2024年9月16日月曜日

けど、影響を無視しているという「一点」はおなじだ

「ヘビメタ騒音のしんどさ」ということを言っても、ヘビメタ騒音に毎日、一四年と数か月間さらされたことがない人には、そのしんどさがわからないのである。わからなければ、「ヘビメタ騒音しんどさ」の影響を簡単に、ガン無視できる。俺だって、騒音でしんどいときはあった」と言えば、同質化、均質化、同量化して、無視することができる。無視することに、疑問を感じない。きちがい兄貴が特殊な人間なので、きちがい兄貴が「なしたこと」特殊なのである。普通のうちには、きちがい兄貴のような人がいないので、きちがい兄貴のような特殊な人に、騒音を鳴らされことがない人ばかりだ。だから、一般人が出すそう音、おなじようなものだと、勘違いしてしまう。けど、特殊な人間が出す騒音は、特殊だ。一般人が出す騒音とはちがう。だから、特殊な人間が出す、騒音の影響は、一般人にはない影響なのだ。けど、「騒音」というところまで、抽象化すると、一般人だって、騒音を経験したことがあるのだから「俺だって、騒音でつらかったことがある」と言うことになる。特殊な家族が出す、特殊な騒音の影響はないけど、一般的な騒音の影響はあるというこになる。一般的な騒音なら、経験したことがあり、一般的な騒音の影響をうけたことがあるということになる。だから、一般的な騒音の影響を考えて、「騒音が鳴ってたって勉強はできる」「騒音が鳴ってたって、宿題はできる」「騒音が鳴ってたって、毎日、遅刻せずに、学校に通うことができる」と言うことになる。けど、それは、特殊な人間による、特殊な騒音の、影響を、無視していることになる。けど、無視しているということに、気がつかない。この、無視しているということに気がつかないという点は、きちがい兄貴とおなじなのである。けど、一般人が、きちがい兄貴とおなじかというと、そうではないのである。そして、一般人が、俺に対して、きちがい兄貴がなしたような悪事をしたかというと、悪事をしてないということになる。けど、影響を無視しているという「一点」はおなじだ。こっちとしては、腹がたつ。

2024年9月15日日曜日

立場は逆だけど、おなじことが成り立つ。

 きちがい兄貴の騒音で「不可避的に」ダメになっているのだけど、ほかの人には「不可避的に」ダメになっているようには見えなぃ。「そんなのは、自分なら平気だ」「騒音が鳴ってたんでしょ」というレベルの理解でしかない。しかし、自身に騒音体験があるので、「騒音が鳴っていると不愉快に感じる」という理解ある。けど、それは、騒音に対する理解であって、きちがい兄貴の、きちがい的な騒音に対する理解じゃない。けど、その人たちは、騒音に対する理解ときちがい的な騒音に対する理解はおなじものだと思っている。だから、こっちが、どれだけ説明しても溝が埋まらないということになる。

きちがい兄貴がやっていることであって、理解がない一班人がやっていることじゃない。ようするに、無理解ぶりを発揮する人が、やったことじゃないのだ。だから、無理解ぶりを発揮している人が、ヘビメタ騒音を鳴らし続けて、ぼくをくるしめ続けたわけじゃない。けど、ヘビメタ騒音に対する理解がないのである。騒音に対する理解があるけど、きちがい兄貴による、きちがいヘビメタ騒音に対する理解が、まったくないのである。影響を無視する。きちがい家族による騒音というものを経験したことがないので、経験的には、まったくわかってない。だから、影響のでかさは、まったくわかってない。影響を無視するのである。けど、こっちの身の上には、きちがい家族によるきちがい騒音の持続があり、その影響を無視できないのである。たとえば、一般人と話しているときも、その影響下にあるのである。ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の影響下にあるのに、一般人のほうは、まったく影響下にないのである。そして、「つらい」とか「つらさ」とか「しんどい」とか「しんどさ」という抽象的な言葉を使った話になってしまう。けど、ヘビメタ騒音特有の、つらさに対応するつらさが、相手の側にはないのである。ヘビメタ騒音特有の、しんどさに対応するしんどさが、相手の側にはないのである。もちろん、相手の側がなんか特殊な病気になっていて、なおかつ、ぼくの側にその病気の経験がないなら、おなじことが成り立つ。立場は逆だけど、おなじことが成り立つ。

