2024年6月27日木曜日

脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。

 楽しくなくても、楽しいと言えば、脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと思える理由を探し出す……というようなことを言っている人がいる。けど、これはまちがっていると思う。楽しくないのに、楽しいと言う理由というのは、脳が知っていることだ。どうしてなら、「楽しくない」ということに対処するために、わざわざ、言ったことだからだ。なにも、矛盾してないのである。楽しく、なるために、楽しいと言ってみた……。脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。楽しいと言ったから、楽しいと思える理由を(自動的に)さがすので、楽しいと思える理由を見つけて、楽しく思えるということなのだけど、そもそも、どういう理由で、楽しいと言ったかということを、脳が知ってしまっているのだから、無意味だ。矛盾なんて感じない。それから、ヘビメタ騒音というような具体的な理由がある場合は、ただなんとなく、不愉快だというような状態ではないのだ。具体的な理由がある場合は、「ただなんとなく、つまらない」という状態とはちがう。しかし、「楽しくない」という言葉に、両者の意味が含まれているのである。だから、具体的な理由がない場合と具体的な理由がある場合の区別をしてない。かりに、具体的な理由がない場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとしても、具体的な理由がある場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理由はまちがっていると言えるのではないか。それから、具体的な理由がない場合も「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとは限らない。これは、感じ方の問題になってしまうけど……そして、感じ方は自己申告制なので、自分は楽しく感じたという人が一定の割合、出てくるとは思うけど……具体的な理由がない場合でも、そんなには、楽しく感じてないのではないかと(わたしは)思う。楽しさの程度を考えるなら、ほんとうに、楽しい理由があって、楽しいと感じる場合とは、ちがうのではないかと思う。ようするに、ほんとうに楽しい理由がある場合のほうが、楽しさの程度が高いのではないかと思えるのである。そして、ほんとうは、楽しいと感じてないのだけど、楽しいと感じるために、楽しいと言ってみた場合の、楽しさの程度というは、相当に低いのではないかと思えるのである。言いたいことを言ってしまうなら、ほんとうに楽しいと思える理由があるときの楽しさと、楽しく感じるために無理やり楽しいと言ってみたときの楽しさを、同等の楽しさであるように、仮定してし言ってしまうことには、問題がある。あたかも、楽しく感じるために、意図的に、楽しいと言ったときの「楽しさ」は、文脈のなかで感じている楽しさとは、まったくちがった楽しさである可能性があるのに、それをおなじ「楽しさ」という言葉で語ってしまうのは、問題がある。

さらっと、「矛盾をなくすために、楽しさを探し出す」というようなことを言っているけど、これは、楽しいという言葉にだまされている脳という前提がある。だまされていない場合は、もちろん、探し出さない。現実的な体験のなかで楽しさを感じている場合というのは、いちいち、どうして自分は楽しいと感じているのだろうかということは、考えないのが普通なのではないか? だって、楽しいわけだから。楽しいと感じているときは、自然なやりとりの過程がある場合なのである。主に人とのやりとりの中で、楽しいと感じるわけだけど、自然のなかで楽しいと感じるときも、ゲームをしていて楽しいと感じるときも、楽しいと感じるだけの、時系列的な体験がある。自然に楽しいと感じるような時系列的な体験がないのに、「楽しいと感じるべきだ」と思って「楽しい」と言いはじめるわけだから、「楽しい」と言ういう前に、自然に楽しいと感じるような時系列的な体験はない。ないから「楽しい」と言ってみようと思ったわけである。これは、直前の体験がまったくちがうことを意味している。はたして、脳は、そういうちがいを、感じることはないのだろうか? 自分にだまされて、自分の脳が「これは楽しい」と感じてしまうのだろうか? 意図的に言ったのに、自分の脳が誤解をするなんてことはあるのだろうか?



2024年6月26日水曜日

きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよ

  ほんとうに、きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよな。息を吸うように、ヘビメタを鳴らす。息を吐くように、ヘビメタを鳴らすことが決まっている。決まっているから、やっている。「やめてやる」という選択肢は、まったくない。思いつきもしない。可能なこととして、考えるということすら、しない。最初から、「やめてやる」という選択肢が、頭のなかにまったくないから、どれだけ「やめろ」と言われても、そのように行動してしまう。行動したって、「なにがわるい」かまったくわかってないレベルだ。行動したって「なにがわるい」と思わないレベルだ。「なにがわるいのか」と疑問に思うようなレベルではないのである。「やめてやる」という考えが、頭のなかにまったくないように、「なにがわるい」という考えですら、頭のなかに、まったくないのだ。「わるいかどうか」といこうとが、まったく考えられない状態なのだ。どうしてかというと、「わるい」という考えが、そもそも、まったくないからだ。「わるい」という考えがそもそも、まったくないので、「わるいかどうか」が、きちがい兄貴の頭のなかで、まったく問題にならないのである。そういう状態だ。そういう状態で、「よそではありえない」ほど「でかい音」でヘビメタを鳴らす。すべての時間、そうする。可能なすべての時間そうする。こっちが、どれだけ、こまっていても、こまっているということを、まったく認めないで鳴らす。きちがいだから、そういうことが可能だ。こんなの、きちがいでしかない。

ところが、きちがい家族にやられた場合は、よその人は、理解しないのである。だから、よその人の基準で考えてしまう。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んでない人なんだよ。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んだことが、一度もない人なんだよ。だから、よその人もよその人で、ごく普通に、誤解をするのである。よその人の誤解だって、本人の経験にもとづいた「かんがえかた」による誤解なので、誤解をとくことが、ほとんどできない。

だから、きちがい兄貴にやられっぱなし、よその人に、誤解されっぱなしといこうとになる。こんな毎日でいいわけがないだろ。そして、ヘビメタ騒音というのは、よその人が考えているように、「鳴り終われば」影響が消失するようなものではないのである。よその人は、経験がないので、そのことがわからない。「鳴り終われば」影響が消失すると思って、妄想的なことを言う。これ、だって、本人は、妄想的なことだとは思ってないのだ。この、妄想的なことというのは、言霊主義者がもっているような妄想的なことだ。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを、認識するような事柄が、日々、起こっているにもかかわらず、それは、ガン無視してしまう。

