過去の解釈をかえれば、過去はかわるのだから、過去にこだわる必要はない……というような意見があるのだけど、それはちょっとちがうのではないかなと思う。
問題なのは、解釈をかえたいと思っている自分が、ほんとうに、納得できるのかということだ。「こういうふうに思いたい」「過去の出来事についてこういうふうに認識すれば、いい認識になる」ということなんだよ。「こういうふうに思いたい」という気持がある。「こういうふうに再解釈したい」という気持がある。
けど、それって、いまの自分が、過去の出来事について、こういうふうに考えると、過去の出来事が(今の自分にとって)いいものになるよね……という考え方なのだ。
意図がある。
じゃあ、どうして、再解釈しなければならないような認識が(今現在)成り立っているのかというと、今現在成り立っている解釈というのが、(今の自分にとって)不都合なものだからだ。
ようするに、たとえば、つらい過去の出来事があったとする。つらい過去の出来事と書いてしまったけど、ある出来事について、いまの自分や、いままでの自分が、「それは、つらい出来事である」と認識しているということだ。
つまり、ある出来事というのは、中立的な出来事ではなくて、その発生時点で、つらいことだという認識が発生してしまった出来事なのだ。
そのつらいことだと……(過去の自分が認識した)……現実的な出来事を、いまの自分が……「じつは、たいしてつらいことではなかったんじゃないか」とか、「じつは、楽しいことだったんじゃないか」とか、「じつは、いい勉強になったのではないか」とかと、再解釈することによって、納得したいことなのだ。
再解釈して納得したいという力動がある。
ようするに、再解釈して楽になりたいという気持がある。
そういう気持があるということは、じつは、その出来事はつらい出来事だったという再認識が成り立っている。
そして、自分が、こういう方向で解釈しなおせば、自分にとってこういう出来事になるのだから、こういうふうに解釈しなおそうという意図がある状態で、ほんとうに、こういう方向で解釈することができるのかどうかという問題がある。
ごく自然に、自分のなかで、解釈がかわる場合は、解釈がかわるだけの理由が成り立っているのである。
ところが、意図的に解釈をかえようと思っている場合、すくなくても、自然に自分のなかで解釈がかわるような理由がないので、意図的に解釈をかえようとしているという状態なのである。
なので、自然に自分のなかで解釈がかわる場合とは、ちがった、心理的な規制がある。
なので、無理だ。