2024年9月14日土曜日

遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない

ともかく、きちがいヘビメタ騒音の……連続するきちがい騒音の、足のひっぱり方というのが、尋常じゃないんだよね。そして、それをやられたことがない人は、どれだけ、その当日も、翌日も、きちがい騒音の影響をうけるかわかってない。毎日続いたら、前日のつかれや、だ猿がとれないまま、今日のつかれやだるさがつみかさなってしまう。そして、ほんとうに、意思では、それをどうすることもできない。これ、努力でどうにでもなるようなことを言う人がいるけど、その人は、じゃあ、その人が「この世で」一番きらいな音で、俺とおなじ経験をしたことがあるのかということだ。からだがぶっこわれる。しかも、「よその人は」たいしたこと、ないと思っている。そんなに影響が出るはずがないと思っている。ここの乖離がひどいんだよな。普通なら、問題がない睡眠が、ものすごく、問題のある睡眠になる。これが、でかい。ともかく、あびせられると、不可避的に、脳みそがダメになってしまうのである。どうしても、眠れなくなってしまうのである。これは、深刻な問題で、不可避的な問題なのである。けど、ほかの人は、不可避的な問題だと思ってないのである。自分なら大丈夫だと思っているのである。想像で、ものを言っている。そして、言霊主義者なら「眠れると言えば眠れる」と言うわけだし、思霊主義者なら「眠れると思えば眠れる」と言うわけだ。そして、努力主義者・根性主義者なら、どんな状態だって、努力ができる」と言うわけだ。けど、それ、おなじようにやられている人たちが言っていることじゃないからね。その人たちは、ぼくと同等の騒音を経験してない。「受け止め方の問題だ」という人だって、経験してない。「つらいと思うからつらいんだ」と言う人だって、経験してない。俺をダメ人間のように言い、さぼっているように言い、あまえているように言う人間だって、ほんとうは、ぼくと同等の騒音を、おなじ時期に経験してない。おなじ時期というのは、人生の同じ時期ということだ。これだって、年数の長さとは別に、「ある種」の条件をうみだす。そりゃ、親と一緒すんでいるときに、家族にやられるわけだから、自分だけ引っ越して問題を解決することなんてできない。普通の家族なら、うちで起こったことは、起こらないのだ。だかし、言霊主義者、思霊主義者、努力主義者、根性主義者、受け止め方主義者、だって、実際には、ぼくとおなじ期間の長さ、おなじ人生の時季に、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を経験しているわけではない。きちがい家族がいる人であって、なおかつ、そのきちがい家族が、きちがい兄貴とおなじような脳みそのクセをもっていて、なおかつ、きちがい兄貴のように、自分が思った音で、音を鳴らすということに、きちがい的にこだわっている家族がいる家じゃないと、うちのきちがい家族(兄貴)による騒音と、同等の騒音を経験することができない。経験するはずがない。だから、経験がないという意味で、まったくひとごとなんたけど、「自分なら、こうする」「自分ならこうできるはずだ」という前提でものを言ってくる。ものを言ってくると書いたけど、「無理なことを」言ってくるということだ。ともかく、きちがい兄貴のようにヘビメタを鳴らす人はそんなにはいないのだけど、みんな、騒音体験はあるので、それぞれの騒音体験をもとにして、俺に無理なことを言ってくる。空想的な無理なこと……。妄想的な無理なこと、なのだ。けど、言っている本人は、妄想的な無理なことだとは思ってないのである。こういう構えがある以上、トラブルがしょうじやすい。相手にこういう構えがあり、ぼくのほうに、言い切れないいろいろな思いがあるのだから、両者は、同意しない。かならず、ぼくが、言っていることを、ぼくが通そうとすれば、言い争いになる。その場合、ぼくのほうが、立場が弱いのである。ぼくは、きちがい兄貴に、やられているので、数々の問題をかかえてしまっている。相手は、数々の問題をかかえていない。きちがい兄貴がもたらす、騒音で、眠れなくなり、遅刻をするという場合についてだけ考えてみても、遅刻をするのは、ぼくなので、立場が弱いのである。相手の人が、遅刻をしないのは、きちがい兄貴相当の、きちがい家族がいないからなのである。別に、相手のほうがすぐれているわけではない。ところが、ぼくの立場が、きちがいヘビメタ騒音ですでに弱くなっているので、相手が、強く出てくるのである。たとえば、言霊主義者は、言霊理論を信じているのである。こんなのは、ここでずっと書いてきたように、妄想だ。言霊理論というのは、理論的にまちがっていることなのである。けど、こど玉主義者がそれを認めることはない。「単純なことが正しい」「単純だから正しい」「言ったことが、現実化する」「これが正しい」と言って、ゆずらない。そういうことを言う言霊主義者は、きちがいヘビメタ騒音にたたられてないときの、ぼくのように、きちがいヘビメタにたたられているぼくよりも、有利な立場にいるのである。まあ、ほんとうは、「立場にたっている」と言いたいところだけど、二重表現の疑いがあるので、いちおう、さける。表現の問題は、横に置いておくとして、ともかく、きちがいヘビメタ騒音に、実際にやられてない相手のほうが、優位なのである。優越した立場にいるのである。事実、自分が遅刻しないのだから、遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない。自分は、立派で、相手は、立派じゃないと思っているのかもしれない。自分というのは、この場合、言霊主義者で、相手というのは、ぼくのことだ。そうなると、立場的にすぐれているので、相手の言っていることをきかなくてもいいという態度になるやつが、多数いる。この世にはそういうやつが多数いる。きちがい兄貴が知らないところで、きちがい兄貴のやったことについて、きちがい兄貴にやられてないやつと、ぼくとのあいだに、トラブルがしょうじるのである。意見の相違がしょうじるのである。はっきり言えば、言い争いになるのである。もう、決まっている。もちろん、ぼくがゆずるということもできる。けど、ゆずると、相手は、もっと自分が、優位にたったような感じになるのだ。感じがする。ゆずると、やばいことになるのである。ゆずらなくても、やばいことになっている。

こういうことが、多数の他者と発生して、いいわけがない。いいわけがない。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音で自動的に(人間というのは)遅刻するようになる。けど、ほかの人には、きちがい兄貴相当のきちがい家族がいないので、それがわからない。だから、わからない人が、無理難題をふっかけてくるのである。できるのだから、無理難題ではないと思うかもしれないけど、それは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音下で、できることではなくて、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音が鳴ってないときにできることなのだ。ここがちがう。けど、こういうちがいを、よその人は、(自分がさらされたことがないので)自動的に無視してしまうのである。

これがつらいんだよ。

「きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ものすごい音で鳴らしてなかったら、こんとなことになってない」と思うことが、多すぎる。ほんとうにいろいろなバージョンがある。これ、ほんとうに、完全に誤解される。相手は、理解しているようで理解してない。ぜんぜんちがうことを思い浮かべて、自分の正解を言っている。ちがうんだよ。そして、いろいろな立場というのがあるのだけど、きちがい騒音にやられた人間の立場というのは、ほんとうに、弱い立場なのである。普通の人が経験してない、きちがい的な騒音をずっと経験してきたということが、弱い立場をつくりだしてしまう。そりゃそうだろ。遅刻だって、宿題だって、偏差値レベルだって、体力レベルだって、弱い立場に追い込まれてしまう。そして、浪人すれば、浪人という弱い立場がしょうじる。そして、職歴がないとか、アルバイト歴しかないということになれば、弱い立場がしょうじる。「あのひと、なにやってんの」という話だ。そういうふうに見えてしまう。けど、きちがいヘビメタが、あの至近距離で、あの時間の長さ、毎日、小学六年生のときから鳴っていると、どれだけがんばっても、だめになっていくのだ。弱い立場に追い込まれる。 

これ、必然なんだけど、ほかの人には、必然である部分……必然性が見えないんだよね。「ただ、うるさかったんだろ」「そんなの、(お兄さんに)(やめてと)言えばいいだろ」というレベルの理解しかしない。ヘビメタが鳴り終わったあと、病気で高熱が出て、だるような状態になってしまうのだ。そして、ほとんど眠れずに朝になってしまう。そして、がんばってがんばって、普通の状態で動いているように見えるように動く。だから、ほんとうは、その時点でがんばっている。発狂的なレベルでがんばっている。ストレス対抗でがんばっている。けど、ほかの人は、それがわからない。どうしてかというと、きちがい兄貴のような家族がいないからだ。普通の家族は、そんなことしない。きちがい兄貴の騒音のレベルで、一日に一〇分間だけ、鳴らすということもしない。きちがい兄貴のように、無意識のレベルで感覚器を書き換えて、きちがい的な意地ならし続ける家族なんて、いない。普通人にはそんな家族がない。だから、実際に、自分のきらいな音を、爆音で、家族に鳴らされ続ける毎日を経験したことがないのだ。だって、いないわけだから。それで、鳴っているときだけ、うるさい状態について考えてしまう。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、どれだけつらいか、みんなわかってない。ヘビメタ騒音を、前日、数時間から十数時間、鳴らされたときの、次の日の体調がわかってない。どれだけはりつめた状態で、がんばって、普通に動こうとしているのか、ほかの人にはわからない。けど、たとえば、宿題を忘れてきたとか、遅刻をしたということはほかの人にも見える。だから、さぼっているように見えるのだ。これがつらいんだよ。

あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う

 ほんとうに、俺の一生はなんだったんだ? ほんとうに、きちがい兄貴は、こだわってなかった。こだわりきってやってたけど、毎日、まったく気にしてないんだよね。どれだけ言われても、非常識なことをやっているということがわからない。やっていいことをやっているという態度だ。自分だって、ほかの音で一分間、聞かされたら、めちゃくちゃに頭にくるような大音響なのに、大音響で鳴らしたければ、それが、普通の音になってしまう。普通の音で鳴らしているのだから問題がないと思って、まったく気にしない。そういう態度だった。でっ、こっちは、こまりまくるんだよ。実際に毎日やられたことがない人にはわからないかもしれないけど、すべてにつながってしまう。そして、たとえば、言霊主義者は「できると言えばできる」と言い、受け止め方主義者は「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。しかし、しかし、しかし、そんなことは、できない。きちがい兄貴がモラルをまもらずに、普通の人が、「やるべきではないと考えているからやらないこと」を、やりきる。言霊主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。受け止め方主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。自分たちが言っていることなんて、しないし、できない。けど、自分が実際に経験してないから、子どもっぽい性格な人は、「俺なら平気だ」「わたしなら平気だ」と考えて、そういうことを言う。これ、ただ単に、子どもっぽいから、わかってないだけなんだよ。あるいは、ただ単に、経験がないからわからないだけなんだよ。あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う。えらそうなことを言ってくる。実際の、ぼくの状態というのは、そういう状態ではないのである。ぼく(エイリ)の話を聴いて、「この人(エイリ)は、このくらいの騒音にさらされて、うるさいと思っているんだな」と彼らが、思ったような状態ではないのである。けど、どれだけ言ったって、そりゃ、わからない。実際にやられてないから、わからない。どれだけ、あの時間帯の、あの音のでかさの、あの至近距離の騒音が、からだ全体に影響をあたえるかわかってない。

これを言うと、また問題があるのだけど、率直に言って、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくができないと思っているからできないと言って、ぼくのことを悪く言うのだ? どうして、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくが受け止め方をかえればいいと言うのか?

2024年9月13日金曜日

やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。

 家族が、俺の気持ちを「つぶす」ようなことばかりするんだよ。しかも、ほかのうちで、ほかの人が絶対にやらないことなんだよ。けど、きちがいだから、それがわからない。ほかの人が、「うちなかで」一日に一分間だってやられないことを、ずっとずっとやっている。「やったってやってない」ということが成り立って、やってないつもりなのである。本人のなかでは、ずっとやっていいことなんだよ。だから、日常的にずっとやっていいことを、ずっとやる。けど、これが問題で、本人が、やられる立場だったら、一秒で、発狂するようなことなんだよ。そして、本人がやられる立場だったら、一秒で発狂するようなことだということを、命がけで、無視する。きちがい兄貴ときちがい親父の組み合わせで説明すると、ハンダゴテ事件なんだけど、きちがい親父の態度や、きちがい親父があたりまえだと思っていることが、きちがい兄貴にとって、あたりまえじゃないわけ。コードということを考えると、いろいろな「やっちゃいけないコード」が入っている。けど、きちがい的な意地でやるほうは、まったくわかってないんだよ。やられたほうは、「やっちゃいけないコードが入っている」ということがわかる。だから、頭にくる。けど、それ、きちがいがきちがい感覚で勝ってしまうのである。これ、ほんとうに、その場で殺さなければ、とめることができない。きちがいなんだよ。そりゃ、「やったってやってない」が「常に」成り立っているようなきちがいだから、きちがいだ。これ、ほんとう、殺すしかないのである。やられたほうが、その場で、殺してひっくり返すしかないのである。やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。ともかく、一秒でもやめさせるとなると、殺さなければならないのである。つねに、そういうことを、相手に突き付けている。きちがい行為を夢中になってやるから、そうなる。けど、本人は、それがあたりまえだと思っていて、感覚器を書き換えて、きたないことをするから、まったく気がついていないのだ。どれだけこまるか、よその人にはわからない。

ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ

 ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ。楽しいわけがない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、最初の日、一〇分間で、やめてくれたなら、なにも問題じゃなかった。きちがいが、きちがい感覚でやりまくるから、俺が、「言い訳している」とか「できると言えばできる」とかと言われることになる。そういうことを言うやつらには、きちがい兄貴がいない。もう、でかいちがいだ。それなのに、こいつらは「俺だって、つらいことがあった」「俺だって、朝がつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。ぜんぜんちがうと言っている多わる。けど、こいつらは、認めない。ある種、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじような壁を感じるね。

ほんとうに、宿題も勉強もできなくなるのに、「できないと言うから、できないんだ」と言われるようになる。「できないと言うから」ではなくて、きちがいヘビメタが鳴っているから」なんだよ。 ほんとうに、こいつらも、頭がわるいなぁ!!

勉強は、ほんとうに、できなくなる。勉強する時間がない。ヘビメタ騒音が鳴っているときだけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っているときも、勉強することができなくなる。ほんとうに、異常な音で鳴っている。非常識な音で鳴っている。あの音のなかで、勉強することはむりなんだよ。頭が、ヘビメタで破壊されている状態で、なにも考えられない。そして、七時間なり、一三時間、やられたあとは、鳴っていないにもかかわらず、勉強がまったくできない状態になる。風邪をひいて、くるしい状態鳴ったときよりも、くるしい。風邪をひいてだるい状態になったときよりも、だるい。しんどい。めちゃくちゃにしんどい。そんな日が、毎日何年間も続いていいわけがないだろ。毎日勉強することができない状態で、学生時代の日々がずっと、ずっと続いていいわけがないだろ。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじだから、自分がずっと鳴らしたいなら、ずっと鳴らせなくなるようなことは、発狂して、頑固に認めない。しかも、「やっている」のに、「やってないつもり」なんだよ。言われたときだけ、発狂して、認めないという態度になって、そのあとは、ずっと「言われなかった」状態で、まったく気にしないで、鳴らし続ける。きちがいだからできることなんだぞ。普通の人だったら、どれだけそうしようと思ってもできない。普通の人が、やった場合、自分が、芝居でやったということを、知っている。けど、きちがいだから、ほんとうにやってないつもりなのである。「おまえ、やってるだろ」と言ったって、「やめろ」と言われたときと同じように、真っ赤な顔で、発狂しておしまいだ。本人が発狂したら、本人のなかでは、終わっているのである。もちろん、相手の言うとおりに、ちゃんと鳴らさないで、一分間しずかにしてやるなんてことはない。ちゃんと鳴らさないで、一〇分間しずかにしてやるということなんてない。一〇分間ですら、やめた時間をつくらずに、鳴らし続ける。けど、きちがいだから、「やめろ」と言われたあと、鳴らし続けたという気持がない。

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「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」「勉強したくないから、騒音がうるさいと言っているだけなんだ」と言われる。そんなこと、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で鳴らし続けなかったら、言われなくてもすむことなんだぞ。

常に追い込まれているということが、きちがい家族がおらず、きちがい家族に、きちがい騒音を鳴らされ続けたことがない人はわからない。想像で「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。ほんとうに腹がたつ。 

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 なんかほんとうに、しんどくて?不動産屋に行くというようなことを思い浮かべただけで、もう、だめなんだよ。無理をして、無理やり、からだを動かしていたことを思い出す。やらなければならないことは、やらなければならない状態なのだけど、きちがいヘビメタ騒音で、ダメなんだよ。もちろん、きちがい親父のネズミ騒動はでかい。けど、それも、きちがいヘビメタ騒音の上に成り立っているんだよね。

