遠距離通勤・長時間通勤で、人生つんだひとの話があったけど、わかるような気がする。Youtubeにそういう動画があったということ。
最初は、通勤時間中に、読書をしようとか、スマホで映画を見ようとかと思うんだよ。最初は、『このくらい離れても、妻や子供のためには家が大きいほうがいい』と思うんだよ。
ところが、実際にやってみると、きついというのが、わかる。最初のころと、二年間続いたときとでは、感情がちがう。からだにつかれがたまっている。
けっきょく、家でも、会社でも、うまくいかなくなる。この人の場合は、自分で選んだことだから、まだ、あきらめようがあるけど、ヘビメタ騒音は、俺が選んだことじゃないから、あきらめがつかない。
選択してないんだよ。
俺は、選択したわけじゃないんだよ。
ヘビメタ騒音がある人生とヘビメタ騒音がない人生を選べたわけじゃないんだよ。ぜんぜん、ちがう。そして、職場のことだから、けっきょくは、転職すればいいということになる。
それも、うまくいくとは限らないけどね。
ところが、ヘビメタ騒音の場合、家族のことだから、家族をかえると言うことができなかった。俺が一一歳のときに、きちがいヘビメタ騒音がはじまった。「(兄貴に)鳴らさせない」ということができないなら、アパートを借りてくれと、俺が、きちがい親父に言ったけど、そんなのは、きちがい親父が理解するはずがない。
きちがい親父は、きちがいだから、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めると、それに、まあ、かげから、賛成してしまう。特に、やめさせようとしないんだよ。
こういうのも、ネズミが入ってきて、ネズミの糞が、毎日増えていく状態なのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言ってゆずらないときの感覚とおなじなんだよ。
ともかく、普通の人が行動するように、行動してくれない。
きちがい親父は、普通の人が行動するように行動してくれない。こっちが、助けを求めると、きちがい的な意地で否定して、頑固に動かない。頑固に動かないというのは、意地になって動かないということだ。
きちがい兄貴のヘビメタだって、きちがい兄貴でなければ、あんなに頑固になって鳴らすことはなかったのである。
親父ときちがい兄貴の頑固さが似ているから、ものすごくこまることになる。
普通の人だったら、絶対にやられないことを、きちがい的な意地でやって、やっているということ認めない。そして、やりきったら、もう、「関係がない人」になってしまう。
これが、毎日、繰り返される。
「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言う人もいるけど、影響はうける。
「過去は関係がない」ということを言う人もいるけど、過去は関係がある。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音自体が、よその家では絶対にありえない、ひどい騒音なんだよ。それに対する家族の反応というのも、よその人には、絶対に考えられない反応なんだよ。
おかあさんは、兄貴に、「しずかにしてやって」と言ったけど、兄貴は、おかあさんの言うことなんてきかない。親父が、竹を植えたときの態度で、きちがいヘビメタ騒音を、鳴らす。
おかあさんも、「そとに助けを求めるタイプ」ではなかったので、けっきょく、きちがい兄貴が意地をとおして鳴らしていると、「こまったまこった」と言ってこまっているだけだった。
おかあさんはおかあさんで、うちの問題を、かくすようなところがある。
まあ、そのころから、ご飯をつくることと、自分で入浴することはしていたけど、ほかの時間は、ずっと横になっていたような状態だ。おかあさんは、当時から、ほとんど寝床で暮らしていた。まあ、免疫関係の病気とその他の病気で、横になっている時間が長かった。おかあさんの寝床と俺の寝床をくらべると、おかあさんの寝床だと、きちがいヘビメタが鳴っていても、眠れるのだよ。