こうなると、きちがい兄貴の無視のしかたと、言霊主義者の無視のしかたが、なんとなく、似ているような感じがしてしまうのである。何度も言うけど、一緒に住んだことがない言霊主義者が、ぼくに、騒音攻撃をしたわけじゃない。彼らは、そんなことは、してない。けど、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言うというタイプの攻撃はしてくる。まあ、無視すればよいのだけど、誤解があるんだよね。この誤解が、不愉快だ。

言霊主義者じゃなくても、普通の人は、誤解をしてしまう。きちがい兄貴があまりにも特殊なので、普通の人の理解の範囲に、入ってないのである。きちがい兄貴自身のことに関しても、きちがい兄貴が実際にやることに関しても、きちがい兄貴が実際にやったことの影響に関しても、頭のなかにはいってない。まったく、はいってない。なので、この人たちも、必然的に、誤解をする。誤解をしているのである。誤解をして、常識的なことを言う。けど、その常識的なことが、ヘビメタ騒音によって、できなくなったのだ。だから、ヘビメタ騒音によってできなくなったということを、こっちは、説明するのだけど、あっちは、理解しないということになる。脳みその範囲内にはいってないからだ。脳みその範囲内にはいっていれば、理解できるのだけど、脳みその範囲内にはいってないから、かならず、理解しないのである。常識的なことを言う人が、ヘビメタ騒音のことを、理解しないということが、最初から決まっている。

その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよ

 佐藤(仮名)も言霊主義者なんだけど、言霊主義者は、なんか、いろいろと短絡的な意見を言ったり、短絡的な行動をしていることが多いなぁ。

ヘビメタ騒音のことを理解してくれた言霊主義者は、いままでで、皆無だ。

かならず、ヘビメタ騒音の影響を軽くみる。無視する。

そして、常識にしたがったことを言う。その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよなぁ。まあ、ともかく、なんか、トラブルのタネをところどころで、ふりかけられている。言霊主義者によって……ふりかけられている。

なんか全部が全部、よけいなことなんだよなぁ。よけいなひとことで、マッチポンプ。「ひとこと多い人」が意識してないところで、「ひとこと多い人」がマッチをすっている。

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ヘビメタで宿題を忘れたり、睡眠障害になったり、鬱病的な状態になったり、働けなくなると、いろいろなところで、俺のことを悪く誤解するやつが発生するようになるんだよなぁ。そういうやつらがもっている常識というのは、どうしようもない常識だ。

この手の常識は、これから、ガンガン、こわれる。こわれるしかないんだよ……。 

言霊主義者にかぎらず、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するやつには、ろくなやつがいない。そのまま、その人における思考力の限界をあらわしている。

まあ、犯罪行為とか違法行為ということとは関係がない。だから、まあ、犯罪行為をしないという意味では、善人である。しかし、ヘビメタ騒音に関しては、ほんとうに理解がたりない状態なのである。理解がたりない……。この言葉がほんとうに、ぴったりくるなぁ。

後で消す、個人的な記憶メモ

 そういえば、ちょっと思い出したことがある。あれ、「とある大手電機メーカーの感想でも書いておいたほうがいいんじゃないか」というようなことを佐藤(仮名)が言ったんだよね。まあ、メールで書いてきた。けど、書くべきではなかったんだよな。なんか、佐藤がマッチポンプになっているケースが多い。あっちにも、よけいなことを言ったみたいだし、佐藤が、もめごとのタネを、それとなく、いろいろなところにうめている。

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そのころ、ウエブサイト作成のことで、かかわる人が、「とある大手電機メーカー」のもと、部長だった人だから、「感想でも書いておいたほうがいいんじゃないの」と書いてきた。佐藤が、俺に対して、俺が、その「もと部長」に、まあ、リップサービスで、「とある電機メーカー」のことについて、感想でも書いておいたほうがいんじゃないのということを言ってきた。けど、その「とある大手電機メーカー」に関しては、ぼくは、あんまりいい印象をもっていなかったのである。あんまり、「よいしょ」してあげる気持ちにならなかったのである。だから、「とある大手電機メーカーの(元)部長とはすごいですね」というような読意思をしてあげる気にならなかったんだよ。最初の時点で。

けど、佐藤は、ぼくが(ヘビメタ騒音で)社会経験がないということを知っていたので、「そういうもんだぞ」と指導してやるつもりで、そういうことを書いてきたのである。ウエブサイト作成に関しては、ぼくが、親切でやってやっていることなんだよ。これも、人に親切にして、けっきょくは、いやな思いをしたということの一例だ。これ、「人に親切にすれば、いいことがある」なんて言ってる人がいるけど、人に親切にしても、たいていの場合はいいことがない。

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人に親切にしてあげるということについて、ちょっと書いておく。神経質なことなので、そんなことは考えない人のほうが多いと思うけど、ちょっと書いておく。人に親切にしてあげるということが語られるとき、よく出てくる例のひとつに「ものをもって運んであげる」というのがある。たとえば、高齢者が、ものをもって歩いていた場合、「おもちしましょうか」と声をかけて、はこんであげるというものだ。アクションとしては、こっちが、相手に「おもちしましょうか」と声をかけるというところから始まっている。とりあえず、声をかけて運んであげようとする人をAさん、高齢者の人をBさんだとする。普通の話だと、こんなことになる。Aさんが声をかけると、Bさんが「いやー。わるいからーー」と言ったあと、Aさんが「けど、重いでしょ」と言って、Bさんが「それじゃ、たのむわーー」と言って、Aさんが、Bさんの荷物をもって、並んで歩き、そのあと、目的地について、Bさんが「あー。たすかったわぁ」と言って、Aさんも、ニコニコする……。話の内容は、だいたいこういうもので、うまくいった場合の話になる。その場合、Aさんも、Bさんが「たすかったわぁ」と言うから、いい気持になり、「いいことがあった」ということになるのである。けど、現実は、そうでない場合もある。たとえば、Bさんは、以前おなじようなケースで「持ち逃げ」されたことがあるので、警戒しているとする。その場合は、Bさんは、かたくなに、固辞する。なので、親切が成立しない。その場合、Bさんが、Aさんのことを(ぬすんでしまうひとだとうたがっている)と考えているということが、Aさんに伝わった場合、Aさんはあんまりいい気分になれない。まあ、じゃあ、Bさんが、「むかし、荷物をもってもらったら、盗まれたことがあるので、荷物は持ってくれなくてもいいです」と言ったとしよう。その場合、Aさんは、自分が、その荷物をもって行ってしまうようなやつだと思われたということで、傷つくのである。あんまりいい気分がしない。