きちがいヘビメタ騒音で、ネズミが出る状態より、ずっとはりつめた状態で暮らしているんだよ。毎日そんな状態でいいわけがない。ヘビメタをあびると、普通なら、普通に眠れる時間に、まったく眠れなくなる。あんなものを何時間もあびて、睡眠回路がくるわないわけがないだろ。何時間も何時間も、あのきちがいの音を至近距離で浴びたので、気がたって、眠れない状態になっているんだよ。「眠れると言えば眠れる」……。そんなことはない。言っておくけど、めちゃくちゃに眠たい状態だ。けど、眠たい状態でからだが動かないのだけど、それでも、眠れないのである。ヘビメタ騒音というのはそういう騒音なんだよ。あんなの、どかすか、ずっと、聞かされ続けて、毎日眠っていた時間になったら、眠れるかというと、眠れない。けど、これが、ようするに、ぼくの側の、問題だと思われてしまうのだ。きちがい兄貴がいない人たちにとっては、そういう経験がないわけだから、普通の騒音を思い浮かべて、鳴り終わったら眠れるはずだと思ってしまう。 

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行きたくないとか、動きたくないとかというのは、ヘビメタ騒音の影響なんだよね。だから、俺とおなじ期間の長さ、きちがいヘビメタ騒音が続いた人じゃないとわからない。毎日、寝不足で、起きて、動いていた。どれだけ、つらい状態か、みんな、わかってない。俺だって騒音ぐらいあった」という人だってわかってない。「俺だって朝はつらい」という人だってわかってない。その人たちは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない。俺にとってのヘビメタ騒音。その人たちは、その人たちにとって、この世で一番きらいな騒音が鳴っていると考えてくれる。そりゃ、ヘビメタが好きな人と、俺とでは、ヘビメタ騒音に対する感じ方がちがうだろ。ぜーんぜん、ちがう。きちがい家族に、長期間、毎日、やられてない人が、「俺だって」「わたしだって」と言うな。

きちがい兄貴のきちがい的な騒音がはじまるまえとは、「朝のつらさ」がちがうんだよ。「眠れない状態」がちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうんだよ。ずっと毎日つみかさなったときの、朝のつらさと、眠れな状態は、きちがい兄貴がヘビメタ騒音をやるまえの、朝つのらさや眠れない状態とはちがうんだよ。きちがい兄貴がヘビメタ騒音やるまえというのは、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音鳴らしてなかった期間のことだ。その期間中だって、騒音はあったわけ。つらい朝はあったわけ。つかれたと思う状態はあったわけ。けど、それらと、ヘビメタ騒音以降のそれらは、ちがう。ちがうんだよ。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音経験がない人は、それがわからない。

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きちがいヘビメタが鳴っていると、ぼくの人間関係がばらばらになっていく。友人関係が、全部、トラブルとともに、消える。どうしてもどうしても、いやな出来事が発生する。これだって、「誰だっていやなことはある」と言える。きちがい親父にやられていたぼくですら、きちがいヘビメタ騒音前の『いやな出来事』はある。きちがい親父にやられていた分、ほかの人よりも『いやな出来事』の回数が多いのである。けど、そういうこととは、くらべものにならないほど、ヘビメタ騒音というのは影響をあたえる。ほんとうに、毎日、数時間か、十数時間続くわけで、くるしい。

どれだけ、ヘビメタ騒音のなかで、がんばって、暮らしても、どうしてもどうしても、影響をうけるのである。日中の友達とのやり取りにも影響が出る。友だちと高校入試のまえに願書をもらいに行ったときの気分や身体状態も影響をうける。どれだけ、気にしないようにしてがんばっても、どれだけ、ほかの人にさとられないように頑張ってみても、やっぱり、影響があるんだよね。けど、実際に、きちがい家族による、長期間のきちがい騒音を毎日経験した人じゃないと、どれだけがんばっても、影響が出る……人間関係に影響が出るということが、わからない。あるいは、ほかの人との出来事に影響がでるということがわからない。

「できると言えばできるとか「どれだ騒音が鳴ってたって勉強はできる」とか「眠れると言えば眠れる」とか「みんな、騒音ぐらいある」とか「みんな、つらい思いをして生きている」とかと言ってしまう人が、理解できることではないのだ。この人たちの理解というのは、この人たちの経験の範囲での、理解だ。けど、きちがい家族によるきちがい行為は、その人たちの経験の範囲外のことなのである。だから、範囲外の影響が出るのだけど、範囲外の影響は、この人たちにはまったくわからないから、自分の範囲内の影響と(おなじような影響だと)勘違いしてしまう。

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ヘビメタ騒音の感覚が、ぬけない。これ、ヘビメタ騒音の朝だ。これ、ヘビメタ騒音の朝とおなじ朝だ。

2024年9月9日月曜日

おカネというのは、虐待の道具……この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。

 いま、近所で工事をしているけど、つかれかたがちがう。ヘビメタのつかれかたといったら、『普通の騒音』のつかれかたとはちがう。ぜーんぜん、ちがう。あの、つみかさね。あの堆積。あの日常。あの毎日。

わかるわけがない。経験してない人にわかるわけがない。きちがいヘビメタ相応がはじまるまえまで、俺だって、『普通の騒音』を経験してきたんだよ。それこそ、普通に経験してきた。家のまんまえが「でかい」幼稚園なので、普通の人よりもずっと、『普通の騒音』を経験してきた。けど、ヘビメタ騒音は、ぼくにとっては、普通の騒音じゃない。ぜんぜんちがう、異次元の騒音だ。あれをずっと、すぐ横でやられて……いいわけがない。ヘビメタ騒音がない状態とおなじ状態で暮らせるわけがない。普通の人がぼくにもとめているのは、ヘビメタ騒音がない状態で求めているものなんだよ。精神世界の人が、「できると言えばできる」と言ったって、できないんだよ。あの、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴ってたら、できない。壁が透明なら、あのでかい音を出している、あのでかいスピーカーがすぐそこに見える状態なんだぞ。手が届くようなところにあるものなんだぞ。あんなの、普通のうちの、普通の部屋に、置くものじゃないんだよ。頭がおかしいから、こだわりきって、ああいうとてつもなく高価なスピーカーを買う。鬼になって、アルバイトをして買う。アルバイトをして、兄貴が兄貴のカネで買ったので、きちがい親父は、もう、制御できない。きちがい親父が、子どもにやってきたことというのは……。ほかの人にはわからないだろうけど、きちがい親父のカネの制御……カネによる支配というのは、尋常じゃない。これ、きちがいの家に住んだ人じゃないとわからないのだ。きちがい親父は、カネに対しても、きちがいなんだよ。むしろ、カネに対するきちがいの度合いが、ほかのことに対するきちがいの度合いよりも、ずっとずっとずっと、強い。カネは、一円でも、ぶつかりあい。カネのことで、子どもを虐待しまくる。これ、カネというのは……一種の……虐待の「道具」なんだよ。これも、普通の人には、まったくわからない。きちがい親父とおなじような感覚をもっているきちがいにやられた人しかわからない。もちろん、親としてね……。きちがい親父とおなじような感覚をもった親にやられた人しかわからない。どれだけの意地か、わからない。ほんとう、「子どもにカヌー体験をさせてやろう」なんて人の世界じゃない。この人たちは、この人たちで、それがあたりまえだと思っているから、特殊な鈍感さを発揮する。もう、まったくわかってない。この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。この人たちにとっては、きちがい親父のカネに対する行動や、きちがい親父のカネに対する感覚は、未知の世界なんだよ。まったく理解してない。理解していないと、俺が言っていることがおかしいように、(この人たちには)思えるのだ。これも、縮図なんだよね。これ、縮図なんだわぁ。えーっと、これは、言ってしまってはまずいのだけど、自らが精神病の人たちがかかえている悩みとはちがうんだよ。カヌー体験ぐらいさせてやろうと言っているような親?と、自らが精神病である人たちというのは、『親父の行為』の理解について、対極にある人たちなんだよな。ある意味……。こんなの、わからないと思うけど。けっきょく、うちのタイプの親父にやられた人の苦悩というのは、カヌー体験とか言っている人にはわからないし、自らが精神病である人にもわからない苦悩んだよな。どんだけの意地でぶちあたってくるか、まるでわかってない。きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじなんだよ。これも、言ったってわからないと思うけど……。言っておく。 きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじ。

