がつかないという点は、きちがい兄貴とおなじなのである。けど、一般人が、きちがい兄貴とおなじかというと、そうではないのである。そして、一般人が、俺に対して、きちがい兄貴がなしたような悪事をしたかというと、悪事をしてないということになる。けど、影響を無視しているという「一点」はおなじだ。こっちとしては、腹がたつ。

2024年9月15日日曜日

立場は逆だけど、おなじことが成り立つ。

 きちがい兄貴の騒音で「不可避的に」ダメになっているのだけど、ほかの人には「不可避的に」ダメになっているようには見えなぃ。「そんなのは、自分なら平気だ」「騒音が鳴ってたんでしょ」というレベルの理解でしかない。しかし、自身に騒音体験があるので、「騒音が鳴っていると不愉快に感じる」という理解ある。けど、それは、騒音に対する理解であって、きちがい兄貴の、きちがい的な騒音に対する理解じゃない。けど、その人たちは、騒音に対する理解ときちがい的な騒音に対する理解はおなじものだと思っている。だから、こっちが、どれだけ説明しても溝が埋まらないということになる。

きちがい兄貴がやっていることであって、理解がない一班人がやっていることじゃない。ようするに、無理解ぶりを発揮する人が、やったことじゃないのだ。だから、無理解ぶりを発揮している人が、ヘビメタ騒音を鳴らし続けて、ぼくをくるしめ続けたわけじゃない。けど、ヘビメタ騒音に対する理解がないのである。騒音に対する理解があるけど、きちがい兄貴による、きちがいヘビメタ騒音に対する理解が、まったくないのである。影響を無視する。きちがい家族による騒音というものを経験したことがないので、経験的には、まったくわかってない。だから、影響のでかさは、まったくわかってない。影響を無視するのである。けど、こっちの身の上には、きちがい家族によるきちがい騒音の持続があり、その影響を無視できないのである。たとえば、一般人と話しているときも、その影響下にあるのである。ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の影響下にあるのに、一般人のほうは、まったく影響下にないのである。そして、「つらい」とか「つらさ」とか「しんどい」とか「しんどさ」という抽象的な言葉を使った話になってしまう。けど、ヘビメタ騒音特有の、つらさに対応するつらさが、相手の側にはないのである。ヘビメタ騒音特有の、しんどさに対応するしんどさが、相手の側にはないのである。もちろん、相手の側がなんか特殊な病気になっていて、なおかつ、ぼくの側にその病気の経験がないなら、おなじことが成り立つ。立場は逆だけど、おなじことが成り立つ。

2024年9月14日土曜日

遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない

ともかく、きちがいヘビメタ騒音の……連続するきちがい騒音の、足のひっぱり方というのが、尋常じゃないんだよね。そして、それをやられたことがない人は、どれだけ、その当日も、翌日も、きちがい騒音の影響をうけるかわかってない。毎日続いたら、前日のつかれや、だ猿がとれないまま、今日のつかれやだるさがつみかさなってしまう。そして、ほんとうに、意思では、それをどうすることもできない。これ、努力でどうにでもなるようなことを言う人がいるけど、その人は、じゃあ、その人が「この世で」一番きらいな音で、俺とおなじ経験をしたことがあるのかということだ。からだがぶっこわれる。しかも、「よその人は」たいしたこと、ないと思っている。そんなに影響が出るはずがないと思っている。ここの乖離がひどいんだよな。普通なら、問題がない睡眠が、ものすごく、問題のある睡眠になる。これが、でかい。ともかく、あびせられると、不可避的に、脳みそがダメになってしまうのである。どうしても、眠れなくなってしまうのである。これは、深刻な問題で、不可避的な問題なのである。けど、ほかの人は、不可避的な問題だと思ってないのである。自分なら大丈夫だと思っているのである。想像で、ものを言っている。そして、言霊主義者なら「眠れると言えば眠れる」と言うわけだし、思霊主義者なら「眠れると思えば眠れる」と言うわけだ。そして、努力主義者・根性主義者なら、どんな状態だって、努力ができる」と言うわけだ。けど、それ、おなじようにやられている人たちが言っていることじゃないからね。その人たちは、ぼくと同等の騒音を経験してない。「受け止め方の問題だ」という人だって、経験してない。「つらいと思うからつらいんだ」と言う人だって、経験してない。俺をダメ人間のように言い、さぼっているように言い、あまえているように言う人間だって、ほんとうは、ぼくと同等の騒音を、おなじ時期に経験してない。おなじ時期というのは、人生の同じ時期ということだ。これだって、年数の長さとは別に、「ある種」の条件をうみだす。そりゃ、親と一緒すんでいるときに、家族にやられるわけだから、自分だけ引っ越して問題を解決することなんてできない。普通の家族なら、うちで起こったことは、起こらないのだ。だかし、言霊主義者、思霊主義者、努力主義者、根性主義者、受け止め方主義者、だって、実際には、ぼくとおなじ期間の長さ、おなじ人生の時季に、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を経験しているわけではない。きちがい家族がいる人であって、なおかつ、そのきちがい家族が、きちがい兄貴とおなじような脳みそのクセをもっていて、なおかつ、きちがい兄貴のように、自分が思った音で、音を鳴らすということに、きちがい的にこだわっている家族がいる家じゃないと、うちのきちがい家族(兄貴)による騒音と、同等の騒音を経験することができない。経験するはずがない。だから、経験がないという意味で、まったくひとごとなんたけど、「自分なら、こうする」「自分ならこうできるはずだ」という前提でものを言ってくる。ものを言ってくると書いたけど、「無理なことを」言ってくるということだ。ともかく、きちがい兄貴のようにヘビメタを鳴らす人はそんなにはいないのだけど、みんな、騒音体験はあるので、それぞれの騒音体験をもとにして、俺に無理なことを言ってくる。空想的な無理なこと……。妄想的な無理なこと、なのだ。けど、言っている本人は、妄想的な無理なことだとは思ってないのである。こういう構えがある以上、トラブルがしょうじやすい。相手にこういう構えがあり、ぼくのほうに、言い切れないいろいろな思いがあるのだから、両者は、同意しない。かならず、ぼくが、言っていることを、ぼくが通そうとすれば、言い争いになる。その場合、ぼくのほうが、立場が弱いのである。ぼくは、きちがい兄貴に、やられているので、数々の問題をかかえてしまっている。相手は、数々の問題をかかえていない。きちがい兄貴がもたらす、騒音で、眠れなくなり、遅刻をするという場合についてだけ考えてみても、遅刻をするのは、ぼくなので、立場が弱いのである。相手の人が、遅刻をしないのは、きちがい兄貴相当の、きちがい家族がいないからなのである。別に、相手のほうがすぐれているわけではない。ところが、ぼくの立場が、きちがいヘビメタ騒音ですでに弱くなっているので、相手が、強く出てくるのである。たとえば、言霊主義者は、言霊理論を信じているのである。こんなのは、ここでずっと書いてきたように、妄想だ。言霊理論というのは、理論的にまちがっていることなのである。けど、こど玉主義者がそれを認めることはない。「単純なことが正しい」「単純だから正しい」「言ったことが、現実化する」「これが正しい」と言って、ゆずらない。そういうことを言う言霊主義者は、きちがいヘビメタ騒音にたたられてないときの、ぼくのように、きちがいヘビメタにたたられているぼくよりも、有利な立場にいるのである。まあ、ほんとうは、「立場にたっている」と言いたいところだけど、二重表現の疑いがあるので、いちおう、さける。表現の問題は、横に置いておくとして、ともかく、きちがいヘビメタ騒音に、実際にやられてない相手のほうが、優位なのである。優越した立場にいるのである。事実、自分が遅刻しないのだから、遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない。自分は、立派で、相手は、立派じゃないと思っているのかもしれない。自分というのは、この場合、言霊主義者で、相手というのは、ぼくのことだ。そうなると、立場的にすぐれているので、相手の言っていることをきかなくてもいいという態度になるやつが、多数いる。この世にはそういうやつが多数いる。きちがい兄貴が知らないところで、きちがい兄貴のやったことについて、きちがい兄貴にやられてないやつと、ぼくとのあいだに、トラブルがしょうじるのである。意見の相違がしょうじるのである。はっきり言えば、言い争いになるのである。もう、決まっている。もちろん、ぼくがゆずるということもできる。けど、ゆずると、相手は、もっと自分が、優位にたったような感じになるのだ。感じがする。ゆずると、やばいことになるのである。ゆずらなくても、やばいことになっている。

