「よそのうち」では、ありえないことなんだよ。だから、よそのうちの人は、経験したことがないことなんだよ。そうすると、過小評価する。無視する。俺がどれだけ、「ヘビメタ騒音の影響できない」と言っても、認めない。こいつらは、無視して「できる」という前提で、話をすすめてしまう。「できる」というのは、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていてもできる」ということだし、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、できる」ということだ。現在進行形でも、過去形でも、できないものはできないんだよ。そして、努力のすえ、できなくなることがあるんだよ。ストレスに対抗して、がんばっている期間というのは、長くは続かない。そして、長く続いた場合は、負の影響をもたらすことになる。ようするに、もともとのストレスのほかに、時系列的には、がんばってきたということが新しいストレスをもたらすのである。あたらしいストレスと言ったけど、このほかにも、疲労感、倦怠感などがある。これも、時系列的に、からだがストレスにさらされて、「がんばってきたから」発生したものだ。ところが、「影響なんてない」というやつは、そういうプロセスを無視して、影響なんてない」と言うのである。くそばか。くそばか。
きちがい兄貴も、きちがい親父も、一般人も、ヘビメタ騒音の影響を、認めなかった。ガン無視なのである。「そんなのは関係がないこと」なのである。そりゃ、一般人には、関係がないことだ。けど、ぼくには関係があることなのである。過去の出来事でも、関係があることなのである。昨日の出来事でも、長時間続く出来事なのだから、今日の状態に影響をあたえるのである。昨日のヘビメタは、今日のぼくの状態に、影響をあたえるのである。長時間続いて、眠ることができなかった。眠ることができなかったということは、起きて活動している時間に影響をあたえるのである。「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。「影響がない」と、影響がない人は言うけど、影響がある。
ともかく、一般人は、ヘビメタの影響を、無視する。きちがい兄貴も無視する。きちがい兄貴は、張本人で実際に、ぼくの部屋の横で、きちがい的な意地で鳴らしていたやつだ。一般人は、ぼくの部屋の横で、ヘビメタを鳴らしてない。鳴らしてない。だから、そういう意味では、関係がない。けど、僕の身に起こったことだから、ぼくには関係があることなのである。一般人が、関係性を無視して、「関係がない」と言い張るのは、ぼくにとって腹がたつことなんだよ。
一般人は、俺が、どれだけがんばってきたか、まったくわかってない。きちがいヘビメタ騒音生活が続くのだから、がんばるしかないのである。これ、ほんとうに毎日、自殺するかどうかというようなでかい問題なのである。ぎりぎりのところで、がんばって暮らしてきたのに、まるで、俺がちょっと努力をすれば、問題が解決できるようなことを言うな。
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「ヘビメタ騒音→ヘビメタ騒音疲労→ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」という連鎖があるとする。これは、少ない項目の連鎖なんだけど、もっともっといっぱいいっぱい、たくさんの連鎖がしょうじてしまう。一般人にはまったくわからないと思うけど、「ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」こと自体が、とてつもなく、不愉快なことだ。これ、不愉快なことなのである。ネガティブな経験なのである。ヘビメタ騒音を起点として、無数の連鎖がしょうじる。そりゃ、第二項目から、別の第三項目がしょうじる場合だってあるわけだからそうなる。努力論や自己責任論は、俺の首をしめてくる理論なんだよ。こんなもの、妄想的な理論なのだけど、真実だと思っているやつは、正しい理論だと思っている。
こういう人たちの気持ちを考えると、言いたいことが言えなくなってしまうのだけど、こういう人たちは、考えちがいをしている。ともかく、「(ヘビメタ騒音なんて)関係がない」と言われることは、ぼくにとって、不愉快な出来事だ。猛烈にネガティブな出来事なのである。 「関係がない」と言わなくても、関係がないということが前提として成り立っていることを言われるのは、ぼくにとって、とてつもなく、不愉快な出来事だ。