ほんとうに、位置的な問題なんだろうけど、おかあさんの部屋とぼくの部屋とでは、ヘビメタ騒音のひびき方がちがう。学校から帰ってきて、おかあさんの布団で寝ていたときがある。そのときは、眠れた。
おかあさんの布団でぼくが眠っているとき、おかあさんは、ようするに、居間のおかあさんが座る居場所に座っていた。最初のころは、これもまた、「(自分の布団で)眠ってもいい」とおかあさんがぼくに言っていたのだけど、一か月ぐらいしたときに、どうしても、座っているがつらいから、(自分の布団で)寝るのはやめてほしいと言うことを、ぼくに、言ってきた。
そりゃ、ほんとうは、ぼくもつらかったけど、おかあさんの布団なので、おかあさんにゆずった。
けど、ぼくの部屋と、おかあさんの部屋だと、音圧がちがうんだよ。だから、ヘビメタ騒音が鳴っている時間でも、おかあさんの部屋では眠れたけど、ぼくの部屋では眠れなかった。ぼくの部屋は、ほんとうに、透明な壁なら、すぐそこに、きちがいの巨大スピーカーが見えるような近さなんだよ。
そして、空間的に、まよこと、ななめ下だと、音の響き方がちがう。兄貴の部屋の床と、ぼくの部屋の床はつながっているので、もろに、(こまかい)振動がくる。そのこまかい振動は、振動として完全に認知できるような大きな振動ではないけど、眠りに影響をあたえていたのではないかと思う。
音もそうなのだけど、音の振動のほうも、問題で、睡眠に影響をあたえていたと思う。
長時間通勤をした人も、最初は、「電車のなかにいる時間を有効に活用すればいい」と思っていたわけだけど、実際にやってみると、きつかったということだ。
きつさの影響が、いろいろなところに、あわられるのである。
たとえば、仕事とか家族の人間関係に影響をあたえる。「つかれ」というのは、つかれなのだけど、つかれが、注意力や他者に対する感情に影響をあたえるのである。 長時間通勤でだいじょうぶだと思っていたときは、睡眠時間がたりずに、仕事でミスが連発するということは、考えられなかったことなのである。
そして、どれだけ注意しても、やはり、睡眠時間が減ると、ミスが多発することになったのである。
普通の人は、注意すれば、ミスが減ると思っているけど、基本的にものすごく睡眠時間が減って、「つかれている」と、それがうまくいかないのである。持続時間の問題や持続期間の問題がある。
ミスが増えるもともとの原因(問題)が解決されないまま、存在し続けると、「注意をむける」と言うこと自体が、むずかしくなる。注意をむける持続時間自体が短くなる。どれだけがんばっても、注意がむかない時間があり、その時間にミスをしやすくなる。
ミスをされたほうは……そりゃ、ミスをされた立場で、発言をする。長時間通勤の人の上司は、上司の立場で、ミスをするなと言う。けど、それが、日常的に、ずっとつかれていると、どうしても、ミスが多くなる。
ヘビメタ騒音というのは、日常生活における「ミス発生装置」なんだよ。
ほかの人は無視するけど、どうしても、ミスが発生するんだよ。
きちがいヘビメタを鳴らしている兄貴がこまるのではなくて、きちがいヘビメタ騒音を強制的に聞かされているぼくがこまるんだよ。そして、長時間通勤とおなじように、その条件は、無視されるのだよ。……他人から無視される。
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長時間通勤で、成功したというケースもあると思う。「俺は、長時間通勤をしたけど、快適だった」と言う人もいるだろう。
けど、条件がちがうかもしれない。
たとえば、電車を乗り換える必要があるのかどうかという条件。電車を乗り換える必要があるならあるで、乗り換える駅がいくつあるのかという条件。会社で、残業があるのかどうかという条件。
もちろん、まず考えられる体力的な条件というのがあるのだけど、体力的な条件だけでは決まらないのである。
Aさんは、長時間通勤が快適だった。Bさんは、長時間通勤で音(ね)をあげた。
Aさんは、根性があって、Bさんが根性がないと言いきれるのか?
ほかの条件がちがうのであれば、一概には言えない。Aさんは、体力があって、Bさんは体力がないのか?