あとは、たとえばの話だけど、Aさんが、Bさんに親切にして、BさんがAさんに礼を言ったとする。これは、いい場合だ。しかし、未来においては、どういう効果があるのかわからないのである。たとえば、Cさんがいるとする。Cさんは、悪いやつで、高齢者に「荷物をお持ちしましょうか」と声をかけて、荷物を持ち逃げするやつだとする。その場合、Bさんは、そういう人間にしたいして、無防備になっているのである。なので、CさんもAさんのように、親切な人かと思って、荷物をあずけたら、CさんはAさんとはちがって、悪い人間だったので、Bさんの持ち物をもったまま逃げたとする。Bさんが、Aさんのときも、持ち逃げを警戒して、申し出をことわった場合、Bさんは、Cさんの申し出も、ことわる可能性がある。確率は高い。この場合、Aさんが親切な人だったために、Bさんのなかに「人間は親切だ」とか「親切な人が多い」という考えが浮かんだのだ。そうではない場合もあるので、この思い込みは、ある意味、危険だ。無防備になってしまう。Aさんは、親切にすることによって、Bさんを、ある意味、無防備にしてしまったのだ。けど、もちろん、これは、Aさんの責任とは言えない。けど、そういうことだってある。この世には、そういうことだってある可能性がある。

2024年6月25日火曜日

そうなると、まあ、不幸の数が増えるのである。

 どうして、ぼくが言霊理論を批判しているのかというと、言霊理論が、人をくるしめるための理論になっているからだ。自分に気合を入れるという意味での、言霊の力というのは、じつは、言葉の力だ。言霊の力というのは、超自然的な力であって、魔法の力なのだ。残念ながら、言霊に力がない。言葉には、ある程度の力があるけど、言霊には力がない。なので、基本的には、条件が悪い人に、無理難題をおしつけるための理論になってしまうのである。本人が、自分をはげますために、言霊理論が正しいと思い、言霊の力ではなくて、言葉の力を利用しようとするのは、かまわない。しかし、「言霊」という考え方が、じつは、悪いことに利用されてしまっているということを言いたいのだ。言霊というのは、魔法とおなじで、幼児的万能感が関係している。言霊を現実的なものとして考えている人は、言霊の力と魔法の力はおなじだということを聞かされたら、意外に思うだろう。しかし、おなじなのだ。「言霊は絶対だ」と言うことは、「魔法は絶対だ」と言っているのとおなじなのである。どうして、こういう感覚が成り立ってしまうのかというと、幼児的万能感が関係している。幼児的万能感は、だれにでもある。これ、幼児的万能感は、大人になるとなくなってしまうような印象をもっている人がいるかもしれないけど、幼児的万能感というのは、ずっとずっと、大人になっても、消失しない。それが、普通のことだ。なので、超・支配者層は、普通の人をして、悪い条件をかかえている人を、せめさせるために、言霊理論を使っている。他人のことは他人のことなので、人は、他人のことに関しては、冷酷になれるのである。実際には、悪い条件をかかえている人が、言霊理論によって、せめられることになる。超・支配者層というのは、それを知っていて、人々をむだにあらそわせるために、言霊理論を使っている。言霊理論を使って、人をはげまそうとする人は、じつは、相当に、冷酷なことをしている。じつは、相当に無責任なことをしている。言霊理論が正しいと思っている人は、はげますつもりで、言霊理論をこまっている人に「おしえてあげる」のだけど、これは、ほんとうにこまっている人にとっては、じつは迷惑行為なのだ。どうしてかというと、言霊では、問題が解決しないからだ。けど、言霊理論が正しいと思っている人は、言霊(理論)は正しいので、問題がが決すると思っている。実際には、言霊が問題を解決してしまうことは、ない。言霊理論が正しいと思っている人は、自分が、言霊で問題を解決したことがあると思っているけど、これは、勘違いだ。この勘違いについてはずっと説明をしてきた。勘違いなのだ。そして、勘違いをしていることには気がついてない。言霊論者は気がついてない。その言霊論者も、じつは、自分の現実的な問題に関しては、言霊なんてまったく使わずに、現実的な対処をしているのだ。しかし、言霊論者は、自分が現実的な問題に関しては、言霊的な対処をしていないということには、気がつかない。言えば、言ったことが現実化するのだから、言霊主義者はすべての問題を言霊を利用することによって、解決することができる。瞬時に解決することができる。問題なんて一切合切ない状態にすることかできるのだ。しかし、言霊主義者も、現実的な問題について悩んでいる。なので、現実的な問題に関しては、最初から、言霊の力を利用しようともしないのだ。年金が少ないとする。年金支給額が少ないということだ。その場合、かぎられた年金の生活のなかで、小さな楽しみを見つけるというようなことをしている。言霊で年金支給額を増やそうとはしないのだ。言えば、言ったことが現実化するのだから、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言えば、一〇〇万円になるはずなのだ。けど、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言えば、ほんとうに、月換算で一〇〇万円になるのかというと、ならない。そういうことを、言霊主義者も知っている。知っているから「年金が、月換算で一〇〇万円になる」「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と年金が、月換算で一〇〇万円になるまで、言うということをしない。最初から、あきらめている。自分のことに関してはそうだ。しかし、他人のことになると、「言ったことが現実化する」「これは正しい」と言って、ゆずらない。もし、言ったことが現実化しなかったなら、それは、言い方が悪いから現実化しないのだということを言いだす。自分がどれだけ「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言っても、現実しかなかったから、それは、自分の言い方が悪かったから現実しかないだけなのだと、思える言霊主義者がどれだけいるか? 生きているあいだじゅう、いつか、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」ことを夢見て、ずっと、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言い続けるということを選択する言霊主義者がどれだけいるか? 他人のことになると、「言霊(理論)は絶対に正しい」ということになり、もし、現実しかないなら、言い方が悪いから現実化しないのだと言い張る言霊主義者だって、自分の現実的な問題に関しては、この通り、最初から、言霊で問題を解決しようとしないのだ。ひとごとだから、無効な方法を、有効な方法だと言うことができる。ひとごとだと、自分にとって現実度というのが、ないに等しいので、現実的な問題ではないのである。もちろん、これは、自分にとって現実的な問題ではないということだ。現実的な問題をかかえている他人にとっては、もちろん、現実的な問題なのである。だから、最初から、他人には「カス方法」をおしつけているということになる。最初から、自分だって現実的な問題にはまったく利用しようと思わない「非現実的な方法」を他人には、おしつけていることになる。これは、善意ではあるけど、ありがた迷惑だ。やっているほうは、善意のつもりだけど、やられたほうにしてみれば、ありがた迷惑だと感じてしまうようなことだ。こうなると、立場の弱い人は、マウントをとられてみたいで、いやな気持になるのである。もちろん、マウントをとっているほうは、いい気持になる。こういうことが、頻繁に発生するのであれば、人間のなかが悪くなる。相対的に調子がいいほうが、相対的に調子が悪いほうをおいつめるということになるのである。超・支配者層にやとわれた洗脳のプロは、こういうことを利用して、調子が悪いほうが自殺するような社会を目指しているのである。調子がいいほうが、調子の悪いほうを、善意でおいつめる……というようなシーンを見た洗脳のプロは、しめしめと、わらいを浮かべるのである。立場の悪いほうは、立場のいいほうに、カス方法をおしつけられても、それが、カス方法だということを説明して、論破してしまうわけにはいかない。たとえば、ブラック社長が「言ったことが現実化する」「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と、名前だけ店長に言ったとする。名前だけ店長は、ほんとうは……「できると言えばできるなんて言ったって、できないものはできないんだよ」……と思うかもしれないけど、そういうふうに、言いかえすことができない。あるいは、言いかえしにくい。まあ、言いかえしたとしても、ブラック社長が、名前だけ店長が言ったことを、認めるとは思えない。まあ、これは、ぼくが思えないと思っているだけだけどね。ともかく、立場が弱い人は、立場が強い人に言いかえしにくいのである。そうすると、カス方法をおしつけられたほうは、カス方法をおしつけてくるほうに、ある種の感情をもつことになる。そうなると、まあ、不幸の数が増えるのである。そうなると、洗脳のプロがよろこぶのである。

