はさまれている「生活」はどうやったって、くるしい生活なんだ。そして、それの、数千日の、積み重ねがある。そして、数千日の積み重ねがない人には、わからない。わからないまま、軽く見る。わからないまま、無視する。ないのだから、ない。積み重ねがない人には、ないのだから、ない。実際に、そういう経験がないのだからない。実際に、そういう数千日を経験したわけではないので、数千日を経験した場合、どういう状態になるかということが、感覚的にわかってない。わかってないから、無視するのか? あるいは、わかってないけど、無視するのか? よくわからないけど、ともかく、無視する。これも、数千日の経験がいな人にとってみれば、ないことだから、「ない」ことなのである。実際に、経験しなかったという意味で、ない。だから、軽く見ることができるのである。だから、無視することができるのである。
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数千日の経験がある者にとっては、無視することができないことなのである。実際に、影響があることなのである。現在においても、影響があることなのである。これ、まったくわからないと思うけど、「過去は関係がない」「鳴り終わったら、そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってない。当然、関係がないので「通勤して働ける」ということもない。けど、数千日の経験がない人にとってみれば、実際に自分にはなかったことだし、影響を認めないので、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そいつの考えのなかで、エイリさんは、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、さぼって働いてないと言うことになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、働くと言うことの意味がわかってないダメな人だと言うことになってしまうので。そういうことを言ったやつだって、老化すれば、老化を理由に働かなくなる。自分は、いいのだ。そして、自分の老化に関しては、日々実感していることがあるので、「通勤して働かなくてもいい」理由になるのだ。自分の体調不良や能力の減退に関しては、老化という「立派な理由がある」ので、「さぼって働かない人とはちがう」と思ってしまうのだ。そういうレベルだ。そういうレベルの思考しかしてない。
そして、たとえば、働いていない人に対する偏見がある人は、その当時、働いていなかった俺に対して、偏見をもつようになるのである。だから、普通に見下してくる。しかも、道徳的なことを言っているやつだって、見下すということについて、悪いとは思わないという態度になる。