ヘビメタ騒音というのは、どうしても、普通の生活ができなくなる『害』なんだよ。
ところが、普通の人にはそういう経験がないので、ヘビメタ騒音がそれほどの『害』だとは思わないんだよ。
普通の人だって、それは、いろいろな苦労がある。疲労生活がある。
この世で、生きるというのは、そもそも、たいへんなことだ。
そして、日本の学生生活や、日本の会社解説というのは、そもそも、つかれるものなのである。だから、みんな、「つかれ」を感じて生きている。けど、その「つかれ」というのは、ヘビメタ騒音でしょうじる……不可避的にしょうじる「つかれ」とは、決定的ちがうものなんだよ。
けど、ちがいがわからない。
普通の人は、普通の日常生活でしょうじるつかれと、ヘビメタ騒音生活でしょうじるつかれの区別が、できない。体験的にできない。経験的にできなくなっている。
だから、普通の人たちにとっては、初期値で、「どっちも、ちがいがない」ということになっている。もちろん、両方のつかれを経験したあと、「どっちも、ちがいがない」と判断しているわけではない。
最初から、ヘビメタ騒音生活のつかれは経験したことがないつかれなのだ。だから、想像で「ヘビメタ騒音生活のつかれ」というものを考えるしかない。知らないからわからないということがわかってないので、初期値として「どっちも、ちがいがない」という判断を採用してしまうのである。
だからまあ、どっちも知っていて、「どっちも、ちがいがない」と言っているわけではなくて、知らないのだけど、知っているつもりになって「どっちも、ちがいがない」と言っているだけなのだ。
まず、ここに誤謬があるのである。けど、はっきり言えば、ぼく以外の人は、知らないわけだから、「ぼく」対「世間の人全体」ということになってしまうのである。想像で、「違うよな」ということがわかる人がごくまれにいる。けど、その人は、想像力が高いけど、経験がないということには、かわりがないということになる。ごくたまれにいる、想像力の高い人ですら、想像がおよばない部分が、ヘビメタ騒音生活にはある。