こういうことが、多数の他者と発生して、いいわけがない。いいわけがない。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音で自動的に(人間というのは)遅刻するようになる。けど、ほかの人には、きちがい兄貴相当のきちがい家族がいないので、それがわからない。だから、わからない人が、無理難題をふっかけてくるのである。できるのだから、無理難題ではないと思うかもしれないけど、それは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音下で、できることではなくて、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音が鳴ってないときにできることなのだ。ここがちがう。けど、こういうちがいを、よその人は、(自分がさらされたことがないので)自動的に無視してしまうのである。

これがつらいんだよ。

「きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ものすごい音で鳴らしてなかったら、こんとなことになってない」と思うことが、多すぎる。ほんとうにいろいろなバージョンがある。これ、ほんとうに、完全に誤解される。相手は、理解しているようで理解してない。ぜんぜんちがうことを思い浮かべて、自分の正解を言っている。ちがうんだよ。そして、いろいろな立場というのがあるのだけど、きちがい騒音にやられた人間の立場というのは、ほんとうに、弱い立場なのである。普通の人が経験してない、きちがい的な騒音をずっと経験してきたということが、弱い立場をつくりだしてしまう。そりゃそうだろ。遅刻だって、宿題だって、偏差値レベルだって、体力レベルだって、弱い立場に追い込まれてしまう。そして、浪人すれば、浪人という弱い立場がしょうじる。そして、職歴がないとか、アルバイト歴しかないということになれば、弱い立場がしょうじる。「あのひと、なにやってんの」という話だ。そういうふうに見えてしまう。けど、きちがいヘビメタが、あの至近距離で、あの時間の長さ、毎日、小学六年生のときから鳴っていると、どれだけがんばっても、だめになっていくのだ。弱い立場に追い込まれる。 

これ、必然なんだけど、ほかの人には、必然である部分……必然性が見えないんだよね。「ただ、うるさかったんだろ」「そんなの、(お兄さんに)(やめてと)言えばいいだろ」というレベルの理解しかしない。ヘビメタが鳴り終わったあと、病気で高熱が出て、だるような状態になってしまうのだ。そして、ほとんど眠れずに朝になってしまう。そして、がんばってがんばって、普通の状態で動いているように見えるように動く。だから、ほんとうは、その時点でがんばっている。発狂的なレベルでがんばっている。ストレス対抗でがんばっている。けど、ほかの人は、それがわからない。どうしてかというと、きちがい兄貴のような家族がいないからだ。普通の家族は、そんなことしない。きちがい兄貴の騒音のレベルで、一日に一〇分間だけ、鳴らすということもしない。きちがい兄貴のように、無意識のレベルで感覚器を書き換えて、きちがい的な意地ならし続ける家族なんて、いない。普通人にはそんな家族がない。だから、実際に、自分のきらいな音を、爆音で、家族に鳴らされ続ける毎日を経験したことがないのだ。だって、いないわけだから。それで、鳴っているときだけ、うるさい状態について考えてしまう。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、どれだけつらいか、みんなわかってない。ヘビメタ騒音を、前日、数時間から十数時間、鳴らされたときの、次の日の体調がわかってない。どれだけはりつめた状態で、がんばって、普通に動こうとしているのか、ほかの人にはわからない。けど、たとえば、宿題を忘れてきたとか、遅刻をしたということはほかの人にも見える。だから、さぼっているように見えるのだ。これがつらいんだよ。

あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う

 ほんとうに、俺の一生はなんだったんだ? ほんとうに、きちがい兄貴は、こだわってなかった。こだわりきってやってたけど、毎日、まったく気にしてないんだよね。どれだけ言われても、非常識なことをやっているということがわからない。やっていいことをやっているという態度だ。自分だって、ほかの音で一分間、聞かされたら、めちゃくちゃに頭にくるような大音響なのに、大音響で鳴らしたければ、それが、普通の音になってしまう。普通の音で鳴らしているのだから問題がないと思って、まったく気にしない。そういう態度だった。でっ、こっちは、こまりまくるんだよ。実際に毎日やられたことがない人にはわからないかもしれないけど、すべてにつながってしまう。そして、たとえば、言霊主義者は「できると言えばできる」と言い、受け止め方主義者は「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。しかし、しかし、しかし、そんなことは、できない。きちがい兄貴がモラルをまもらずに、普通の人が、「やるべきではないと考えているからやらないこと」を、やりきる。言霊主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。受け止め方主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。自分たちが言っていることなんて、しないし、できない。けど、自分が実際に経験してないから、子どもっぽい性格な人は、「俺なら平気だ」「わたしなら平気だ」と考えて、そういうことを言う。これ、ただ単に、子どもっぽいから、わかってないだけなんだよ。あるいは、ただ単に、経験がないからわからないだけなんだよ。あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う。えらそうなことを言ってくる。実際の、ぼくの状態というのは、そういう状態ではないのである。ぼく(エイリ)の話を聴いて、「この人(エイリ)は、このくらいの騒音にさらされて、うるさいと思っているんだな」と彼らが、思ったような状態ではないのである。けど、どれだけ言ったって、そりゃ、わからない。実際にやられてないから、わからない。どれだけ、あの時間帯の、あの音のでかさの、あの至近距離の騒音が、からだ全体に影響をあたえるかわかってない。

これを言うと、また問題があるのだけど、率直に言って、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくができないと思っているからできないと言って、ぼくのことを悪く言うのだ? どうして、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくが受け止め方をかえればいいと言うのか?