 

 

 

 

 

 




2024年6月24日月曜日

言霊理論がまちがっていることを、言霊主義者も知っているから、「努力する」ことになる

  言霊主義者は、努力する必要なんてないのである。言えば、言っただけで、言ったことが、現実化するからだ。一秒以内に、なになになると言ったら、一秒以内に、なになになるのである。言霊理論が正しいなら、絶対に、一秒以内に、なになにになる。努力なんて必要がない。言えば、言っただけで、言霊のすごい力によって、なになにになるのである。たとえば、行政書士になるために、行政書士の勉強をしている人がいる。この人をAさんだとする。Aさんが言霊主義者だったとする。Aさんは、ただひとこと「一秒以内に、行政書士になる」と言えばいい。言えば、一秒以内に、Aさんが資格をもっているかどうかに関係なく、行政書士になるのである。資格に関しても、こだわるのであれば、「一秒以内に、なになにという資格試験に合格する」と言えば、合格するのである。制度なんて関係がないのである。そんなのは、言っただけで、いかように、書き換えることができる。自分の都合に合わせて、「こういう制度になる」と言えば、それで「こういう制度になる」。ならないのであれば、言霊理論がまちがっているということになる。だいたい、お金をかせいで、安定した生活をするということが、最終的に自分がのぞむことなのであれば、「一秒以内に、一〇〇万円が自分の口座に振り込まれる」と言えば、銀行の制度を無視して、一〇〇万円が自分の口座に振り込まれるのである。一〇〇万円だけではなく、一億円だろうが、一兆円だろうが、振り込まれるのである。「一秒以内に、一兆円が自分の口座に振り込まれる」と言えば、銀行の制度を無視して、一兆円が自分の口座に振り込まれるのである。言えば、言ったことが現実化するので、一兆円振り込まれると言えば、一兆円、振り込まれるのである。超自然的な、言霊の力によって、振り込まれるのである。「振り込まれない」と言うのであれば、言霊理論がまちがっているということになるのである。そして、言霊理論がまちがっていることを、言霊主義者も知っているから、「努力する」ことになる。言えば言っただけで、現実化するのだから、一切合切、努力する必要なんてないのである。言えば、言ったことが現実化する……言ったのに、言ったことが現実化しないということはない……のだから、一切合切、努力する必要なんてない。言ったあと、努力するなんてことは、言霊理論が正しいなら、ありえないのである。言ったことによって、言ったことが現実化するので、努力する必要なんてまったくない。言霊主義者が、言ったあと、努力するということは、その言霊主義者は、「言霊なんてない」ということを言っているようなものなのである。言霊が信用できないので、努力するしかないと思っているのである。言霊の力なんて、ないから、努力して、現実化しようとしているのである。

昨日から起きていて、いま、午前六時。あれからまだ、眠れない。これは、「二四時間以上起きているコース」だな。確定。まだ、眠れるチャンスはある。横になっているだけでも、いいかな。しかし、睡眠回路を完全に破壊されたなぁ。兄貴のきちがいヘビメタ騒音に破壊された。

 

2024年6月23日日曜日

むなしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の人生がほしい

  ヘビメタ騒音でつらかったけど、わかいときは、わかいときの希望があった。いまは、もうない。ぼくは、ぼくでさんざんやったからね。個人的にできることは、スポーツ関係をぬかして、すべてやった。相手が必要なことは、いろいろとやってないことがある。むなしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の人生がほしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の、「わかいじかん」がほしい。

影響がわからない。 影響のでかさがわからない。

 もう、個人的にできることは、やった感じがする。これが、たぶん、限界なんだろう。

ヘビメタ騒音はほんとうにひどかった。

ほかの家では『ない』音なのである。ほかの家では、一日に一〇分だって鳴らない音なのである。一〇分間でも鳴らしたら、「うるさくしやがって」「いいかげんにしろ」と文句を言われるような音なのである。

