ヘビメタ騒音が鳴った結果、できなくなっているのに、「関係ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」と言われたときの気持ちというのは、ものすごく不愉快な気持だ。ヘビメタ騒音を経験してないから、できるだけなのに、まるで、自分ならヘビメタ騒音を経験してもできるという、傲慢な自信がある。そんなの、言ってられなくなるほど、ひどい音なんだよ。ひどい音の連続なんだよ。うちのめされて、つかれてしまうんだよ。うちのめされて、できなくなってしまうんだよ。ただ単に、きちがい兄貴がいないから、「できる」だけなのに、えらそうなんだよ。こういう、ポジションに追い込まれるんだよ。必然的に、わかってない他人からえらそうなことを言われる立場になってしまうんだよ。ヘビメタ騒音でできなくなると、そうなる。
これも、「そんなのはいいわけだ」と、きちがい兄貴がいないやつが言ってくる。そいつにはきちがい兄貴がいないのである。きちがい家族と一緒にすごしたことがないのである。きちがい家族がどういう行動をするのか、まったくわかってないのである。一緒いたことがないから、ないからわかってないだけなのに、えらそうにしやがって。そいつには、きちがい家族のハンディがない。そいつがどれだけ「俺だって苦労した」と言っても、きちがい家族によるハンディがない。ぜんぜん、ちがう。実際、きちがい家族に、きちがい騒音みたいなことをやられてない。やられてないやつの発言だ。問題の質がちがうのである。
きちがい兄貴が、「しらんぷり」で、よその家では絶対にありえない、きちがい攻撃をする。きちがい攻撃の結果、宿題ができないとか、遅刻をしてしまうという問題が発生する。きちがい攻撃があると、どうしても、宿題ができないんだよ。きちがい攻撃がなければ、宿題ぐらい簡単にできるんだよ。けど、俺がそういうことを言っても、「いいわけだ」と言ってくるやつがいる。人生のなかで、何回、こういうくやしい思いをしてきたかわからない。
兄貴のきちがい攻撃→(俺が)できくなる→よその人が、攻撃してくるということになっている。よその人というのは、「できる」という前提でものを言ってくるんだよ。それ自体が、攻撃なんだよ。よその人は、俺がちょっとがんばればできることなのに、いいわけをしてさぼっているからできないのだと、仮定して、ものを言ってくるんだよ。けど、ちがうんだよ。どれだけがんばっても、ヘビメタ騒音があると、できないんだよ。「ヘビメタ騒音が鳴っているからできないといいわけをしている」とよその人が、認識するのは、俺にとって不愉快なことなんだよ。どれだけがんばってもできないというひきつった状態が、よその人にはわからない。だから、ちょっと、がんばればできるのに、さぼってやろうとしないと仮定してものを言ってくる。その人が……言ってくる人が、きちがい兄貴の騒音にさらされたらできなくなると思う。もちろん、証明はできない。これに関して、ぼくは、証明できないのに、法則性のあることを言っているわけだ。だから、言霊主義者とおなじだと言おうと思えばできる。けど、言霊主義者は、勘違いをしているし、その勘違いに無自覚なんだよ。俺の場合は、証明ができないけど、証明ができないということを知っている。まあ、「だれだって、きちがいヘビメタ騒音と同等の騒音をあび続けたら、できなくなる」という法則性があることを言っているわけだけどね。きちがいヘビメタ騒音ではなくて、きちがいヘビメタと同等の騒音だから、そこのところ、勘違いしないでね。だれだって、苦手な音はあるはずなんだよ。その苦手な音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っていたら、できなくなるんだよ。しかも、鳴らしているやつが家族だ。家族というのは、特別な他人だ。これ、ほんとうに、ちがうのである。けど、「他人」というところまで抽象化すると、家族も他人だということになる。それは、正しい。しかし、あたえる影響の度合いや、他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということがちがう。他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということは、普段は意識することがないけど、ほんとうは、重要なことだ。家族(他人)と自分のあいだにあったことは、他人と自分のあいだにあったこととはちがうのである。けど、たとえば、「どれだけ、ガミガミ言われても、影響をうける必要はない」ということを言う場合は、家族(他人)と他人のちがいを無視してしまうのである。この無視が、まちがった結論に(人を)みちびくのである。これも、一〇〇%詐欺が成り立っている。ガミガミ言うと言っているけど、ガミガミ言う内容が、わからない。そこも抽象化されている。ともかく、一緒に住んでいる他人(家族)だろうが、単なる他人であろうが、関係がないという考え方はまちがっている。一緒に住んでいる他人(家族)と単なる他人をいっしょにするな。
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ともかく、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、俺を見下して、バカにしはじめるのである。そして、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、「えらそうなこと」を言うようになるのである。これ、もう、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしたときから決まっているんだよ。他人は、きちがい兄貴の、きちがい的な意地について勘違いしている。そして、実際には経験したことがないので、「できなくなる」ということがわかってない。どれだけ、どれだけ、がんばっても、できなくなるのである。この「がんばり」がやっぱり、他人の目には見えない。そりゃ、俺が「がんばっている」あいだ、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らしているわけだから、どうしても影響が出る。影響をうける。けど、他人は、そもそも、きちがい兄貴のことがわからない。どうしてかというと、他人の家族は、きちがいではないからだ。多くの他人の家族は、きちがい兄貴タイプのきちがいではないからだ。実際に毎日いっしょに住んでいて、きちがい行動……きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてないんだよ。 きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてない俺は、「できた」の。できるんだよ。そんなにがんばらなくても、普通にできるんだよ。それが、きちがいヘビメタが鳴っていると、どれだけがんばっても、できないんだよ。「どれだけがんばってもできない」ということを他人は、わかってない。ヘビメタ騒音を過小評価してしまう。あるいは、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまう。これだって、やられてない他人は、自動的に無視するんだよ。九〇%以上の他人が、自動的に無視する。