2024年9月13日金曜日

やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。

 家族が、俺の気持ちを「つぶす」ようなことばかりするんだよ。しかも、ほかのうちで、ほかの人が絶対にやらないことなんだよ。けど、きちがいだから、それがわからない。ほかの人が、「うちなかで」一日に一分間だってやられないことを、ずっとずっとやっている。「やったってやってない」ということが成り立って、やってないつもりなのである。本人のなかでは、ずっとやっていいことなんだよ。だから、日常的にずっとやっていいことを、ずっとやる。けど、これが問題で、本人が、やられる立場だったら、一秒で、発狂するようなことなんだよ。そして、本人がやられる立場だったら、一秒で発狂するようなことだということを、命がけで、無視する。きちがい兄貴ときちがい親父の組み合わせで説明すると、ハンダゴテ事件なんだけど、きちがい親父の態度や、きちがい親父があたりまえだと思っていることが、きちがい兄貴にとって、あたりまえじゃないわけ。コードということを考えると、いろいろな「やっちゃいけないコード」が入っている。けど、きちがい的な意地でやるほうは、まったくわかってないんだよ。やられたほうは、「やっちゃいけないコードが入っている」ということがわかる。だから、頭にくる。けど、それ、きちがいがきちがい感覚で勝ってしまうのである。これ、ほんとうに、その場で殺さなければ、とめることができない。きちがいなんだよ。そりゃ、「やったってやってない」が「常に」成り立っているようなきちがいだから、きちがいだ。これ、ほんとう、殺すしかないのである。やられたほうが、その場で、殺してひっくり返すしかないのである。やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。ともかく、一秒でもやめさせるとなると、殺さなければならないのである。つねに、そういうことを、相手に突き付けている。きちがい行為を夢中になってやるから、そうなる。けど、本人は、それがあたりまえだと思っていて、感覚器を書き換えて、きたないことをするから、まったく気がついていないのだ。どれだけこまるか、よその人にはわからない。

ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ

 ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ。楽しいわけがない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、最初の日、一〇分間で、やめてくれたなら、なにも問題じゃなかった。きちがいが、きちがい感覚でやりまくるから、俺が、「言い訳している」とか「できると言えばできる」とかと言われることになる。そういうことを言うやつらには、きちがい兄貴がいない。もう、でかいちがいだ。それなのに、こいつらは「俺だって、つらいことがあった」「俺だって、朝がつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。ぜんぜんちがうと言っている多わる。けど、こいつらは、認めない。ある種、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじような壁を感じるね。

ほんとうに、宿題も勉強もできなくなるのに、「できないと言うから、できないんだ」と言われるようになる。「できないと言うから」ではなくて、きちがいヘビメタが鳴っているから」なんだよ。 ほんとうに、こいつらも、頭がわるいなぁ!!

勉強は、ほんとうに、できなくなる。勉強する時間がない。ヘビメタ騒音が鳴っているときだけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っているときも、勉強することができなくなる。ほんとうに、異常な音で鳴っている。非常識な音で鳴っている。あの音のなかで、勉強することはむりなんだよ。頭が、ヘビメタで破壊されている状態で、なにも考えられない。そして、七時間なり、一三時間、やられたあとは、鳴っていないにもかかわらず、勉強がまったくできない状態になる。風邪をひいて、くるしい状態鳴ったときよりも、くるしい。風邪をひいてだるい状態になったときよりも、だるい。しんどい。めちゃくちゃにしんどい。そんな日が、毎日何年間も続いていいわけがないだろ。毎日勉強することができない状態で、学生時代の日々がずっと、ずっと続いていいわけがないだろ。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじだから、自分がずっと鳴らしたいなら、ずっと鳴らせなくなるようなことは、発狂して、頑固に認めない。しかも、「やっている」のに、「やってないつもり」なんだよ。言われたときだけ、発狂して、認めないという態度になって、そのあとは、ずっと「言われなかった」状態で、まったく気にしないで、鳴らし続ける。きちがいだからできることなんだぞ。普通の人だったら、どれだけそうしようと思ってもできない。普通の人が、やった場合、自分が、芝居でやったということを、知っている。けど、きちがいだから、ほんとうにやってないつもりなのである。「おまえ、やってるだろ」と言ったって、「やめろ」と言われたときと同じように、真っ赤な顔で、発狂しておしまいだ。本人が発狂したら、本人のなかでは、終わっているのである。もちろん、相手の言うとおりに、ちゃんと鳴らさないで、一分間しずかにしてやるなんてことはない。ちゃんと鳴らさないで、一〇分間しずかにしてやるということなんてない。一〇分間ですら、やめた時間をつくらずに、鳴らし続ける。けど、きちがいだから、「やめろ」と言われたあと、鳴らし続けたという気持がない。

*     *     *

「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」「勉強したくないから、騒音がうるさいと言っているだけなんだ」と言われる。そんなこと、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で鳴らし続けなかったら、言われなくてもすむことなんだぞ。

常に追い込まれているということが、きちがい家族がおらず、きちがい家族に、きちがい騒音を鳴らされ続けたことがない人はわからない。想像で「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。ほんとうに腹がたつ。 

*     *     *

 なんかほんとうに、しんどくて?不動産屋に行くというようなことを思い浮かべただけで、もう、だめなんだよ。無理をして、無理やり、からだを動かしていたことを思い出す。やらなければならないことは、やらなければならない状態なのだけど、きちがいヘビメタ騒音で、ダメなんだよ。もちろん、きちがい親父のネズミ騒動はでかい。けど、それも、きちがいヘビメタ騒音の上に成り立っているんだよね。

きちがいヘビメタ騒音で、ネズミが出る状態より、ずっとはりつめた状態で暮らしているんだよ。毎日そんな状態でいいわけがない。ヘビメタをあびると、普通なら、普通に眠れる時間に、まったく眠れなくなる。あんなものを何時間もあびて、睡眠回路がくるわないわけがないだろ。何時間も何時間も、あのきちがいの音を至近距離で浴びたので、気がたって、眠れない状態になっているんだよ。「眠れると言えば眠れる」……。そんなことはない。言っておくけど、めちゃくちゃに眠たい状態だ。けど、眠たい状態でからだが動かないのだけど、それでも、眠れないのである。ヘビメタ騒音というのはそういう騒音なんだよ。あんなの、どかすか、ずっと、聞かされ続けて、毎日眠っていた時間になったら、眠れるかというと、眠れない。けど、これが、ようするに、ぼくの側の、問題だと思われてしまうのだ。きちがい兄貴がいない人たちにとっては、そういう経験がないわけだから、普通の騒音を思い浮かべて、鳴り終わったら眠れるはずだと思ってしまう。 