言われたほうだって、「うるさくしたなぁ」と思って、さげる音なんだよ。

けど、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、きちがいなので、きちがい感覚で、自分の認知・認識を捻じ曲げてしまった。無意識的なレベルで、意識を書き換えてしまった。意識を書き換えてしまったので、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているという、認知認識がない状態なのである。しかも、意識的には、「わざと」そうしているわけではないので、ほんとうに、でかい音で鳴らしてないつもりなのである。つもりだけなんだけど、つもりなのである。あんな爆音で鳴らして、普通の音で鳴らしている気持ちなのである。本人だって、ヘビメタ以外の曲が、あの音のでかさで鳴っていたら「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」と絶叫してしまうような音なんだよ。そういう音を鳴らして、あたりまえだった。きちがい兄貴にとってみれば、その、きちがい的にうるさい音は、普通の音なので……意識的には普通の音なので、どれだけ鳴らしたって、反省しない音なのだ。迷惑をかけたとまったく思わない音なのだ。こんなの、ない。自分で、自分自身に催眠術をかけたような状態で、鳴らす。ほんとうは、本人だって、ほかの音が、その音のでかさで鳴ってたら「うるさい」と思うような音なのに、意識的な本人は、『普通の音で鳴らしている』と思っている状態なのだ。これ、意識的には、嘘をついているつもりがまったくないのである。じゃあ、どうして、無意識のほうが、そういう『命令』をしたのかというと、「やりたいから」なんだよ。「やっておいて」「やってないことにしてしまう」方法のひとつだ。

*     *     *

きちがいヘビメタを鳴らされると……あの音のでかさで、自分が一番苦手な音をなられ続けると……生活自体がくるしいということになる。

このくるしさが、まったくわかってないやつらがいるのである。そいつらが思い浮かべる「騒音」とは、ちがうのである。ちがうんだよ。

けど、これもまた、経験がない人には、「ちがいがある」ということが、さっぱりわからないということになる。

だから、普通の人は、普通の人が思い浮かべるような騒音しか思い浮かべることができないのである。きちがい家族と一緒に暮らしている人じゃないと、わからないことなのである。

その、一緒に暮らしているきちがい家族が、無意識的なレベルで『音のでかさ』の認知を書き換えて、きちがい的なことだわりで鳴らすということを、経験した人じゃないと、わからないことなのである。

影響がわからない。

影響のでかさがわからない。

わからないと、かならず、誤解をするのである。

ヘビメタ騒音の影響でできないのに、ヘビメタ騒音の影響でできないということはないという、認識をするのである。わかってないやつは、みんな、そういう認識で、俺にものを言ってくるのである。これが、くやしい。このくやしさも、影響を認めない人たちには、わからない。自分が『あたりまえのことを言った』としか思ってない。

二重に、くやしい思いをする。

どうも、眠れそうにないんだよね

明日、歯医者なんだけど、どうも、眠れそうにないんだよね。四時間ぐらいでいいから、眠っておきたいなぁ。まあ、明日は、キャンセルして、七日後あたりにしようかな。これ、歯医者の時間圧力がかかっていて、普通なら、ずれる時間ぶんだけ、ずれなかった。予想した時間のずれと、実際の時間のずれが一致しない。一致しない原因は、「歯医者の時間圧力」だと思う。この日の、この時間に行かなければならないとなると、二〇日間、余裕があるにしろ、「この日の、この時間に行かなければならない」という圧力がどこかにあって、うまく、予想通りにずれていかない。

*     *     * 

そんなの、おかしい

 あっ、それから、「そんなの、おかしい。(ヘビメタ騒音の話はおかしいから、ほんとうのことじゃない)」と考えるやつが、へんないじわるを俺にしてくるということがあった。へんな、いじわる。もし、ヘビメタ騒音がなかったら、こんなやつ、俺の眼中にはいってない。たぶん、出会わなかったと思う。