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2024年9月8日日曜日

「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」

 ほんとうにヘビメタ騒音で「できない」状態になるのである。できなくなるのである。ヘビメタ騒音「で」そうなる。ほかの理由じゃない。ヘビメタ騒音でそうなる。こんな、ヘビメタ騒音なんて、きちがいにあきが、きちがい兄貴だから鳴っているものだ。ほかの人は、きちがい兄貴じゃないから、「こんな音で鳴らしたら迷惑だな」と思って、そういう音で鳴らさないのである。けど、きちがいだから、「こんなのたいした音じゃない」と思って鳴らすんだよ。じゃあ、ほんとうに「たいした音じゃない」のかというと。そうじゃない。きちがい兄貴にしたって、別の音が、鳴ってたら、「うっさい!!!」と思う音のでかさなんだよ。別の音だったら、一分で……一分間で、かんかんになっている。そういう音だ。きちがい兄貴にしたって、自分が鳴らしたい音ではない音が、鳴ってたら怒り狂うような音量なのである。自分が鳴らしたいから、「鳴らしていい音」になっている。

だから、ほかのうちでは鳴ってないのだ。だから、ほかのうちの人は、毎日毎日、長時間にわたって、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされるという機会がない。これ、ほんとうに、ちがうのである。ちがう。工事だってうるさいけど、ちがうのである。あの至近距離の、毎日の騒音は、ちがうのである。ちがう効果がある。鳴っている時間帯だって、鳴っていた期間の長さだって、ちがうのである。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、俺と同等の騒音を経験したということになってしまうのである。おまえの家族にきちがいがいたわけじゃないのに、きちがい家族が鳴らす騒音を経験するわけがないだろ。きちがい家族が鳴らす騒音と同等の騒音を生活のなかで、毎日経験するなんてことはないんだよ。普通の人は、そんなことはしないからだ。工事とはちがうんだよ。効果がちがうんだよ。きちがいのつごうで鳴ってしまうわけだし、きちがいは、「このくらいの音で鳴らしていい」と思って、鳴らしたいときは、一秒もゆずらずに鳴らすわけだから、調節ができない。これ、絶対の意地で、普通の工事時間とはちがう時間に、ずっと鳴らすので、そもそも、睡眠にあたえる効果がちがってくるのである。あるいは、休みの日はずっと鳴らしているのだけど、平日のあとの休みの日なんだよ。これ、例外なく、こっちがどれだけこまっていても、つかれていても、鳴らすということだ。きちがいだから、まったくなにも気にしないで鳴らすのである。自分のなかで、鳴らしていい音ということになっていたら、いつ鳴らしたっていい音ということにもなっているので、鳴らしたかったら、ずっと鳴らすのである。途中で、がまんしてくれるということがないのである。そうなると、普段のヘビメタ騒音でつかれはてた状態で、新しい騒音に直面するということになる。一切合切の融通がきかない。平日のつかれをとるというわけにはいかない。平日の『勉強のおくれ』を、休日に取り戻すというわけにはいかない。全部が、きちがい基準。全部が、ほんとうにやってないつもり。よそのうちで、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、全部の時間、きちがい感覚で鳴らしているのである。だから、よその人は、そういう家族がいないわけだから、経験したことがない。きちがい家族が出す騒音を経験したことがない。きちがい家族が出す騒音がずっとずっとずっと、続いた場合のことがわからない。経験的にわからない。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族が出す騒音を経験したことになってしまうのである。こんなのはない。そして、それが、騒音だけではなくて、騒音がつくりだすつかれにも、成り立つ。「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」と言えば、きちがい家族の騒音がずっと鳴っている生活をしているのとおなじぐらい、つかれていることになってしまうのである。

2024年9月7日土曜日

全部、いやだ。

 きちがい親父からしょうじたことが、全部いやだ。きちがい兄貴からしょうじたことが全部いやだ。

全部、いやだ。全部、ぶち殺したいほど、腹がたつ。全部、おなじ。 

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きちがい親父は、怒り狂ってはねのければ、それで、まったく関係がない人になってしまう。きちがい兄貴は、怒り狂ってはねのければ、それでまったく関係がない人になってしまう。どれだけ、こっちがこまるか。こんなの、怒り狂って殺さなかったら、ずっとやれるだけになってしまうだろ。あいつらは、きちがい的な意地でやるのに、きちがい的な意地でやったことは、全部やってないことになっている。

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それで、きちがい親父がネズミを入れたことで、発生したことが、またいやなんだよ。いまだって、腕をダニに刺されている。きちがい親父がやったことを、きちがい親父が死んだ後に、あるいは、きちがい親父が入院しているときに、対処しなければならなくなるのだけど、それがまた、きちがい親父から派生したことというのは、いろいろな問題がしょうじることになっているんだよ。俺がやらなくていいと言ったことを、やっちゃうようなやつが工事をすることになる。これ、家がふるすぎて、ふるい家のことがわかっている人じゃないとだめなのだ。考え方が、むかしの人だから?一度関係ができたら、自分が好きなようにやってあげるのがいいと思っているところがある。やるなと言ったことは、やらなくていいのに、やるなと言ったことを、やってしまう。信用が置けないので、ほかの人に頼もうかなと思って見つもりにきてもらったら、見積もりにきた人が、蚊に刺されたと文句を言う。これだって、俺がずっと、親父に言っていたのに、もっとひどい状態だったのだ。ダニのことで文句を言われることは想定していたけど、竹は、一度きれいに切ったので、竹のことで文句を言われると思ってなかった。丈は、背丈が三〇センチぐらいになっていた。切るまえは三メートルあった。「これで切ったというのか?」と怒って言いやがる。「切ったんだよ」と俺がこたえた。ともかく、イレギュラーなことばかりで、ほんとうにいやになる。門だって、ほんとうはなおしたいけど、門をなおすとなると、ガスボンベが通らなくなるのだ。全部がつむようにできているんだよ。この、ネズミの侵入というのは、ほんとうに親父らしいことなんだよな。普通の人は、二三(にじゅうさん)時間、なにもかけないで、魚の切り身を出しっぱなしにしない。これも、どれだけ、言っても、きかないのだ。やめない。毎日、魚の切り身を二三時間ぐらい、テーブルの上に置いておくということにこだわって、そうする。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、これとまったくおなじだ。宿題をしなかったことで俺が文句を言われる。みんな、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしているかわからないから、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。「できないのだ」と言ったって、相手は認めない。その相手だって、詩文がきらいな音をあの至近距離で、あの音の出かされで鳴らされたら、宿題なんてできないのに、それがわかってない。しかも、鳴っているときだけではなくて、鳴り終わったあとも、できないのだ。けど、実際にやられたないやつは、これもわからない。「鳴り終わったらできるだろ」と思ってしまう。これも、午後一一時一〇分までやられたとき、どういう状態になっているか、自分のからだでわかってないから、好き勝手なことを、想像で言ってくることになる。