*     *     *

行きたくないとか、動きたくないとかというのは、ヘビメタ騒音の影響なんだよね。だから、俺とおなじ期間の長さ、きちがいヘビメタ騒音が続いた人じゃないとわからない。毎日、寝不足で、起きて、動いていた。どれだけ、つらい状態か、みんな、わかってない。俺だって騒音ぐらいあった」という人だってわかってない。「俺だって朝はつらい」という人だってわかってない。その人たちは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない。俺にとってのヘビメタ騒音。その人たちは、その人たちにとって、この世で一番きらいな騒音が鳴っていると考えてくれる。そりゃ、ヘビメタが好きな人と、俺とでは、ヘビメタ騒音に対する感じ方がちがうだろ。ぜーんぜん、ちがう。きちがい家族に、長期間、毎日、やられてない人が、「俺だって」「わたしだって」と言うな。

きちがい兄貴のきちがい的な騒音がはじまるまえとは、「朝のつらさ」がちがうんだよ。「眠れない状態」がちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうんだよ。ずっと毎日つみかさなったときの、朝のつらさと、眠れな状態は、きちがい兄貴がヘビメタ騒音をやるまえの、朝つのらさや眠れない状態とはちがうんだよ。きちがい兄貴がヘビメタ騒音やるまえというのは、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音鳴らしてなかった期間のことだ。その期間中だって、騒音はあったわけ。つらい朝はあったわけ。つかれたと思う状態はあったわけ。けど、それらと、ヘビメタ騒音以降のそれらは、ちがう。ちがうんだよ。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音経験がない人は、それがわからない。

*     *     *

きちがいヘビメタが鳴っていると、ぼくの人間関係がばらばらになっていく。友人関係が、全部、トラブルとともに、消える。どうしてもどうしても、いやな出来事が発生する。これだって、「誰だっていやなことはある」と言える。きちがい親父にやられていたぼくですら、きちがいヘビメタ騒音前の『いやな出来事』はある。きちがい親父にやられていた分、ほかの人よりも『いやな出来事』の回数が多いのである。けど、そういうこととは、くらべものにならないほど、ヘビメタ騒音というのは影響をあたえる。ほんとうに、毎日、数時間か、十数時間続くわけで、くるしい。

どれだけ、ヘビメタ騒音のなかで、がんばって、暮らしても、どうしてもどうしても、影響をうけるのである。日中の友達とのやり取りにも影響が出る。友だちと高校入試のまえに願書をもらいに行ったときの気分や身体状態も影響をうける。どれだけ、気にしないようにしてがんばっても、どれだけ、ほかの人にさとられないように頑張ってみても、やっぱり、影響があるんだよね。けど、実際に、きちがい家族による、長期間のきちがい騒音を毎日経験した人じゃないと、どれだけがんばっても、影響が出る……人間関係に影響が出るということが、わからない。あるいは、ほかの人との出来事に影響がでるということがわからない。

「できると言えばできるとか「どれだ騒音が鳴ってたって勉強はできる」とか「眠れると言えば眠れる」とか「みんな、騒音ぐらいある」とか「みんな、つらい思いをして生きている」とかと言ってしまう人が、理解できることではないのだ。この人たちの理解というのは、この人たちの経験の範囲での、理解だ。けど、きちがい家族によるきちがい行為は、その人たちの経験の範囲外のことなのである。だから、範囲外の影響が出るのだけど、範囲外の影響は、この人たちにはまったくわからないから、自分の範囲内の影響と(おなじような影響だと)勘違いしてしまう。

*     *     *

ヘビメタ騒音の感覚が、ぬけない。これ、ヘビメタ騒音の朝だ。これ、ヘビメタ騒音の朝とおなじ朝だ。

2024年9月9日月曜日

おカネというのは、虐待の道具……この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。

 いま、近所で工事をしているけど、つかれかたがちがう。ヘビメタのつかれかたといったら、『普通の騒音』のつかれかたとはちがう。ぜーんぜん、ちがう。あの、つみかさね。あの堆積。あの日常。あの毎日。

わかるわけがない。経験してない人にわかるわけがない。きちがいヘビメタ相応がはじまるまえまで、俺だって、『普通の騒音』を経験してきたんだよ。それこそ、普通に経験してきた。家のまんまえが「でかい」幼稚園なので、普通の人よりもずっと、『普通の騒音』を経験してきた。けど、ヘビメタ騒音は、ぼくにとっては、普通の騒音じゃない。ぜんぜんちがう、異次元の騒音だ。あれをずっと、すぐ横でやられて……いいわけがない。ヘビメタ騒音がない状態とおなじ状態で暮らせるわけがない。普通の人がぼくにもとめているのは、ヘビメタ騒音がない状態で求めているものなんだよ。精神世界の人が、「できると言えばできる」と言ったって、できないんだよ。あの、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴ってたら、できない。壁が透明なら、あのでかい音を出している、あのでかいスピーカーがすぐそこに見える状態なんだぞ。手が届くようなところにあるものなんだぞ。あんなの、普通のうちの、普通の部屋に、置くものじゃないんだよ。頭がおかしいから、こだわりきって、ああいうとてつもなく高価なスピーカーを買う。鬼になって、アルバイトをして買う。アルバイトをして、兄貴が兄貴のカネで買ったので、きちがい親父は、もう、制御できない。きちがい親父が、子どもにやってきたことというのは……。ほかの人にはわからないだろうけど、きちがい親父のカネの制御……カネによる支配というのは、尋常じゃない。これ、きちがいの家に住んだ人じゃないとわからないのだ。きちがい親父は、カネに対しても、きちがいなんだよ。むしろ、カネに対するきちがいの度合いが、ほかのことに対するきちがいの度合いよりも、ずっとずっとずっと、強い。カネは、一円でも、ぶつかりあい。カネのことで、子どもを虐待しまくる。これ、カネというのは……一種の……虐待の「道具」なんだよ。これも、普通の人には、まったくわからない。きちがい親父とおなじような感覚をもっているきちがいにやられた人しかわからない。もちろん、親としてね……。きちがい親父とおなじような感覚をもった親にやられた人しかわからない。どれだけの意地か、わからない。ほんとう、「子どもにカヌー体験をさせてやろう」なんて人の世界じゃない。この人たちは、この人たちで、それがあたりまえだと思っているから、特殊な鈍感さを発揮する。もう、まったくわかってない。この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。この人たちにとっては、きちがい親父のカネに対する行動や、きちがい親父のカネに対する感覚は、未知の世界なんだよ。まったく理解してない。理解していないと、俺が言っていることがおかしいように、(この人たちには)思えるのだ。これも、縮図なんだよね。これ、縮図なんだわぁ。えーっと、これは、言ってしまってはまずいのだけど、自らが精神病の人たちがかかえている悩みとはちがうんだよ。カヌー体験ぐらいさせてやろうと言っているような親?と、自らが精神病である人たちというのは、『親父の行為』の理解について、対極にある人たちなんだよな。ある意味……。こんなの、わからないと思うけど。けっきょく、うちのタイプの親父にやられた人の苦悩というのは、カヌー体験とか言っている人にはわからないし、自らが精神病である人にもわからない苦悩んだよな。どんだけの意地でぶちあたってくるか、まるでわかってない。きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじなんだよ。これも、言ったってわからないと思うけど……。言っておく。 きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじ。