バカなやつは、バカなやつのレベルでしか、理解しない。

 バカなやつは、バカなやつのレベルでしか、理解しない。

ヘビメタ騒音のことも、世界のほかのことも……。

2024年6月22日土曜日

きちがい親父には、普通の反応をしてほしかった

 ほんとうに、きちがい親父には、普通の反応をしてほしかった。きちがい親父が、魚を一日中出しておくということをして、ネズミを引き寄せた。これは、ほんとうに、引き寄せだ。ものすごいいきおいで、突進してくる。「なんとしても、このなかにはいろう」とネズミが決心して、特攻してくる。これ、こういう状態をつくったのはきちがい親父なのである。何か月もあんなにおいで部屋を充満させたら、そりゃ、穴があいていれば、ネズミが入ってくる。でっ、ネズミというのは、入ってくる期間が長くなれば長くなるほど、ものすごいことになるのである。これ、ほんとうに、俺も、経験しないとわからなかった。わからないことだった。これ、ぼくが、どんな気持ちで言っているか、ネズミの侵入をうけた人じゃないとわからないと思う。問題なのは、親父が、「魚を出しっぱなしにした」ということを認めないことだ。これ、全部が全部そうなんだよ。親父の場合、一生涯、こういう反応をしていた。ともかく、俺が何でこんなことを書いているかというと、一階の部屋の片づけをして、太ももの内側を、ダニに刺されたからである。そのまえは、親父が設置したカーテンを、排除しようとして、腕を、たくさん、ダニにされた。これは、なんて言うのか、七mm四方ぐらいの範囲を、刺青のようには刺されてしまうタイプだ。これ、茶色くあとが残るんだよ。手の甲に、おなじような刺され方をした部分があり、一年たったけど、まだ、茶色くあとが残っている。ともかく、俺は、「よし、じゃあ、ネズミ対策工事をしよう」と反応してほしかったわけ。そういう普通の反応がほしかったわけ。けど、親父は、「俺が(ネズミシートで)つかまえるから、いい」と絶叫して怒った。「ネズミシートで捕まえたって、ネズミが入ってくる以上、ネズミの糞が増える」と言っても、「俺がつかまえるからいい」と親父が絶叫して怒るのだ。そういうときの頑固さや、からだのこわばりが、ほんとうにきちがい的なのだ。これ、まるでわからないと思う。一緒に住んでいないほかの人は、まったくわからないと思う。でっ、この頑固さや、態度やからだのこわばりは、兄貴にもある。「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言われたときの状態が、親父のこの状態とおなじなのだ。「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言ったのは俺で、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言われたのは兄貴だ。兄貴の拒否のしかたが、親父の拒否のしかたとおなじなのである。自分にとって都合が悪いことを言われたときの、態度がおなじなのだ。顔を真っ赤にして怒る。でっ、そうやって押し通したことは、押し通したことになってないんだよ。これ、はねのけたら、完全に関係がない人になっている。だから、「こういうふうに否定して、こっちがやってくれと言うことをやってくれなかった」なんて、あとで言われたって、「しらんぷり」だよ。「しらんぷり」というか、ほんとうに、意識的には、知らないことなのである。これが、また、きちがいなんだよ。こんなの、普通の人だったら、ありえないことなんだよ。自分が、こだわってこだわって、頑固に否定したのに、それがまったく、わかってない。自分がやったことじゃないのである。「こういうふうにした」「こういうふうに、拒否してやってくれなかった」と言うこと自体が、今度は、「認めたくないこと」になるから、おなじように、顔を真っ赤にして発狂して、だまりこくるか、あるいは、反対語を絶叫するのである。「やった」と言われたら、「やってないやってない」と発狂して、絶叫する。うっかりやったことじゃなくて、意地をはってやったことなんだよ。絶対の意地でやったことなんだよ。おぼえてないはずがないことなんだよ。けど、「やった」ということを認めるのがいやなときは、頑固に否定する。だから、おなじなんだよ。絶対の意地でやってのけたことを、「やってないやってない」と否定する。そのとき態度が、また、頑固なのだ。おなじなんだよ。これは、親父がやってきた奇行と、兄貴のきちがいヘビメタ騒音に、おなじようにあてはまる。親父と兄貴は、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。否定するときの態度と、もとの、きちがい的な意地でやっているときの態度がおなじなんだよ。だから、こまるんだよ。そして、こういうことが、まったくわかってない、よその家の人は、こういうことがわかってないから、あるいは、自分のことじゃないから、「そんなことないんじゃないの」と軽く否定する。そして、「影響をうけなければいい」ということを言う。そんなの、無理に決まっている。兄貴のヘビメタ騒音についても語ってきたけど、話を、親父のネズミ騒動だけにしぼることにする。問題なのは、親父が二〇一七年にやったことなのに、俺が、いま、影響をけているということだ。ネズミの糞をかたづけるのが、俺。カーテンをすてるのがおれ。カーテンを捨てるときに、ダニに刺されるのが、俺。きちがい親父じゃない。張本人は、否定したまま、死んだわけだけど、生きていたとしてもおなじなんだよ。これ、生きていたとしても、おなじ。どれだけ、ネズミの糞が増えても、きちがいだから「俺が、つかまえるからいい」と絶叫しておしまいなんだよ。ダニに刺されたって、そういうスイッチが入っていたら、絶対になにがなんだろうが、工事をさせないような行動をする。しかも、それで、こっちがどれだけ(ダニに刺されて)こまっても、知らんぷりなんだよ。これ、また、兄貴の話になってしまうけど、こういう態度が、兄貴と親父はまったくおなじなのである。俺が、どれだけ(兄貴の)ヘビメタ騒音でこまっていたとしても、まったく関係がない人として鳴らしまくって、まったく認めないんだよね。自分がかかわってるということを、認めない。スイッチが入ったときの態度が、兄貴と親父でまったくおなじなんだよ。親父のネズミ騒動について書いていることは、兄貴のヘビメタ騒音騒動にもおなじように成り立っているんだよ。そして、ほかの人は……うちに住んでいなかった人は……わからない。もう、根本的に、わからない。親父の態度や兄貴の態度が、どういうものか、根本的にわからない。だから、普通思考で、「無視すればいい」ということを考えて、俺にそういうふうに言ってしまう。けど、無理なんだよ。きちがい親父やきちがい兄貴は、ごく自然に、毎日そういうふうするわけなんだけど、よその人は人生のなかで、そういうことを、されたことがないんだよ。どうしてかというと、きちがい的な家族がいないからだ。きちがいでなければ、こんなことは、どれだけうまくやろうとしてもできないことなんだよ。ともかく、俺は、今でも、親父がやったことの影響をうけている。俺が、ダニにされれている。これで、粗大ごみ業者を呼んだ場合、「きったないなぁ」「やりたくない」と言われるのは、俺なんだ。で、作業をすると、どうしてもダニに刺されるから、俺が呼んで、ダニに刺されたことになる。親父が、自分で責任をとって、業者の人を呼んで、業者の人にダニに刺されてもらうわけじゃない。業者の人がダニに刺されたって、そんなのは、親父はまったく気にしないけどね……。汚物あつかいになるか、拡張料金(オプション料金をとられる)ということに、文句を言うかもしれない。

ともかく、バルサンをたいても、作業をする人は、ダニに刺される。

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俺が親父に求めていたことというのは、普通の反応なんだよ。普通に反応してほしかった。俺が兄貴に求めていたことというのは、普通の反応なんだよ。普通に反応してほしかった。

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精神世界の人が言っていることは、きちがい家族にやられた人のこころをえぐることなんだよ。「もう、いいか」と死にたくなるような言葉なんだよ。精神世界の人たちは、きちがい家族にやられた人のことが、まったくわかってない。精神世界の人たちは、きちがい家族にやられた人に負担がかかることを言っている。どれだけ(きちがい家族にやられた人に)負担がかかるか、精神世界の人たちはまったくわかってない。


2024年6月21日金曜日

これがわかっているのか?

 毎日、勉強することができないということが、影響をあたえないわけがないだろ。ただ、勉強することができない時間があるということではなくて、その時間ずっと、くるしいわけだか、健康面にも影響をあたえる。日本で学生としてすごして、毎日、家で勉強することができないということが、あたえる意味がわからないというのは、思考力がないということだ。夜郎自大な設定で、自分なら影響をうけないと思って、好き勝手なことを言いやがって。なめて、見下したことを言いやがって……。毎日、日曜日も祭日も含めて、やられて、いいわけがない。

勉強だけじゃなくて、睡眠に影響をあたえる。気分に影響をあたえる。だれだって、自分の嫌いな音を……世の中で一番嫌いな音を、あのでかさで、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされたら、憂鬱になる。からだが思うように動かなくなる。おこった顔つきになる。憂鬱そうな顔つきになる。不機嫌そうな顔つきになる。それを、そういうふうにしないように、俺がどれだけ、意識してがんばってきたか、ほかの人はまったくわかってない。ほかの人は、きちがい兄貴ではなく、この問題には関係がいない人たちなのだから、おこった顔をしないようにしよう、不機嫌な顔をしないようにしよう、そう思って、鳴らされている十数年間、なるべく、ほかの人にさとられないように、普通の顔をして……生きてきた。ヘビメタ騒音に関係がない人には、配慮をしていた。けど、そういうのも、一五年間鳴ったあと、ずっと何十年も後遺症が続くとなると、やってられなくなる。きちがい的な家族にたたられなかった人は、「ニコニコしていればいいことがある」など言うけど、それは、ぼくの数十年間を全否定した言葉だ。どれだけ、他人に配慮して、他人に気をつかって、不機嫌な顔を見せないように努力してきたか、おまえわかっているのか?と言いたくなる。そういう期間が長すぎるのである。でっ、きちがいヘビメタ騒音ときちがいヘビメタ騒音の後遺症が原因なのだから、ずっと続くのである。つまり、いやなこと、悪いことが続くということになる。これがわかっているのか?