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きちがい兄貴が、きちがい行為を、きちがい行為だとわからずに、やりきると、俺がほかの人から文句を言われるようになるんだよ! そして、ほかのやつは「人のせいにしている」と言い出す。宿題ができなかったことを、兄のヘビメタ騒音せいにしているというのだ。屈辱。しかも、こういうことを言ったやつが、俺を特別に侮辱しようと思って、わざと言っているのではなくて、ほんとうにそう思って言っているのだ。こういう、バカの壁。未経験者の壁。このバカの壁。こいつらも、認めないという点では、頑固だ。きちがい兄貴とおなじだ。できなくなるのに、できなくなるということを認めない。自分なら、そんな騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできると思っている。鳴ってない時間ならできると思っている。できないんだよ。これは、できない。どれだけ、がんばってやろうとしてもできない。何時間もきちがい騒音にさらされて、からだがボロボロになっている。脳みそがボロボロになっている。そして、ほとんど、眠れないまま、次の日の朝になってしまう。そういうことの繰り返しでいいわけがない。 

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ともかく、きちがい兄貴の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。他人は、たしかに、きちがい兄貴ではなくて、きちがいヘビメタを鳴らしてない。けど、俺を侮辱している。

ともかく、きちがい親父の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。波紋のように広がっていく。 

きちがい兄貴の頑固な行為やきちがい親父の頑固な行為が、いろいろな、トラブルを引き起こす。他人とのトラブルの原因になっている行為を、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがい的な意地でやめない。そして、他人は、きちがい兄貴ときちがい親父の「きちがい的な意地」に関して、無頓着なのだ。わかってないからわかってない。他人は、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから、きちがいというものが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をやるのかわかってない。まったくわかってない。「言えばいいでしょ」という意見なのだ。他人は、簡単に考える。言って解決するなら、とっくに解決している。

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ちなみに、「できると言えばできる」というようなことを言う人も、まったくわかってない人なんだよ。こいつらの、妄想的な思考というのは、ほんとうに、腹がたつ。 

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きちがい親父、きちがい兄貴、きちがい親父の行為とはまったく関係がない人、きちがい兄貴の行為とはまったく関係ない人が、次から次へと、俺をくるしめる。きちがい兄貴が、うちでやることなんて、ほかの人にはわからない。ほかの人はほかの人の基準でものを言う。そして、その基準が、うちのなかでは、妄想なのである。まったく現実的ではない、妄想なのである。うちのなかでは、世間の常識のほうが、妄想なのである。きちがいがどれだけの意地で、きちがい的に矛盾があることをやるか、みんな、わかってない。きちがい的に矛盾があることというのは、きちがい的な意地でやったのに、本人は、まったくやってないつもりでいるということだ。きちがい兄貴や、きちがい親父が、気がついてないのである。こんなの、普通の人が想定して考えられることではない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。やってないことにしてしまう。そして、きちがい的な意地で、頭がおかしいことをやりきる。「やったって、やってない」のだ。そういう、きちがい的なやり方で、自分の欲望を満たそうとする。そういうきちがい的なやり方で、自分がやりたいことをやる。そういうきちがい的なやり方で、「やってはいけないこと」をやり通す。それで、「やったって、やってない」という感覚で生きている。それで、「やったってやってない」という気持ちで生きている。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、常識的に考えれば?……これは世間の人の常識と一致しているのだけど……常識的に考えればやっちゃいけないことなんだ。きちがい親父の、魚を出しっぱなしにする行為だって、くさいわけだから、やっちゃいけないわけなんだよ。くさいということを認めたくない場合は「くさくない!!!くさくない!!!くさくない!!!」と怒り切って、やり通すんだよ。そして、たとえば、自分が入院して、もう、くさい魚を出さなくていい状態になったら、「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」と命がけで、叫ぶ。おなじなんだよ。否定のしかたがおなじなんだよ。この「皿なんて出してない」というのは、自分が皿を出したということを認めると、まずいから、そういうふうな気持になって、事実を頭のなかで書き換えて、叫んでいるんだよ。わかるかな? くさい魚を出しっぱなしにして、ネズミを入れたということを、認めたくないんだよ。そうなったら、事実をくつがえして、否定する。そのときはそのときで、「皿なんて出してない」という気持でいっぱいなんだよ。皿というのは、もちろん、魚をのせた皿のことだ。

ヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、「でかくない」と思うんだよ。そうしたら、自分はでかい音で鳴らしているわけではないといういいわけが頭のなかにできるんだよ。そうしたら、きちがい的にでかい音でずっと鳴らしきることができるようになる。きちがい的にでかい音で、ずっと鳴らしたって、きちがい的にでかい音でずっと鳴らさなかったということになってしまうのである。どうしてそうなるかというと、無意識的には、ヘビメタの音が猛烈にでかい音だということを強いっているからだ。ヘビメタの音が迷惑な音だということを知っているからだ。自分が、意識のレベルで、迷惑な音だということを、認めてしまったら、自分が思ったとおりの音で、鳴らせなくなってしまうのである。だから、無意識的なレベルで、聴覚にかかわる認知を書き換えて、「でかい音じゃない」ということにしてしまうのである。そして、一五年間、それで毎日やりきるのである。その一五年間のあいだは、ずっと、きちがい的にでかい音で鳴らしたのである。それは、認めないのである。意識的には、でかい音で鳴らしてないことになっている。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしてないということにしてしまったのである。そういう、感覚のゆがみが常にあるんだよ。そして、そういうやり方で、押しとおしてしまう。そんなの、他人にはわからない。きちがい家族と一緒に暮らしてない人にはわからない。でかい音で鳴らしていればでかい音で鳴らしているということが、わかるはずだということになっている。もしわからないのであれば聴覚に異常があるからわからないのだということになっている。

やりきって、やりきって、きちがい的な意地でやりきって、認めないのである。きちがい的な意地でやりきったということを、きちがい的な意地で認めない。本人が認めなかったら、ほんとうに、本人のなかでは、やってないことになっているのである。

こまるんだよ。こまるんだよ。こういうやり方だとこまるんだよ。こまるんだよ!