*     *     *


2024年9月8日日曜日

「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」

 ほんとうにヘビメタ騒音で「できない」状態になるのである。できなくなるのである。ヘビメタ騒音「で」そうなる。ほかの理由じゃない。ヘビメタ騒音でそうなる。こんな、ヘビメタ騒音なんて、きちがいにあきが、きちがい兄貴だから鳴っているものだ。ほかの人は、きちがい兄貴じゃないから、「こんな音で鳴らしたら迷惑だな」と思って、そういう音で鳴らさないのである。けど、きちがいだから、「こんなのたいした音じゃない」と思って鳴らすんだよ。じゃあ、ほんとうに「たいした音じゃない」のかというと。そうじゃない。きちがい兄貴にしたって、別の音が、鳴ってたら、「うっさい!!!」と思う音のでかさなんだよ。別の音だったら、一分で……一分間で、かんかんになっている。そういう音だ。きちがい兄貴にしたって、自分が鳴らしたい音ではない音が、鳴ってたら怒り狂うような音量なのである。自分が鳴らしたいから、「鳴らしていい音」になっている。

だから、ほかのうちでは鳴ってないのだ。だから、ほかのうちの人は、毎日毎日、長時間にわたって、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされるという機会がない。これ、ほんとうに、ちがうのである。ちがう。工事だってうるさいけど、ちがうのである。あの至近距離の、毎日の騒音は、ちがうのである。ちがう効果がある。鳴っている時間帯だって、鳴っていた期間の長さだって、ちがうのである。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、俺と同等の騒音を経験したということになってしまうのである。おまえの家族にきちがいがいたわけじゃないのに、きちがい家族が鳴らす騒音を経験するわけがないだろ。きちがい家族が鳴らす騒音と同等の騒音を生活のなかで、毎日経験するなんてことはないんだよ。普通の人は、そんなことはしないからだ。工事とはちがうんだよ。効果がちがうんだよ。きちがいのつごうで鳴ってしまうわけだし、きちがいは、「このくらいの音で鳴らしていい」と思って、鳴らしたいときは、一秒もゆずらずに鳴らすわけだから、調節ができない。これ、絶対の意地で、普通の工事時間とはちがう時間に、ずっと鳴らすので、そもそも、睡眠にあたえる効果がちがってくるのである。あるいは、休みの日はずっと鳴らしているのだけど、平日のあとの休みの日なんだよ。これ、例外なく、こっちがどれだけこまっていても、つかれていても、鳴らすということだ。きちがいだから、まったくなにも気にしないで鳴らすのである。自分のなかで、鳴らしていい音ということになっていたら、いつ鳴らしたっていい音ということにもなっているので、鳴らしたかったら、ずっと鳴らすのである。途中で、がまんしてくれるということがないのである。そうなると、普段のヘビメタ騒音でつかれはてた状態で、新しい騒音に直面するということになる。一切合切の融通がきかない。平日のつかれをとるというわけにはいかない。平日の『勉強のおくれ』を、休日に取り戻すというわけにはいかない。全部が、きちがい基準。全部が、ほんとうにやってないつもり。よそのうちで、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、全部の時間、きちがい感覚で鳴らしているのである。だから、よその人は、そういう家族がいないわけだから、経験したことがない。きちがい家族が出す騒音を経験したことがない。きちがい家族が出す騒音がずっとずっとずっと、続いた場合のことがわからない。経験的にわからない。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族が出す騒音を経験したことになってしまうのである。こんなのはない。そして、それが、騒音だけではなくて、騒音がつくりだすつかれにも、成り立つ。「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」と言えば、きちがい家族の騒音がずっと鳴っている生活をしているのとおなじぐらい、つかれていることになってしまうのである。

2024年9月7日土曜日

全部、いやだ。

 きちがい親父からしょうじたことが、全部いやだ。きちがい兄貴からしょうじたことが全部いやだ。

全部、いやだ。全部、ぶち殺したいほど、腹がたつ。全部、おなじ。 

*     *     *

きちがい親父は、怒り狂ってはねのければ、それで、まったく関係がない人になってしまう。きちがい兄貴は、怒り狂ってはねのければ、それでまったく関係がない人になってしまう。どれだけ、こっちがこまるか。こんなの、怒り狂って殺さなかったら、ずっとやれるだけになってしまうだろ。あいつらは、きちがい的な意地でやるのに、きちがい的な意地でやったことは、全部やってないことになっている。

*     *     *

それで、きちがい親父がネズミを入れたことで、発生したことが、またいやなんだよ。いまだって、腕をダニに刺されている。きちがい親父がやったことを、きちがい親父が死んだ後に、あるいは、きちがい親父が入院しているときに、対処しなければならなくなるのだけど、それがまた、きちがい親父から派生したことというのは、いろいろな問題がしょうじることになっているんだよ。俺がやらなくていいと言ったことを、やっちゃうようなやつが工事をすることになる。これ、家がふるすぎて、ふるい家のことがわかっている人じゃないとだめなのだ。考え方が、むかしの人だから?一度関係ができたら、自分が好きなようにやってあげるのがいいと思っているところがある。やるなと言ったことは、やらなくていいのに、やるなと言ったことを、やってしまう。信用が置けないので、ほかの人に頼もうかなと思って見つもりにきてもらったら、見積もりにきた人が、蚊に刺されたと文句を言う。これだって、俺がずっと、親父に言っていたのに、もっとひどい状態だったのだ。ダニのことで文句を言われることは想定していたけど、竹は、一度きれいに切ったので、竹のことで文句を言われると思ってなかった。丈は、背丈が三〇センチぐらいになっていた。切るまえは三メートルあった。「これで切ったというのか?」と怒って言いやがる。「切ったんだよ」と俺がこたえた。ともかく、イレギュラーなことばかりで、ほんとうにいやになる。門だって、ほんとうはなおしたいけど、門をなおすとなると、ガスボンベが通らなくなるのだ。全部がつむようにできているんだよ。この、ネズミの侵入というのは、ほんとうに親父らしいことなんだよな。普通の人は、二三(にじゅうさん)時間、なにもかけないで、魚の切り身を出しっぱなしにしない。これも、どれだけ、言っても、きかないのだ。やめない。毎日、魚の切り身を二三時間ぐらい、テーブルの上に置いておくということにこだわって、そうする。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、これとまったくおなじだ。宿題をしなかったことで俺が文句を言われる。みんな、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしているかわからないから、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。「できないのだ」と言ったって、相手は認めない。その相手だって、詩文がきらいな音をあの至近距離で、あの音の出かされで鳴らされたら、宿題なんてできないのに、それがわかってない。しかも、鳴っているときだけではなくて、鳴り終わったあとも、できないのだ。けど、実際にやられたないやつは、これもわからない。「鳴り終わったらできるだろ」と思ってしまう。これも、午後一一時一〇分までやられたとき、どういう状態になっているか、自分のからだでわかってないから、好き勝手なことを、想像で言ってくることになる。

