たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは運命論者だ。Bさんは、Aさんの知り合いだ。Bさんが、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったとする。その日は、二〇二四年の七月一四日だとする。その時間は、午後七時四分だとする。ようするに、Bさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったのだ。そうすると、「BさんがBさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買うということは、Bさんが生まれるまえから決まっていたことだ」ということをAさんが言い出す。結果が出ているから、「こうなることは、最初から決まっていた」とAさんは、言うことができる。しかし、じゃあ、明日の午前八時四分に、Bさんが、なにを買うのか、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分の時点でAさんが言うことができるかというといえないのだ。決まっているのであれば、言えるでしょ。決まっているということを知っているんでしょ。そして、決まっている内容についても知っているんでしょ。だったら、言える。ところが、まったく言えないのだ。だいたい、Bさんが、ほんとうに、明日の午前八時四分に、なにかを買うのかどうかということさえ、言うことができない。Aさんは、言うことができない。結果が出たあと、決まっていたと言っているだけだ。未来のことに関しては、なにも言えないのである。だったら、決まっているかどうかも、ほんとうは、わかってないということではないか。けど、結果が出ていることに関しては、さも、「決まっていた」ように言うのである。決まっていたかどうかというのは、Aさんの勝手な妄想なので、どうとでも言うことができる。結果が出たあと、「あとだしで」決まっていたということを言う人たちがいる。精神世界の人は、よくこういうことをするんだよ。けど、勝手な妄想だとは思ってないから、タチが悪い。こういうことをする人たちというのは、条件が悪い人のことをまったく考えてない。条件が悪い人を、いじめまくって、良心のいたみを感じない。正しいと思っているからな。条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。精神世界の人たちが、得意になって、あとだし思考を前提としたことを言うけど、それは、条件が悪い人にとっては、不愉快なことだ。精神世界の人たちは、精神世界の人たちなのに、あおり行為をして、楽しんでいる。精神世界の人たちは、条件が悪い人に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がついたほうがいい。
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起こったということは、起こったということだ。「起こったから、最初から決まっていた」ということは、言えない。まあ、言うことはできるけど、それは、理論的に正しいことではない。距離があることに気がつかないかな? 根拠になってないんだよ。「起こった」ということが、「最初から決まっていた」ということの根拠にはならない。