2024年9月6日金曜日

そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。

 ヘビメタ騒音の影響というのが、みんな、わかってないんだよな。どれだけ影響をあたえるか、わかってない。こいつらだって、自分がきらいな音でやられれば、わかるのに、やられたことがないからわからない。もちろん、こいつらにしたって、「うるさい」と感じたことはあるんだよ。「騒音体験」はある。じゃあ、おなじレベルの騒音を、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さ聞かされたのかというと、そうじゃないんだよ。けど、「俺だって、騒音ぐらいあった」と言えば、そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。だから、だれだけ影響をあたえるか、わかってないやつが、「俺だって、知っている」という前提でものを言ってくることになる。ちがうんだよ。経験がないから、ちがうということがわかってないだけだろ。ほんとうに、学歴も職歴もボロボロになる。学歴や職歴がボロボロになってないやつが「俺だって、騒音ぐらいあった」と言ったって、意味がないんだよ。それは、きちがい兄貴が実際にもたらしたこととは、ちがうことについて語っているということなんだよ。

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ヘビメタ騒音が五〇〇〇日、積もったときの、からだの状態なんて、わかるはずがない。「俺だって苦労した」と言っているやつが、ヘビメタ騒音相当の騒音五〇〇〇日分を、経験したことがあるのかというと、ない。ないからない。ないからわからない。

あの経験がないのに、「人間は働くべきだ」なんて言っている。俺だって、騒音ぐらいあった。俺だって苦労したと言う。そういうことを言っているやつだって、実際に経験したら、働けなくなる。起きることができなくなる。一定の時間に起きることができなくなるし、普通の労働時間にたえられなくなる。普通に働くということが、どうしてもできなくなる。普通に働いているのだから、同質、同等の騒音を経験してない。そして、この騒音の「みなもと」が家族なんだよ。これだって、経験してないだろ。家族がやる騒音で、そこまで、おいつめられるという経験がないわけじゃないか。そんなやつが言う、「俺だって苦労した」に、いったい、なんの意味があるのか? 働けるぐらいの苦労なんだろ!! 

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実際の「状態」と、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」「人間は働くべきだ」というやつが考えている「状態」というのが、ちがうのである。実際のヘビメタ騒音の状態、そして、実際のヘビメタ騒音がもたらす影響……こういったものと、こいつらが頭のなかで考えているべメタ騒音がもたらす影響がちがうのである。こいつらの経験のなさ、こいつらの思考力のなさ、こいつらの想像力のなさ……。こいつら想像力がじゅうぶんでないために、こいつらは、必然的に俺を見下して、侮辱する。こいつらのほうが、人数が多い。こいつらのほうが、全体のなかでの割合がでかい。九九・九%のやつが、必然的に誤解する中で、生きていくというのは、つらいことだ。こいつら、まったくわかってない。「助言してやったのになんだ」と怒り出す。こいつら、まったくわかってない。

「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」

説明をするのがめんどうだから、はしおるけど「そうですか」と言ったら、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつがいたなぁ。メーリングリストというのがあって、通信制の大学のメーリングリストに登録していたわけなんだけど、俺は、そこで、ヘビメタ騒音のことを書き、基本無職だということを書いておいた。ところが、いろいろあって、ぼくがプログラマーだと勘違いした人が出てきたんだよ。これは、当時「あいから始まるーマ字入力」というサイトをつくっていたのだけど、そのウエブページの機能の一部をジャバスクリプトを使って、書いた。けど、俺はひとこともプロのプログラマーだとは言わなかったんだよ。あれは、ウエブサイトなのだけど、俺のことをプログラマーだと勘違いした人は、ウエブサイトをソフトウエアだと思ったんだよね。あれは、ウエブサイトなのだけど、タイピング練習ソフトに見える……ような気もする。でっ、いちいち、あれは、売り物にする予定だし、一部のプログラムは、たしかに、ぼくが書いたものなのだけど、職業的なプログラマーとして働いたことはないのだ。でっ、そういうことをちょっと説明しようと思ったのだけど、ずっと、何回もヘビメタ騒音にやられて無職だということは、そこに書いたことがあるので、いちいち、無職だということを、書かなかった。でっ、冒頭の「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつと、数人でオフ会をしたんだよ。とりあえず、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつのことを、せっかく君と言っておこう。せっかく君は、数種類のミニプログラムがついている雑誌を出版している会社のプログラマーだった。これ、じつは、何冊か持っていた。これ、ちょっと、わからないようにはずして書いているんだけどさぁ。実際には、パッケージ商品なんだよね。まあ、そこらへんはともかくとして、せっかく君が、話したかったような業界話というのは、ぼくはできない。話をふられるのもいやだった。「これこれこういう会社で、あの雑誌をつくっていたんですよ」とせっかく君が言ったときに、「そうですか」とそっけなくこたえた。そうしたら、怒っちゃったんだよね。

ぼくが全体的に言いたいことは、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、こんなことになってないということだ。これ、みんな、ヘビメタ騒音の妨害度や破壊度がわかってない。あれだけ、無職だと書いているのに、かさねて、無職だということがいやだった。きちがいヘビメタ騒音がなければ……きちがい兄貴が、あの時期に、きちがいヘビメタに凝りまくることがなかったら……ぼくは、絶対に、簡単に自己紹介できる職業についていた。学歴も職歴も、「こんなんですよ」と言える状態だったはずだ。これ、実際に、家族がしつこく鳴らしている騒音で人生が台なしになった人じゃないとわからないと思うけど、いーろーーんーーな、ところで、不愉快な思いをする。これ、みんな、ヘビメタ騒音のことを軽く見るから、俺がなんかさぼっているように見えるわけだけど、ちがうんだよね。ヘビメタ騒音で「なんだかわからない人」とになってしまったわけで、ヘビメタ騒音がなかったら、ちゃんと自己紹介ができる人間だったんだよ。

くわしく職歴を聴かれたらいやだなと思って、「そうですか」と言っただけなのに、そのひとことで、怒りまくっている。そのオフ会にきていた女の人が「そうですかって言っただけなのに」「プログラマーでも、期待していたような話ができるとは限らない」ということを言っていたのだけど、まさしく、その通りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月5日木曜日

「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 きちがいヘビメタなんて、きちがい兄貴の趣味なのに……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなかったら、ならなかった音なのに……。きちがいが、きちがいの意地で、でかいでかいスピーカーを買って、がんがん鳴らす。固体振動あるよ。固体振動が、睡眠に影響をあたえるんだよね。不可避な影響だ。きちがい親父とおなじで、言いだしたらきかないのだ。きちがい親父とおなじ頭の構造で、無視をする。やってないつもりでいつもやる。きちがいしか鳴らさないようなでかい音で鳴らしているのに、きちがいだから、普通の音で鳴らしていると思っている。聴覚が正常なら、でかい音だというのは、わかることなんだよ。そして、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音で聴覚が弱くなるまで、聴覚は正常だった。これ、ようするに、きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを認めないという態度なんだよ。そして、それが無意識的なレベルで起こっていることだから、本人は、ほんとうに知らない状態なんだよ。けど、穴があいている。嘘の穴があいている。嘘丸出し。きちがいだからできる芸当だ。しかも、普通の人だったら、絶対に一〇分だって鳴らさない音なのに、きちがいだから、絶対に一〇分だって、しないのだ。それであたりまえだと思っている。ゆずってやらなかったのに、ゆずってやったと思っている。全部、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。きちがい親父が、きちがい感覚で、自分の維持を通してしまうときのやり方とおなじなんだよ。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。そして、自分がやりきったことを、絶対に認めないという、きちがい的な態度が、おなじだ。きちがい兄貴ときちがい親父でおなじだ。その態度で、こっちの、こころが、破壊される。その態度で、こっちの生活が破壊される。その態度で、こっちの人間関係が破壊される。全部、破壊される。毎日続く。「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月4日水曜日

