アドラーの主張では、「自分がどう思われるかを気にする必要がない」ということになっているんだよね。けど、相手が傷つかないように気にするという部分がある。
けど、これが、この世は地獄で、そんなことがまったく成り立たない現実というのがあるんだよね。たしかに、まあ、だれだれのこころが傷つかないように配慮するということは必要なことなのだけど、枠組みというのがある。そして、相手というのがある。相手が、自分をないがしろにして、攻撃を加えてきた場合は、応戦しなければならなくなる。その場合、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をかかえていると、やばいことになるのである。どうしてかというと、相手が、ヘビメタ騒音の影響でそうなっているということを、まったく理解しないからだ。あるいは、相手が、ヘビメタ騒音の影響というもの自体を、まったく理解しないからだ。ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、「自分の考えを述べているだけだ」と思っているかもしれないけど、ぼくを侮辱しているところがあるんだよ。そりゃ、そうなるんだよ。たとえば、ほんとうに、ヘビメタ騒音で宿題ができないのに、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ヘビメタ騒音が鳴っていたって宿題ぐらいできるのに、やってなかったと思うわけだよ。ヘビメタ騒音とは関係なく、宿題をやりたくなかったから、ヘビメタ騒音でできなかったといっているだけなんだと思うわけだよ。これは、侮辱だろ。どういう気持で、問題集や教科書と、ヘビメタ騒音なかで、にらめっこをしていると思っているんだよ?
「できると言えばできる」と言ってしまう人だって、アドバイスのつもりで言っているのだろうけど、そういうことを言う人は、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視しているんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、どれだけ俺が「できるできる」と言ったって、できないんだよ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音でできないからだ。ヘビメタ騒音が鳴っていなければできるのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、宿題ぐらい、簡単にできるのである。けど、ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題もできない。この人たち……「できると言えばできる」と言っている人たちは、理由について、壮大な勘違いをしている。けど、これまた、「できると言えばできる」と言っている人たちに、だれだけ、ここに書いたようなことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響を無視したり、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができなくなるということを認めないのである。この人たちの頭のなかでは、ヘビメタ騒音の影響で宿題ができなくなるということはないことなのである。かわりに、「宿題ができる」と言えば、宿題はできるはずなのである。あるいは、「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」とひとこと言えば、宿題ができるはずなのである。あるいは、宿題ができるようになるはずなのである。けど、ヘビメタ騒音のなかで「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」と何回も言っても、宿題ができないのである。ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題ができないのである。頭がこんがらがって、短期記憶が吹き飛ばされてしまうので考えることがまったくできないのである。これを言ってしまうと、問題があるのだけど、「できると言えばできる」と言っている人たちだって、自分の現実的な問題に関しては、「どれだけできると言ったって、できないものはできない」と考えているので、自分の現実的な問題に関しては、言霊的な問題解決方法を採用しないのである。たとえば、とある「できると言えばできる」と言っている人がAさんだとする。そして、Aさんが、ギックリ腰になったとする。その場合、Aさんは「ギックリ腰はなおる」と言って、ギックリ腰をなおそうとするのかというと、そうではないのである。「ギックリ腰はなおる」と言っても、言っただけでは、なおらないことを知っているので、言うことで、ギックリ腰をなおそうとしないのである。Aさんの職場で、Aさんが五〇キログラムもあるような重たい荷物を運ばなければならないとする。その場合、Aさんが「できると言えばできる」と言って、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、はこぶかというと、そうではないのである。 「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言ったって、できるようにならないことは知っているので、荷物を運ぼうとしないのである。あるいは、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、荷物を持ち上げようとするのだけど、荷物を持ち上げようとすると、腰が痛くなるので、そのたびに「いたい!いたい!」と言って、荷物を持ち上げることすら、できないのである。「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言えば、言っただけで、自分がこの荷物を運べるようになるというのが、言霊理論なのである。言ったことが、現実化するのだからそうなるのである。ところが、言霊主義者であったとしても、自分の、現実的な問題に関しては、言霊的な解決法をこころみようとさえしないのである。どうしてかというと、「できる」と言っても、「できない」ことを知っているから……。どういうことが(自分には)できないかということを知っているので、最初から、現実的に考えて、できないことに関しては、言霊的な解決法を利用しようとしないのである。けど、ほかの人には、言霊的な解決方法が絶対的に有効であるというようなことを言う。「言霊は絶対だ」というようなことを言うのである。なにが、絶対なのかぼくにはわからないけど、たぶん、言霊は絶対にあって、言霊で絶対に解決できるということなのだろう。どんな問題でも、言霊的な解決方法で解決できるということを、真剣に主張するのである。ところが、普段の生活を見てみると、言霊主義者は、自分の現実的な問題を言霊的な解決方法で解決しようとしないのである。
ともかく、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ぼくのことを、必然的みくびり、バカにして、事実とは異なることを言ってくるようになるのである。
たとえば、「ほんとうは、宿題をやりたくなかったから、(エイリは)ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないと言っている」というようなことを言ってくるようになるのである。ちがうんだよ。誤解だ。
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たとえばの話だけど、「できると言えばできる」と言っている人が「自分はこの荷物を運べる」と言ったあと、荷物を運ぶどころか、持ち上げることすらできなかったとする。その場合、「できると言えばできる」と言った人は、自分が「できると言えばできる」と言ったにもかかわらず、できなかったというとを、ちゃんと認めるのかというと、ちゃんとは、認めないのである。できなかったあとも、「できると言えばできる」という考え方が、ずっと成り立っているのだ。現実的には、自分ができなかったにもかかわらず、「できると言えばできる」と思ったまま生活をしている。「できる」と言ったのに、「できなかった」ということに、ちゃんと向き合うことをしないのである。自分をごまかして生きているのである。