2024年6月20日木曜日

名誉の問題だから、あせるだろ。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で勉強することがまったくできないというのが、くるしかった。名誉の問題だからね。そして、勉強することができない時間というのは、けっきょく、切羽詰まった気分で、発狂したい気分をおさえていた時間だから、ストレスが並じゃないのである。つかれ方が並じゃないのである。勉強はしなかったけど、その時間、おちついてすごすことができたということではないのである。勉強することができなかったから、勉強しなかったのだけど、自分の好きなゲームをして、充実していたということではないのである。できないし、つかれはてる時間なのだ。でっ、この「つかれ方」がまた、ヘビメタ騒音ではないことで、つかれたのとは、ぜんぜんちがう、「つかれ方」なのだ。これだって、どれだけ、言葉で説明したって、実際に、一倍速で、あの発狂状態を経験しないとわからないと思う。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなければ、どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音では鳴らさない音なのだ。どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音で鳴らそうと思わない音なのだ。普通の人なら、どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音では、鳴らせない音なのだ。それを、きちがいが、普通の音で鳴らしているつもりでずっと鳴らす。普通の音で鳴らしているつもりなので、悪いとは思わないのである。きちがい兄貴が、フォークギターを鳴らしていた三年間、俺は、一回だって、「うるさいからやめてくれ」と言ったことがないのだ。きちがい兄貴は、フォークギターぐらいの音で鳴らしているとしか思ってない。それは、無意識的なレベルで感覚器を書き換えたからできることだ。きちがい親父の「におってない。におってない」とおなじなのだ。自分が、強烈にでかい音で鳴らしたい場合は、強烈にでかい音で鳴らしてないことにして、強烈な音で鳴らすのだ。これ、普通の人だったら、絶対に、フォークギターの音なんて比べ物にならないほどでかい音で鳴らしているということに、気がつくのだけど、気がつかない。これは、言われないから、気がつかないということではなくて、どれだけ言われたって気がつかない。きちがい兄貴が……エレキギターをフォークギターぐらいの音までさげて鳴らしてくれたことなんて、一回もない。一日一秒だってフォークギターぐらいの音まで、エレキギターの音をさげてくれたことがない。エレキギター、プラス、ステレオの音なんだよ。ステレオは、六畳間に入れるようなオーディオセットじゃないんだよ。スピーカーだけで、ものすごくでかいんだよ。そのでかいスピーカーで、鳴らす音は、でかいんだよ。そして、ようするに、ステレオの音を、フォークギターの音までさげてくれたことも、ない。どれだけ頼んでも、さげてくれたことがない。こっちがテストでいそがしいときも、絶対に、自分のことだ割りの、でかい音で鳴らして、音をさげてくれことがない。名誉の問題だから、あせるだろ。きちがい兄貴は、俺がテストで悪い点数をとっても、まったく傷つかないけど、俺は傷つく。「勉強をさせてくれ」という気持ちで、きちがい兄貴に「しずかにしてくれ!!!!」ということを言いに行くと、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で否定して、しずかにしないのだ。けど、これまた、きちがい兄貴が、きちがい親父の感覚で、しずかにしてやらなかったと思ってない状態のまま、生活しているのだ。こんなの、ない。

2024年6月19日水曜日

関係はあるし、影響をうけないことは不可能だ

 精神世界のキレイごとというのが、すべてがすべて、条件が悪い人を傷つけるものなんだよ。これはもう、そういうふうに設計されていると考えたほうがいい。特に、特殊な家族がやることによって、どうしても、ストレスがたまる人のことを、傷つける。だいたい、特殊な家族がいない人には、特殊な家族がどういうことをするのか、まったくわかってない。特殊な家族がどういうことをして、どういうつもりで生きているか、まったくわかってない。「やったってやってない」と態度で、迷惑行為をやられ続けると、こまるんだよ! 家族だから、こまるんだよ。これ、特殊な家族が、よその家では絶対に発生しないような迷惑行為をやった場合、どれだけ、傷つくのか、特殊な家族がない人には、まったくわからない。だから、特殊な家族がいない普通の人は、「そんなのは関係がない」「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言う。関係はあるし、影響をうけないことは不可能だ。「そんなのは関係がない」「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言うこと自体が、特殊な家族にやられてないということの証拠だ。特殊な家族にやられた人が、こんなことを言うわけがない。ずっと背負わされる影響で、くるしんでくるしんで、ほんとうならできたことができなくなる。それですら、よその人は、「おまえのせいだ」と言ってくる。こんなのは、ない。「おまえのせいだ」と言うやつは、はやりの自己責任論者であるわけだけど、こいつらだって、特殊な家族にやられて生きてきたわけじゃないんだよ。こいつらが、特殊な家族の影響を無視しているだけなんだよ。特殊な家族と一緒に暮らしたことがない人は、特殊な家族と一緒に暮らしたことがないから、勘違いしている。影響を無視したり、影響を過小評価するというのは、わかってない人の特徴だ。だから、こういう人たちが、どれだけ「俺だって苦労した」ということを言っても、意味がない。特殊な家族と一緒に暮らしたことがないから、特殊な家族が与える影響について、過小評価するやつなんて、もう、過小評価した時点で、まちがったことを言っているやつなんだよ。

