いま、横で工事をやっているから、うるさい音がするのだけど、きちがいヘビメタ騒音とはちがうのだよ。きちがいヘビメタ騒音とは……。あと、ヘビメタが好きな人は、ぼくがヘビメタ騒音といっていることろを、自分が一番嫌いな音の騒音と言いかえて読んでくれ。
あと、三キロと一〇三キロのたとえで言いたいことはまだあった。「重さに意識を集中させてるからダメなんだ」とか「重さにこだわるからダメなんだ」と、三キロ背負っているやつが、一〇三キロ背負っているやつに言うんだよ。こういうことだって、一〇三キロ背負っている状態で、聴かなければならなくなる。これ、どれだけ、「重さがちがう」と言ったって、三キロ背負っている人は、「俺だって重い」と言っておしまいだ。事実、「思い」と思っているわけだし、そういうことを言ってる人の脳内では、それが絶対に正しいのである。実際に重いわけだから。けど、一〇三キロの重さを経験してないのも事実なんだよ。現に、一〇三キロ背負ってないのも事実なんだよ。一〇三キロの人が、「こだわってるからダメなんだ」という言い方は、一〇三キロ背負っている人に、さらに、負担をあたえるんだよ。ところが、「こだわっているからダメなんだ」と言う人は、助言をしているつもりなのだ。いいことを言っているつもりなのだ。こんなのない。自分は、こだわらないいい人で、相手は、こだわるわるい人なのだ。自分は、こだわらないようにしようと思えば、こだわらないようにできるすぐれた人間で、相手は、こだわらないようにしようと思っても、こだわり続けるダメな人間か、あるいは、相手は、こだわらないようにしようと思わない、ダメな人間なのだ。
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きちがいヘビメタ騒音というのは、そういう騒音なのだ。バカに説教される騒音なのだ。
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ともかく、ヘビメタ騒音が続いている限り、よその人から、こういうふうにバカにされる。格下に見られる。勝手に、説教をされる身分になってしまうのだ。そういうのもつらかったな。だから、それがいやで、きちがい兄貴に、直接「ならすな」「こまるから、鳴らすな」と、言いに行くわけだけど、きちがい兄貴が、きちがいバリアーで、認めないのだ。このきちがいバリアーで認めないということが、これまた、三キロしか背負ってない凡人にはわからないのだ。けっきょく、きちがいと一緒に住んでいない人には、きちがいの行動がわからない。きちがいと一緒に住んでいない人には、きちがいの感覚がわからない。これ、ほんとうに、矛盾だらけのひどい感覚なのだけど、普通の人には、そういう矛盾だらけのひどい感覚をもっている人がいるということがわからない。普通の人の感覚だと、「そんな人はいない」「そんなことはない」とはっきり言えることなのだ。「やったってやってない」……そんなことがあるはずがない。「起きているときに、自分が意地になってやったことなのに、まったくやったという認識がない状態で生きている」……そんなことはない……と……そう思う。そう思って、誤解をするわけだよ。だから、「重さのちがい」が根本的に、わからないだけではなくて、「重さのちがいをもたらす、きちがい的な家族の感覚や行動についても」わからないのである。普通の人はわからないのである。そして、普通のうちには、きちがい家族がいないので、きちがい家族がもたらす問題は最初から存在しないのである。なので、三キロと、一〇三キロのちがいが出てくる。けど、最初からないものを、どうやって、感覚・知覚するのだ? どうやって認識するのだ?
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強烈に不利なのに、「そんなのは関係がない」と言われる。そりゃ、ハンディがないほうには、ほんとうに、ハンディがないのである。きちがい家族がうみだす特殊なハンディがない普通の人には、きちがい家族がうみだす特殊なハンディが、実際にないのである。ないので、「関係がない」のである。けど、こっちはあるのである。けど、きちがい家族がうみだす特殊なハンディがない普通の人は、ほんとうにこれまた、認めないのである。頑固に無視するのである。「自分には(ないから)関係」がないと、「関係がない」の区別がついてないのではないか。「自分には関係がない」から「相手にも関係がない」ことだと、ごく自然にまちがった思考をしているのではないか?