*     *     *

きちがい兄貴が、きちがい行為を、きちがい行為だとわからずに、やりきると、俺がほかの人から文句を言われるようになるんだよ! そして、ほかのやつは「人のせいにしている」と言い出す。宿題ができなかったことを、兄のヘビメタ騒音せいにしているというのだ。屈辱。しかも、こういうことを言ったやつが、俺を特別に侮辱しようと思って、わざと言っているのではなくて、ほんとうにそう思って言っているのだ。こういう、バカの壁。未経験者の壁。このバカの壁。こいつらも、認めないという点では、頑固だ。きちがい兄貴とおなじだ。できなくなるのに、できなくなるということを認めない。自分なら、そんな騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできると思っている。鳴ってない時間ならできると思っている。できないんだよ。これは、できない。どれだけ、がんばってやろうとしてもできない。何時間もきちがい騒音にさらされて、からだがボロボロになっている。脳みそがボロボロになっている。そして、ほとんど、眠れないまま、次の日の朝になってしまう。そういうことの繰り返しでいいわけがない。 

*     *     *

ともかく、きちがい兄貴の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。他人は、たしかに、きちがい兄貴ではなくて、きちがいヘビメタを鳴らしてない。けど、俺を侮辱している。

ともかく、きちがい親父の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。波紋のように広がっていく。 

きちがい兄貴の頑固な行為やきちがい親父の頑固な行為が、いろいろな、トラブルを引き起こす。他人とのトラブルの原因になっている行為を、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがい的な意地でやめない。そして、他人は、きちがい兄貴ときちがい親父の「きちがい的な意地」に関して、無頓着なのだ。わかってないからわかってない。他人は、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから、きちがいというものが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をやるのかわかってない。まったくわかってない。「言えばいいでしょ」という意見なのだ。他人は、簡単に考える。言って解決するなら、とっくに解決している。

*     *     *

ちなみに、「できると言えばできる」というようなことを言う人も、まったくわかってない人なんだよ。こいつらの、妄想的な思考というのは、ほんとうに、腹がたつ。 

*     *     *

きちがい親父、きちがい兄貴、きちがい親父の行為とはまったく関係がない人、きちがい兄貴の行為とはまったく関係ない人が、次から次へと、俺をくるしめる。きちがい兄貴が、うちでやることなんて、ほかの人にはわからない。ほかの人はほかの人の基準でものを言う。そして、その基準が、うちのなかでは、妄想なのである。まったく現実的ではない、妄想なのである。うちのなかでは、世間の常識のほうが、妄想なのである。きちがいがどれだけの意地で、きちがい的に矛盾があることをやるか、みんな、わかってない。きちがい的に矛盾があることというのは、きちがい的な意地でやったのに、本人は、まったくやってないつもりでいるということだ。きちがい兄貴や、きちがい親父が、気がついてないのである。こんなの、普通の人が想定して考えられることではない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。やってないことにしてしまう。そして、きちがい的な意地で、頭がおかしいことをやりきる。「やったって、やってない」のだ。そういう、きちがい的なやり方で、自分の欲望を満たそうとする。そういうきちがい的なやり方で、自分がやりたいことをやる。そういうきちがい的なやり方で、「やってはいけないこと」をやり通す。それで、「やったって、やってない」という感覚で生きている。それで、「やったってやってない」という気持ちで生きている。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、常識的に考えれば?……これは世間の人の常識と一致しているのだけど……常識的に考えればやっちゃいけないことなんだ。きちがい親父の、魚を出しっぱなしにする行為だって、くさいわけだから、やっちゃいけないわけなんだよ。くさいということを認めたくない場合は「くさくない!!!くさくない!!!くさくない!!!」と怒り切って、やり通すんだよ。そして、たとえば、自分が入院して、もう、くさい魚を出さなくていい状態になったら、「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」と命がけで、叫ぶ。おなじなんだよ。否定のしかたがおなじなんだよ。この「皿なんて出してない」というのは、自分が皿を出したということを認めると、まずいから、そういうふうな気持になって、事実を頭のなかで書き換えて、叫んでいるんだよ。わかるかな? くさい魚を出しっぱなしにして、ネズミを入れたということを、認めたくないんだよ。そうなったら、事実をくつがえして、否定する。そのときはそのときで、「皿なんて出してない」という気持でいっぱいなんだよ。皿というのは、もちろん、魚をのせた皿のことだ。

ヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、「でかくない」と思うんだよ。そうしたら、自分はでかい音で鳴らしているわけではないといういいわけが頭のなかにできるんだよ。そうしたら、きちがい的にでかい音でずっと鳴らしきることができるようになる。きちがい的にでかい音で、ずっと鳴らしたって、きちがい的にでかい音でずっと鳴らさなかったということになってしまうのである。どうしてそうなるかというと、無意識的には、ヘビメタの音が猛烈にでかい音だということを強いっているからだ。ヘビメタの音が迷惑な音だということを知っているからだ。自分が、意識のレベルで、迷惑な音だということを、認めてしまったら、自分が思ったとおりの音で、鳴らせなくなってしまうのである。だから、無意識的なレベルで、聴覚にかかわる認知を書き換えて、「でかい音じゃない」ということにしてしまうのである。そして、一五年間、それで毎日やりきるのである。その一五年間のあいだは、ずっと、きちがい的にでかい音で鳴らしたのである。それは、認めないのである。意識的には、でかい音で鳴らしてないことになっている。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしてないということにしてしまったのである。そういう、感覚のゆがみが常にあるんだよ。そして、そういうやり方で、押しとおしてしまう。そんなの、他人にはわからない。きちがい家族と一緒に暮らしてない人にはわからない。でかい音で鳴らしていればでかい音で鳴らしているということが、わかるはずだということになっている。もしわからないのであれば聴覚に異常があるからわからないのだということになっている。

やりきって、やりきって、きちがい的な意地でやりきって、認めないのである。きちがい的な意地でやりきったということを、きちがい的な意地で認めない。本人が認めなかったら、ほんとうに、本人のなかでは、やってないことになっているのである。

こまるんだよ。こまるんだよ。こういうやり方だとこまるんだよ。こまるんだよ!