一概には言えない。
けど、Bさんは、長時間通勤が、一〇年続いたあとは、体力的に弱くなっているだろうということが予想できる。これは、もともとの体力ではなくて、結果のほうね。結果的に、そうなったということと、もともとの資質(初期値)は別のこととして考えないとだめなんだよ。
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言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」「つかれたと言うからつかれる」と言うけど、まちがっている。
言霊主義者は、言ったかどうかということと、言う内容にしか注目しないけど、ほかの条件が成り立っている。ほかの条件がちがえば、結論はちがってくる。
これ、言霊主義者だって、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。言霊主義者だって、十数年にわたって、ほとんど毎日、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。
ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(人は)つかれるのである。
ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。
ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「元気だ元気だ」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。
言霊主義者といえども、自分の現実的なことに関しては、言霊的な解決法を利用しないのである。言霊的な解決法が利用される場合は、そういう気分が味わえるときだけに、限定されている。
現実的な場面のなかでは、言霊主義者だって、言霊的な解決法を利用しようとしない。言霊的な解決方法なんて、まったく役に立たないということを、言霊主義者が知っているからだ。
けど、これがまた、「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用してない」「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用しようともしない」ということに、言霊主義者が気がつかないというところがある。
子どもじみた、無視がある。
注意がむかないのである。
これまた、注意がむかなければ、なかったことになってしまうのである。言霊主義者の注意がむくのは、言霊は有効だと感じられる場合だけなのである。
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相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、相手に負のストロークをあたえていることなるのだけど、気がつかない。相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、気がつかない。
「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言うと、相手に負のストロークをあたえたことになるのである。
ところが、 「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言う人は、それに気がつかない。
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家があるほうの駅が始発駅なのかそうではないのかという、条件もある。残業があると言っても、残業の頻度と残業時間の長さがちがえば、別の条件が成り立っていると言えるのである。
けど、「元気だ元気だ」と言ったかどうかという条件の差しか見ないようなことを、言霊主義者は言うのである。
実際に自分の身にしょうじたことでなければ、相手がかかえてるいる条件は、一切合切無視して、「言えば、言ったことが現実化する」と言う。「つかれたと言うからつかれるんだ」と言う。
こんなの、最初から、ケンカを売っているようなものだ。
相手の条件を無視した助言なんて役にたつわけがないだろ。けど、言ったか言わなかったかの条件以外は、すべて、無視してしまうのである。
そして、(言霊主義者のなかでは)他の条件によって決まることは、「言うこと」ですべてくつがえすことができることなのである。ところが、そういう意味で、言霊主義者は、言霊にはすごい力があるということを言うのだけど、実際の自分の問題に関しては、言霊を使って問題解決しようとしないのである。
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努力論者もおなじで、条件に関係なく努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しないということを言うのである。
けど、努力したかどうかが、結果に関係なく、一意に決まるとしても、ほかの条件が成功するかどうかに影響をあたえる。
ほかの条件を無視してしまうという態度には問題がある。
ほかの条件を無視して「努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しない」と言うことには問題がある。
条件を無視されたほうは、不愉快さを感じる。
努力論者も、成功してない人を、最初から、ののしっているのである。「努力不足だから、成功しないのだ」とののしっているのである。負のストロークをあたえているということにいいかげん、気がつけ。
相手の条件を無視して、じつは、まちがっている法則性があるようなことを言うことは、相手に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がつけ。
そして、努力論者が無視した条件について、相手が語りだすと、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」と努力論者が相手に言うのである。
これも、負のストロークを相手にあたえたと言うことになる。いいかげん、気がつけ。
「努力をすれば成功する」というのは、理論的にまちがっているんだよ。「一〇〇%詐欺」と「あとだし思考」をしている。あとだし思考は、あとだし詐欺と言うことができる。
じつは、「努力をする」ということが一意には決まらないという問題がある。
じつは、「成功する」ということが一意には決まらないという問題がある。