「まいにち、つもる」と言っても「まいにち、つもったことがない」人にはわからない。この差は、でかい。きちがい兄貴が、まったく気にしないでやったことが、ずっと影響を与え続けている。これ、一日のなかでも、たいへんなのに、毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人には、まったくわからないんだよね。
ともかく、きちがい兄貴がやったことというのは、普通のうちでは起こりえないことなんだよ。おりこえないということは、普通のうちに住んでいる人には、怒らないことなんだよ。だから、その人たちが「俺だって苦労した」「俺だって困難があった」「騒音ぐらい俺だってある」と言っても、ちがうんだよ。たとえば、「騒音ぐらいあった」と言っている人は、普通の枠組み中で、騒音があったということなんだよ。きちがい家族による騒音じゃない。きちがい家族による騒音でなければ、ぼくが言っている騒音とはちがう。きちがい兄貴の騒音とはちがう。きちがい兄貴のしくみがあまりにもおかしいので、ほかの人にはわからない。まえから言っているけど、きちがい親父も、きちがい兄貴とおなじしくみをもっている。ほかの人にはないしくみだ。これ、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、親父とおなじように、きちがい行為を夢中になってやりはじめてしまった場合、きちがい親父が、普通の父親と同じ行動をするかというと、しないんだよ。きちがい親父らしい感じ方で、きちがい親父らしい行動する。そうすると、ほかの人から、俺が誤解をうけるということになるんだよ。そして、ほかの人は、それにまったく気がつかない。どうしてかというと、自分の常識のなかでは、「親というのはそういうものだ」「家族というのはそういうものだ」「人間というのはそういうものだ」ということになっているからだ。ようするに、「家族」という概念のもとになっている、家族というものが、ぼくの家族とは、まったくちがうのである。だから、ぼくがおかしいことを言っているように感じるのである。そして、こんなことをやられたら……やられ続けたら、「やられた」ということや「やられ続けた」ということについて言及する場合だって、ネガティブな話になる。自動的にそうなるだろ。しかし、世の中には、「ネガティブな話は、ネガティブだからダメだ」というような常識があるんだよ。わっはは。わらっちゃうね。だから、誤解をしたまま、「こいつは、ネガティブな話をしている」と思うわけ。どんだけ……。いろいろ……。くっつくか……。