自分の内側の世界を内的な世界、自分の外側にある世界を外的な世界というとする。この場合、とりあえず、内的な世界に関係なく、外側にある世界があるのである。自分の内的な世界にあわせて、外側の世界がひろがっているわけではないのである。ところが、思霊主義者は、自分の内的な世界と、外的な世界が、完全に一致するはずだと考えているのである。あるいは、なんとなく、そういうふうに思っている。だから、内的な世界をかえれば、それにあわせて、外的な世界がかわるはずだと前提して考えてしまうのである。ところが、実際には、生まれ落ちたときから、外的な世界は、外的な世界として存在しているのである。これが、徹底的に、わかってない。思霊主義者は、なんとなく、わかっているだけだ。だから、自分の現実的な問題に関しては、「内的な世界とは関係なく、外的な世界がある」ということがわかっているのだけど、ひとごとになると、「内的な世界にあわせて、外的な世界がある」と思ってしまうのである。
もう、説明したので簡単に説明するけど、ジャイアントのび太がいるとする。のび太にとってジャイアンというのは、外的な世界に存在する存在なのである。のび太のジャイアンに関するイメージは、外的な世界に存在するジャイアンイメージなのである。ジャイアンが、のび太をなぐった場合、ジャイアンのなかに、のび太をなぐりたくなる理由があるから、のび太をなぐるのである。ジャイアンが、のび太をなぐるまえは、ジャイアンが、理不尽な理由で、のび太をなぐるということは、のび太は考えていないのである。なぐったあと、「また、なぐられるのではないか」という予想が成り立つ。「マイナスの赤ちゃん」のところで話したけど、親が子供を虐待する場合もおなじだ。「暗いことを考えると暗いことが起こる」のではなくて、すでに、暗いことが起こったあとなのである。ジャイアンは、ジャイアンの性格から、ある種のこころの構えをもっている。ジャイアンは、ジャイアンの脳みそをもっている。ジャイアンの性格傾向がある。ジャイアンが、ジャイアンの脳みそにしたがって、行動しているのである。ジャイアンが、時系列的に、何回ものび太をなぐっていれば、のび太は、「またジャイアンに、なぐられるのではないか」と思うようになるのである。ここで、思霊主義者は「またジャイアンになぐられるのではないかと思うから、なぐられる」と言い出すのである。のび太が、「またジャイアンがなぐってくる」と思うから、その思霊のすごい力によって、ジャイアンがのび太をなぐるというのである。この場合、のび太が、ジャイアンはなぐってこない」と思えば、なぐってこなくなるはずなのである。ところが、のび太が、「ジャイアンはなぐってこない」とどれだけ思っても、ジャイアンに変化がなければ、なぐってくるのである。ジャイアンのこころの構えがかわらないのであれば、「何かむしゃくしゃする」と思っているときに、のび太を見かけたら、のび太をなぐるのである。これは、ジャイアンが、ジャイアンの脳みそで考えて、やっていることだ。のび太がやっていることではない。のび太が、ジャイアンをあやつって、ジャイアンに自分をなぐらせているわけではない。けど、思霊主義者言っていることというのは、そういうことなのである。のび太の内的な世界が、外的な世界に直接影響をあたえるから、ジャイアンがのび太をなぐってくるのである。言っておくけど、まちがいだ。