2024年9月6日金曜日

そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。

 ヘビメタ騒音の影響というのが、みんな、わかってないんだよな。どれだけ影響をあたえるか、わかってない。こいつらだって、自分がきらいな音でやられれば、わかるのに、やられたことがないからわからない。もちろん、こいつらにしたって、「うるさい」と感じたことはあるんだよ。「騒音体験」はある。じゃあ、おなじレベルの騒音を、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さ聞かされたのかというと、そうじゃないんだよ。けど、「俺だって、騒音ぐらいあった」と言えば、そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。だから、だれだけ影響をあたえるか、わかってないやつが、「俺だって、知っている」という前提でものを言ってくることになる。ちがうんだよ。経験がないから、ちがうということがわかってないだけだろ。ほんとうに、学歴も職歴もボロボロになる。学歴や職歴がボロボロになってないやつが「俺だって、騒音ぐらいあった」と言ったって、意味がないんだよ。それは、きちがい兄貴が実際にもたらしたこととは、ちがうことについて語っているということなんだよ。

*     *     *

ヘビメタ騒音が五〇〇〇日、積もったときの、からだの状態なんて、わかるはずがない。「俺だって苦労した」と言っているやつが、ヘビメタ騒音相当の騒音五〇〇〇日分を、経験したことがあるのかというと、ない。ないからない。ないからわからない。

あの経験がないのに、「人間は働くべきだ」なんて言っている。俺だって、騒音ぐらいあった。俺だって苦労したと言う。そういうことを言っているやつだって、実際に経験したら、働けなくなる。起きることができなくなる。一定の時間に起きることができなくなるし、普通の労働時間にたえられなくなる。普通に働くということが、どうしてもできなくなる。普通に働いているのだから、同質、同等の騒音を経験してない。そして、この騒音の「みなもと」が家族なんだよ。これだって、経験してないだろ。家族がやる騒音で、そこまで、おいつめられるという経験がないわけじゃないか。そんなやつが言う、「俺だって苦労した」に、いったい、なんの意味があるのか? 働けるぐらいの苦労なんだろ!! 

*     *     *

実際の「状態」と、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」「人間は働くべきだ」というやつが考えている「状態」というのが、ちがうのである。実際のヘビメタ騒音の状態、そして、実際のヘビメタ騒音がもたらす影響……こういったものと、こいつらが頭のなかで考えているべメタ騒音がもたらす影響がちがうのである。こいつらの経験のなさ、こいつらの思考力のなさ、こいつらの想像力のなさ……。こいつら想像力がじゅうぶんでないために、こいつらは、必然的に俺を見下して、侮辱する。こいつらのほうが、人数が多い。こいつらのほうが、全体のなかでの割合がでかい。九九・九%のやつが、必然的に誤解する中で、生きていくというのは、つらいことだ。こいつら、まったくわかってない。「助言してやったのになんだ」と怒り出す。こいつら、まったくわかってない。

「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」

説明をするのがめんどうだから、はしおるけど「そうですか」と言ったら、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつがいたなぁ。メーリングリストというのがあって、通信制の大学のメーリングリストに登録していたわけなんだけど、俺は、そこで、ヘビメタ騒音のことを書き、基本無職だということを書いておいた。ところが、いろいろあって、ぼくがプログラマーだと勘違いした人が出てきたんだよ。これは、当時「あいから始まるーマ字入力」というサイトをつくっていたのだけど、そのウエブページの機能の一部をジャバスクリプトを使って、書いた。けど、俺はひとこともプロのプログラマーだとは言わなかったんだよ。あれは、ウエブサイトなのだけど、俺のことをプログラマーだと勘違いした人は、ウエブサイトをソフトウエアだと思ったんだよね。あれは、ウエブサイトなのだけど、タイピング練習ソフトに見える……ような気もする。でっ、いちいち、あれは、売り物にする予定だし、一部のプログラムは、たしかに、ぼくが書いたものなのだけど、職業的なプログラマーとして働いたことはないのだ。でっ、そういうことをちょっと説明しようと思ったのだけど、ずっと、何回もヘビメタ騒音にやられて無職だということは、そこに書いたことがあるので、いちいち、無職だということを、書かなかった。でっ、冒頭の「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつと、数人でオフ会をしたんだよ。とりあえず、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつのことを、せっかく君と言っておこう。せっかく君は、数種類のミニプログラムがついている雑誌を出版している会社のプログラマーだった。これ、じつは、何冊か持っていた。これ、ちょっと、わからないようにはずして書いているんだけどさぁ。実際には、パッケージ商品なんだよね。まあ、そこらへんはともかくとして、せっかく君が、話したかったような業界話というのは、ぼくはできない。話をふられるのもいやだった。「これこれこういう会社で、あの雑誌をつくっていたんですよ」とせっかく君が言ったときに、「そうですか」とそっけなくこたえた。そうしたら、怒っちゃったんだよね。

ぼくが全体的に言いたいことは、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、こんなことになってないということだ。これ、みんな、ヘビメタ騒音の妨害度や破壊度がわかってない。あれだけ、無職だと書いているのに、かさねて、無職だということがいやだった。きちがいヘビメタ騒音がなければ……きちがい兄貴が、あの時期に、きちがいヘビメタに凝りまくることがなかったら……ぼくは、絶対に、簡単に自己紹介できる職業についていた。学歴も職歴も、「こんなんですよ」と言える状態だったはずだ。これ、実際に、家族がしつこく鳴らしている騒音で人生が台なしになった人じゃないとわからないと思うけど、いーろーーんーーな、ところで、不愉快な思いをする。これ、みんな、ヘビメタ騒音のことを軽く見るから、俺がなんかさぼっているように見えるわけだけど、ちがうんだよね。ヘビメタ騒音で「なんだかわからない人」とになってしまったわけで、ヘビメタ騒音がなかったら、ちゃんと自己紹介ができる人間だったんだよ。

くわしく職歴を聴かれたらいやだなと思って、「そうですか」と言っただけなのに、そのひとことで、怒りまくっている。そのオフ会にきていた女の人が「そうですかって言っただけなのに」「プログラマーでも、期待していたような話ができるとは限らない」ということを言っていたのだけど、まさしく、その通りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月5日木曜日

「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 きちがいヘビメタなんて、きちがい兄貴の趣味なのに……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなかったら、ならなかった音なのに……。きちがいが、きちがいの意地で、でかいでかいスピーカーを買って、がんがん鳴らす。固体振動あるよ。固体振動が、睡眠に影響をあたえるんだよね。不可避な影響だ。きちがい親父とおなじで、言いだしたらきかないのだ。きちがい親父とおなじ頭の構造で、無視をする。やってないつもりでいつもやる。きちがいしか鳴らさないようなでかい音で鳴らしているのに、きちがいだから、普通の音で鳴らしていると思っている。聴覚が正常なら、でかい音だというのは、わかることなんだよ。そして、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音で聴覚が弱くなるまで、聴覚は正常だった。これ、ようするに、きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを認めないという態度なんだよ。そして、それが無意識的なレベルで起こっていることだから、本人は、ほんとうに知らない状態なんだよ。けど、穴があいている。嘘の穴があいている。嘘丸出し。きちがいだからできる芸当だ。しかも、普通の人だったら、絶対に一〇分だって鳴らさない音なのに、きちがいだから、絶対に一〇分だって、しないのだ。それであたりまえだと思っている。ゆずってやらなかったのに、ゆずってやったと思っている。全部、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。きちがい親父が、きちがい感覚で、自分の維持を通してしまうときのやり方とおなじなんだよ。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。そして、自分がやりきったことを、絶対に認めないという、きちがい的な態度が、おなじだ。きちがい兄貴ときちがい親父でおなじだ。その態度で、こっちの、こころが、破壊される。その態度で、こっちの生活が破壊される。その態度で、こっちの人間関係が破壊される。全部、破壊される。毎日続く。「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月4日水曜日

