どうも人間というのは、ぼくも含めて、自分の環境が普通だと思ってしまうところがあるらしい。自分の条件が普通の条件であると考えてしまうらしい。だから、普通に、相手の条件を無視してしまう。あるいは、相手の条件がもたらすものを、軽く考えてしまうらしい。自分の経験してきたことが、普通だと思うのはしかたがない。だから、人間というのは、他人の条件を無視する傾向がある。しかし、他人の条件に配慮ができるひとというのもいる。これは、言ってみれば、たてまえだ。自分の条件が普通だと思って発言をしたとき、『相手』が反発してきたので、いちおう、それ以降は、相手の条件に「配慮をしめすような」ふりをすることにしたということだ。こっちのほうが、あとでつくられた「態度」であり、この場合も、ほんとうは、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を「軽く見る」態度のほうが、強い。土台には、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を無視するという態度がある。この無視というのは、「影響」を無視するということだ。法則性ということを言うのであれば、こっちのほうが、法則性があることだと思う。言霊理論の法則性や努力論の法則性は、ないけど、自分の条件が普通だと思って、相手の条件を軽く考えてしまうということのほうに、法則性がある。
しつこくなるけど、ネイティブな思考としては、自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するという思考であり、それだと、問題がしょうじるので、あとで、きれいごととして、相手の条件をがんばって考えるようにしたという感じだ。あるいは、相手の条件を重視しているようなふりをしたほうがいいと考えてそうしているという感じだ。
道徳性ということを言うのであれば、「自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するということ」は、かならずしも、道徳的ではないことではないのかもしれない。
いっぽう、決めつける話にかんしては、「人間というのはこうだ」「これはこうだ」と決めつけることになる。これも、どちらかというと、人間にありがちな思考なのだと思う。ようする、人類というのは、決めつける思考をしたがる生き物なのではないかと思う。傾向ということを言うのであれば、「言ったことが現実化する」とか「努力をすれば成功する」というような、詐欺部分があるようなことではなくて、こっちのほうが、傾向としてあるのではないかと思う。もちろん、人類の傾向だ。人間が考えるときの思考スタイルとして、そういうふうに考えてしまう圧力があるのではないかということだ。