宿題を例にして、話しているけど、宿題に成り立つことは、すべて、仕事にも成り立つ。継続して仕事をするということが、ヘビメタ騒音でできなくなった。そして、それは、ぼくにとって「必然」なのである。けど、やられてない他人は、その必然さが、まったくわからない。わかるわけがない。実際にやられてないから、わからない。影響の度合いがわかってない。「どれだけがんばってもできなくなる」という時系列的な経験がない。他人に……学校の他人に……「いいわけをしてさぼっている」と言われたときのくやしい経験もない。そりゃ、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないのだから、きちがい家族によるきちがい的な騒音から発生する問題のことはわからない。どうしてかというと、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないからだ。
これ、ヘビメタ騒音が一五(じゅうご)年目に鳴り終わったあともおなじなのである。どれだけのことが、繰り返されてきた、ほかの人にはわからない。はっきり言ってしまうと、「そんなのは関係がない。人間働くべきだから、(エイリさんも)働くべきだ」と言ったやつと「ヘビメタ騒音が鳴ってたから、宿題ができないなんて、いいわけだ」と言ったやつは、おなじレベルの発言をしているんだよ。ちなみに、リアルであったことがある言霊主義者は、みんな、おなじレベルの発言をしている。言霊主義者が、ヘビメタ騒音の影響について、ちゃんと、俺が言っていることを理解してくれたことはない。ぼくの経験の範囲だとないんだよ。
みんな、ヘビメタ騒音が与える不可避的な影響について、理解してない。まあ、わかるわけがないか。これは、経験がないとわからないタイプのことだ。けど、みんな、苦労したと言うのである。たしかに、苦労したのだろう。認める。けど、だから、ヘビメタ騒音の影響を無視しても、いい、ということにはならない。俺におけるヘビメタ騒音の影響は、その人における苦労の影響とはちがう。ちがうのだから、ちがう。「苦労した」という言葉で均一化、同質化して、「俺は苦労したのに、ちゃんとやっている」ということを言うな。「苦労した」という言葉で均一化、同質化したって、苦労の内容がちがうのだから、苦労の影響がちがうんだよ。
「自分だったら、ヘビメタ騒音があったとしても、影響をうけずに、毎日通勤して働くことが可能だ」という気持を、「俺だって苦労した」という言葉に、こめる人たちがいるんだよな。「俺だって苦労した」という文字列のなかには「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、通勤して働くことは可能だ」という文字列は含まれていないけど、「俺だって苦労した」そういう文字列のなかに「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という内容をふくめて、言うやつがいる。明言はされてなくても、こいつらの発現には「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という前提が成り立っている。
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きちがい兄貴の態度というのは、ほんとうに、きちがいと一緒に住んだことがない人にはわからないものだと思う。俺はちゃんと説明しているのに、きちがいと一緒に住んだことがない他人は、俺が言ってることを認めない。あるいは、そもそも理解できない。
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普通の人は、きちがい兄貴やきちがい親父の「ふんばり」がわからない。ほんとうに、きちがいなんだよ。きちがい的な意地でやり通したことは、きちがい兄貴やきちがい親父にとって「まったくやってないこと」なんだよ。自動的にそうなっているんだよ。
きちがい兄貴やきちがい親父がふんばるから、こっちがこまっているとする。けど、きちがい兄貴やきちがい親父に「おまえが、意地をはってやった行為の結果、こっちがこまっているんだぞ」ということをどれだけ言っても、きちがい兄貴やきちがい親父は理解しないのである。そんな高度なことがわかるなら、最初から、きちがい的な意地でふんばって、無視してやらない。 この、自分の行為に対する無責任性というのは、すさまじいものがある。現在進行形だからな。これ、普通の人じゃないんだよ。普通の人と、頭の構造がちがうんだよ。普通の人なら、絶対にわかることが、わからないんだよ。きちがい兄貴もきちがい親父も、無意識的なレベルではわかっているのかもしれないけど、意識的なレベルではわかってない。わかってないということは、やってないということなんだよ。きちがいまるだしで、あれだけ意地をはってやったことなのに、「自分はそんなことは一切合切やってない」という態度なんだぞ。この態度は、むかつく。
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きちがい的な無責任性というものが成り立っているのだけど、精神世界の人は、それを支持てしまうのである。きちがい兄貴やきちがい親父には、きちがい的な無責任性が成り立っている。そして、押し通してやってしまう。家族として一緒に住んでいると、どうしても、影響をうけてしまう。「影響をうけない」ということは、不可能なことなんだよ。特に親父の場合は、親権がある。それから、重複して書くけど、ある人とある人の家族ということについては、ほかの人というのは、「家族」として見なすんだよ。たとえば、俺ときちがい親父が家族であれば、ほかの人は、俺ときちがい親父が家族であるとみなすんだよ。これは、無視されることだけど、重要なことだ。これ、重要なことだということが、ほかの人にはわからない。ほかの人が「俺と兄」を家族だとみなしているということは、重要なことなんだよ。解釈に重要な影響をあたえるんだよ。ほかの人の「頭のなか」にできあがる、ほとんど無意識的な解釈に重要な影響をあたえる。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい兄貴がもっている問題がある無意識は完全にちがう。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい親父がもっている問題がある無意識は完全にちがう。他人は、問題がある(うちの)父と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの父の問題というのは、わかってない。うちの父がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。他人は、問題がある(うちの)兄と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの兄の問題というのは、わかってない。うちの兄がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。