「相手をほめるのがいい」

 よく、「相手をほめるのがいい」というようなことが言われるけど、これも、失敗したほうが多い。特に、「ほめよう」と思って、ほめたときは、ほぼ一〇〇%失敗することになる。相手を褒めるのがいい」というようなアドバイスは、一見、問題がなさそうなんだけど、問題がある。こういうのは、「汎用」ではない。ほんとうは、ほめる側の人の立場とか、ほめられる人の側の立場とかというものが、実際の場面ごとにちがう。埋め込まれた文脈というものがぜんぜんちがうのだ。人によって、立場によって。立場といたけど、これも、たくさんある条件のなかのひとつの条件にすぎない。相手を褒めるのがいい」といった場合は、汎用性があり、どんな条件でも成り立つような感じがする。けど、無理やり?ほめようとしている人に、ほめられて、いい気分になる人のほうが少ないのだ。そして、時系列的に複数回そういうことがあるとなると、それも、複数回そういうことがあったという条件がしょうじることになる。関係性の時間的な連続と、「ほめたという」出来事からしょうじる(双方の感情的変化)というものも、じつは考えなければならない。これも、条件のひとつだ。ともかく、場面には、無数の条件が埋め込まれている。けど、「相手をほめるのがいい」というときは、すべての条件が捨象されている状態なのだ。そして、「相手をほめるのがいい」と言ったときに、たいていの場合は、例をあげるのだけど、その例というのは、複数の条件が、うまくっているときの話なのだ。だから、それらの複数の条件が成り立ってない場面では、それらの複数の条件が成り立っているときのようにうまくいくとは限らない。

*     *     *

基本的に、きちがいヘビメタ騒音にやられていると、停滞した状態になる。そして、それが十数年もつみかさなるなら、いろいろと、ほかの人から悪く言われる立場になる。その場合、打開策として、いろいろなアドバイスを受けることがあると思う。あるいは、本を読んで、こうしたほうがいいのではないかと思うようなことがあると思う。それを実行すると、ほとんどの場合、うまくいかないのだ。これは、その人が悪いのではないかということになるのだけど、どうもちがう。その人というのは、この話だと、ぼくだ。ぼくのやり方がへたくそだから、うまくいかないという話になってしまうのだ。けど、どうも、汎用的に、うまくいかないのである。たいていの場合、そういうアドバイスはむしろうまくいかないことが決まっている。逆の結果を招来するのである。

この手の、本に書いてあるようなアドバイスというのは、たいていの場合、うまくいかない。それは、へたくそな人だけではなくて、うまい人?の場合も、うまくいかない。アドバイスに書いてあること、というのは、うまい人がやっても、うまくいかない場合のほうが多い。そうなるしくみがある。うまいというのは、普通に人のこころが読める人のことだ。普通に人のこころが読める人だって、さまざまな条件により、悪い状態になることがある。この悪い状態というのは、まあ、立場が悪い状態のことだ。ようするに、普通の人が、アドバイス通りにやっても、たいていの場合、うまくいかないのである。どうしてかというと、「汎用性のあるアドバイス」というのは、実際の条件を捨象してしまっているから……。そして、例として出てくるうまくいった場合の話というのは、非常に限られた条件が、じつはある話なのだ。だから、話のなかでは、うまくいくのだけど、実際の条件のなかでやると、うまくいかないことのほうが多い。

*     *     *

「すべてから、話の例を引いたもの」が、話の例に近いものなのではなくて、むしろ、話例から遠いものなのではないかと思うのだ。「すべて」というのは、そのアドバイスをこころみたときの、すべての例だ。ようするに、条件が埋め込まれた現実場面で実際に発生した例のことだ。

正直言って、いろいろと、やる気がしない

  しかし、まあ、どうするか? 正直言って、いろいろと、やる気がしない。むかしは、もうちょっとやる気があった。やはり、親父のネズミ事件で、だいぶ消耗している感じがする。すべてが、出ているんだよね。なんのことだか、普通の人はわからないだろうけど……。頑固に、まったく言うことをきかない状態で、こまらせるんだよね。あれ、病院に入院しているとき、めずらしく、うち以外でその症状が出てしまったんだけど、やられればわかるんだよね。医者も、最初は、「それは、認知症の健忘でしょ」など言っていたのだ。ちがうんだよね。ちがうということがわかるようになるんだよ……。自分がかかわればね……。自分がかかわらないとわからないわけ。だいたい親父だって、いつも、「うちの状態」を外でさらすわけじゃないからなぁ。あれ、入院しているときに、「うち」と「そと」がひっくり返っちゃったんだよね。そのときは、俺に対して、丁寧になった。

2024年9月3日火曜日

不適切なことを言うな

 あーー。ほんとうに、ヘビメタ騒音で不愉快なことばかりだったぜ。これ、ヘビメタ騒音で、働けないからだになるのに、実際にきちがい家族によるヘビメタ騒音に、さらされたことがない人はそれがからないので、ヘビメタ騒音にさらされると働けないからだになるということが、わからないのである。根本的にわからない。だから、「俺だったら平気だ」「わたしだったら平気だ」という考えにしたがって、無職である俺(エイリ)をせめるということになるのである。せめるほうは、気楽かもしれないけど、せめられるほうは、気楽ではない。そりゃ、毎日の積み重ねがあるからだ。この毎日の積み重ねがわからないやつが、不適切なことを言うなということだ。けど、それを言ったとしても……それをぼくが、相手に行ったとしても、相手は、基本的に「きちがい家族のヘビメタ騒音に長年さらされると、働けなくなるということ」がわかってないので、認めない。

きちがい家族の騒音が、並じゃないのだ。きちがい家族がいない人には、わからない。どうしてかというと、経験したことがないからだ。ほんとうに、騒音といっても、きちがいヘビメタ騒音が恥じるまえの騒音体験と、きちがいヘビメタがはじまってからの騒音経験がちがうのである。どうやったって、影響をうけるのに、やられたことがない人たちが「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。これ自体が、不愉快なことだ。

そして、そういうのは、小学六年生から積み重なってしまうので、小学六年生から生活が地獄なのだ。これ、ほんとうにちがうんだよね。きちがい兄貴のやり方が、きちがいだから、並じゃない影響をうけることになる。すべてのキレイゴトが、ふっとぶ。けど、ほかの人たちは、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。きちがい家族がいなかった人は、一生涯、騒音に関しては、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。だったら、話があわなくなる。 

「そんなことじゃない」とどれだけ、ぼくが言っても、次から次へと、誤解したことを言ってくる。「ちがう」と言っているのに、ほんとうに、こいつらもわかってないなぁ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。