「相手をほめるのがいい」

 よく、「相手をほめるのがいい」というようなことが言われるけど、これも、失敗したほうが多い。特に、「ほめよう」と思って、ほめたときは、ほぼ一〇〇%失敗することになる。相手を褒めるのがいい」というようなアドバイスは、一見、問題がなさそうなんだけど、問題がある。こういうのは、「汎用」ではない。ほんとうは、ほめる側の人の立場とか、ほめられる人の側の立場とかというものが、実際の場面ごとにちがう。埋め込まれた文脈というものがぜんぜんちがうのだ。人によって、立場によって。立場といたけど、これも、たくさんある条件のなかのひとつの条件にすぎない。相手を褒めるのがいい」といった場合は、汎用性があり、どんな条件でも成り立つような感じがする。けど、無理やり?ほめようとしている人に、ほめられて、いい気分になる人のほうが少ないのだ。そして、時系列的に複数回そういうことがあるとなると、それも、複数回そういうことがあったという条件がしょうじることになる。関係性の時間的な連続と、「ほめたという」出来事からしょうじる(双方の感情的変化)というものも、じつは考えなければならない。これも、条件のひとつだ。ともかく、場面には、無数の条件が埋め込まれている。けど、「相手をほめるのがいい」というときは、すべての条件が捨象されている状態なのだ。そして、「相手をほめるのがいい」と言ったときに、たいていの場合は、例をあげるのだけど、その例というのは、複数の条件が、うまくっているときの話なのだ。だから、それらの複数の条件が成り立ってない場面では、それらの複数の条件が成り立っているときのようにうまくいくとは限らない。

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基本的に、きちがいヘビメタ騒音にやられていると、停滞した状態になる。そして、それが十数年もつみかさなるなら、いろいろと、ほかの人から悪く言われる立場になる。その場合、打開策として、いろいろなアドバイスを受けることがあると思う。あるいは、本を読んで、こうしたほうがいいのではないかと思うようなことがあると思う。それを実行すると、ほとんどの場合、うまくいかないのだ。これは、その人が悪いのではないかということになるのだけど、どうもちがう。その人というのは、この話だと、ぼくだ。ぼくのやり方がへたくそだから、うまくいかないという話になってしまうのだ。けど、どうも、汎用的に、うまくいかないのである。たいていの場合、そういうアドバイスはむしろうまくいかないことが決まっている。逆の結果を招来するのである。

この手の、本に書いてあるようなアドバイスというのは、たいていの場合、うまくいかない。それは、へたくそな人だけではなくて、うまい人?の場合も、うまくいかない。アドバイスに書いてあること、というのは、うまい人がやっても、うまくいかない場合のほうが多い。そうなるしくみがある。うまいというのは、普通に人のこころが読める人のことだ。普通に人のこころが読める人だって、さまざまな条件により、悪い状態になることがある。この悪い状態というのは、まあ、立場が悪い状態のことだ。ようするに、普通の人が、アドバイス通りにやっても、たいていの場合、うまくいかないのである。どうしてかというと、「汎用性のあるアドバイス」というのは、実際の条件を捨象してしまっているから……。そして、例として出てくるうまくいった場合の話というのは、非常に限られた条件が、じつはある話なのだ。だから、話のなかでは、うまくいくのだけど、実際の条件のなかでやると、うまくいかないことのほうが多い。

*     *     *

「すべてから、話の例を引いたもの」が、話の例に近いものなのではなくて、むしろ、話例から遠いものなのではないかと思うのだ。「すべて」というのは、そのアドバイスをこころみたときの、すべての例だ。ようするに、条件が埋め込まれた現実場面で実際に発生した例のことだ。

正直言って、いろいろと、やる気がしない

  しかし、まあ、どうするか? 正直言って、いろいろと、やる気がしない。むかしは、もうちょっとやる気があった。やはり、親父のネズミ事件で、だいぶ消耗している感じがする。すべてが、出ているんだよね。なんのことだか、普通の人はわからないだろうけど……。頑固に、まったく言うことをきかない状態で、こまらせるんだよね。あれ、病院に入院しているとき、めずらしく、うち以外でその症状が出てしまったんだけど、やられればわかるんだよね。医者も、最初は、「それは、認知症の健忘でしょ」など言っていたのだ。ちがうんだよね。ちがうということがわかるようになるんだよ……。自分がかかわればね……。自分がかかわらないとわからないわけ。だいたい親父だって、いつも、「うちの状態」を外でさらすわけじゃないからなぁ。あれ、入院しているときに、「うち」と「そと」がひっくり返っちゃったんだよね。そのときは、俺に対して、丁寧になった。

2024年9月3日火曜日

不適切なことを言うな

 あーー。ほんとうに、ヘビメタ騒音で不愉快なことばかりだったぜ。これ、ヘビメタ騒音で、働けないからだになるのに、実際にきちがい家族によるヘビメタ騒音に、さらされたことがない人はそれがからないので、ヘビメタ騒音にさらされると働けないからだになるということが、わからないのである。根本的にわからない。だから、「俺だったら平気だ」「わたしだったら平気だ」という考えにしたがって、無職である俺(エイリ)をせめるということになるのである。せめるほうは、気楽かもしれないけど、せめられるほうは、気楽ではない。そりゃ、毎日の積み重ねがあるからだ。この毎日の積み重ねがわからないやつが、不適切なことを言うなということだ。けど、それを言ったとしても……それをぼくが、相手に行ったとしても、相手は、基本的に「きちがい家族のヘビメタ騒音に長年さらされると、働けなくなるということ」がわかってないので、認めない。

きちがい家族の騒音が、並じゃないのだ。きちがい家族がいない人には、わからない。どうしてかというと、経験したことがないからだ。ほんとうに、騒音といっても、きちがいヘビメタ騒音が恥じるまえの騒音体験と、きちがいヘビメタがはじまってからの騒音経験がちがうのである。どうやったって、影響をうけるのに、やられたことがない人たちが「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。これ自体が、不愉快なことだ。

そして、そういうのは、小学六年生から積み重なってしまうので、小学六年生から生活が地獄なのだ。これ、ほんとうにちがうんだよね。きちがい兄貴のやり方が、きちがいだから、並じゃない影響をうけることになる。すべてのキレイゴトが、ふっとぶ。けど、ほかの人たちは、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。きちがい家族がいなかった人は、一生涯、騒音に関しては、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。だったら、話があわなくなる。 

「そんなことじゃない」とどれだけ、ぼくが言っても、次から次へと、誤解したことを言ってくる。「ちがう」と言っているのに、ほんとうに、こいつらもわかってないなぁ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。