これ以降、書くことは、ぼくとしても、感覚として書く。ようするに、まちがったことを書くかもしれない。ようするに、草稿として書いておく。
人間にとって(よい)条件というのは、空気のようなもので、特に意識しないものなのではないかと思う。自分の(よい)条件は、自分にとって空気のようなもので、(ある)ので、特に意識しない。しかし、自分にとっても、じつは、(なければ)意識せざるをえないことなのである。(ある)から、意識しない。(ない)から、意識する。空気がなかったら、くるしくなって、空気がないということを、意識せざるをえなくなる。もちろん、空気のなかに酸素があり、酸素を欲しているのだという知識があるから、そうなるわけで、空気がない場合も、「空気がない」ということを意識するというのは、知識があるから成り立っていることだ。「空気がない」状態だと、くるしくなり、くるしさだけは、知識に関係なく、意識することができる。人間にとって(わるい)条件というのは、意識せざるをえないものなのではないかと思う。それは、空気がない条件で、くるしさを感じるのとおなじなのである。そして、人間である(自分)は、やはり、悪い条件を意識するのではないかとおもう。それは、まず、くるしさや痛さなどの感覚として意識され、くるしさにまつわる感情や痛さにまつわる感情などの感情をうみだす。この、感覚→感情という流れは、当然の流れだと思う。「など」と書いたのは、たとえば、「かゆさ」という感覚も、「かゆくて不愉快だ」という感情をうみだす。さらに、ひっかいて、あとが残るのであれば、あとが残ったということについて、気にする人は気にする。あとが気になるという感情が生まれる。