2024年6月17日月曜日

努力論に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている

努力論に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている。「すべては、受け止め方の問題」というような「受け止め方論」に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている。言霊、思霊、引き寄せ、努力論、受け止め方論、すべてに、条件の無視ということが成り立っている。言霊においては、「言ったか言わなかったか」ということ以外の条件は、最初は、無理されているのである。あとで、言い方が悪いというような『条件』が付け加わることになる。しかし、言い方が悪いということは、「言った」ということのあとに成り立つ、サブ条件なのである。ようするに、言ったという条件が成り立ったあと、「どういう言い方でいったのか」という条件が成り立つことになる。どういう言い方で言ったのかということを問題にする場合は、じつは、結果は、ふたつではない。「いい言い方」と「悪い言い方」のふたつがあるわけではない。けど、「いい言い方」と「悪い言い方」ということに抽象化することはできる。そして、すべての場合において、「言っても、言ったことが成立しなかったのなら、それは、悪い言い方だったからだ」と、あとだしで言うことができる。もちろん、これは、まちがっている。「言うことができる」と言っても、別に、正しいと言っているわけではない。ようするに、詐欺的な思考に陥っている言霊主義者は「言っても、言ったことが成立しなかったのなら、それは、悪い言い方だったからだ」と考えるわけだけど、それは、理論的に正しい思考じゃない。じつは、言い方は無数にあるので、悪い言いかたも、無数にある。基本的なことを言えば、詐欺的な思考に陥っている言霊主義者が「悪い言い方だ」と決めつけただけなのである。これは、最初から決まっているわけではなくて、「言ったことが、言った通りにならなかったのなら、言い方が悪いからだ」と、一時的に、言霊主義者が考えたので、その言い方が、その言霊主義者の頭のなかで「悪い言い方」になっただけだ。まあ、これ、あとだし詐欺だよね。

言霊理論においても、じつは「言った」という条件、「言わなかった」という条件以外は、問題になっていないのである。実生活における、いろいろな条件は、まったく問題になってない。かならず、「言ったか言わなかったか」という、ひとつの条件以外は、無視される。 しかし、ほんとうは、そんなことよりも、その人……が、生まれたときからかかえているいろいろな条件のほうがたいせつなのである。重要なのである。結果に影響をあたえるのである。

 

2024年6月16日日曜日

条件を無視して、「一項目」だけに集中させる手法

 おカネが好きな人のところには、おカネがやってくる。おカネが人のところには、おカネがやってこない……というような話を、『条件ぬき』で語っている人は、みんな、詐欺師だと思っていい。

こういうことじゃないのである。

たとえば、「おカネがきたないと思っている人のところには、おカネがまわってこない」というようなことを言うけど、これもちがう。そして、「おカネがきたないと思っている人は低収入だ」というようなことを言うけど、これも、勝手な決めつけだ。

これ、精神世界系の人は、みんな、やられてしまうのだけど、まず、『条件』というものを考えなければならないんだよ。

この場合、まず、考えられる条件は、「おカネがない人」は、どういう「家」にうまれてきたのかということと「おカネがある人」は、どういう「家」にうまれてきたのかという条件が重要になる。これは、言ってみれば、初期値だ。

初期値が高いほうが(おカネがあるほうが)いろいろな点で有利であることにはかわりがない。

個人の資質や、おカネの流れがかわってしまうことによって、初期値は低いけど、現在地は高い人や、初期値が高いけど、現在値は低い人などがいる。おカネの流れというのは、たとえば、親の収入だ。自分の親が会社を経営していたとする。自分が子どものころは、会社の経営がうまくいって、親がお金持ちだったとする。

けど、自分が一八歳になったとき、親の会社の経営がうまくいかなくなり、倒産した。こういう場合は、おカネの流れがかわったので、初期値とは、ちがう現在値になることがある。

けど、個人の資質が高ければ、成人したあとなので、おカネをもうけることができたという場合ある。ようするに、時系列的にどんな条件が成り立っているのかということは、初期値とおなじように重要なことだ。

しかし、たとえば、小さいときから、小さなおカネのことで、トラブルがたえない人というのは、おカネに対して、たしかに、独自の構えをするようになる。

その場合、たとえば、実際のコインや紙幣に、人間の執念のようなものが宿っているような感じがする場合があるかもしれない。それを、その人が「おカネがよごれている」と表現したとする。この場合は、その人が、おカネをきたないものとして認識していることになる。

実際にこの子どもが成人してからもおカネがない暮らしをしたとする。

そうしたら、ほかの人は、そういう人のことを、たとえ話として使うようになる。

たとえば、小さいときから、「おカネはきたない」と思っている人をAさんだとする。

そして、Aさんをゆびさして、「Aさんがおカネをきたないと思っているから、Aさんにはおカネがないのだ」と言う人をBさんだとする。

Bさんが言っていることは正しいのだろうか?

正しくないと思う。

この場合は、小さいときから、貧乏だったのである。貧乏な家に生まれたのである。だから、親のすがたを見て、おカネに対する嫌悪感が生まれたのである。子ども時代のおカネにまつわるトラブルというのは、親が影響していることが多い。

精神世界の人は、因果関係を逆転させて、物事を考える癖がある。

しかも、逆転させて考えると、真実に到達できると思っているところがある。支配者層が、親支配者層の人をインフルエンサーとして育てると、親支配者層の人が、精神世界的なことを言って、そういう逆転思考をはやらせるのである。

言ってみれば、親支配者層の人に洗脳されている普通の人は、別に、逆転の発想なんてしてない。親支配者層の人が提供したそういう考え方を、そのまま、順方向で、受け入れているだけなのである。言われたことを、そのまま、受け入れている……逆転の発想ができない人たちなのである。

こういう話にだまされてしまう人たちは……。

Bさんは、貧乏な家に生まれて、おカネのことでいやな思いをしたから、おカネに対してネガティブな考え方が発生したと考えるのが、正しい。そして、貧乏な家に生まれたので、そのあとも、貧乏な思いをして生きてきたと考えるのが正しい。

まるで、勝手に、Bさんの頭に、「おカネがきたない」という考えがうかんで、Bさんが「おカネがきたない」と考えているので、Bさんのところにおカネがまわってこないと考えてしまう。こういう考え方はそれまでの条件と今現在の条件を無視しているので、現実的な考え方ではない。

こういう考え方は、Bさんがオギャーと生まれてから、成人するまでのおカネの流れを無視している。おカネがないと、教育うける点でも、不利な状態になる。

だいたい、じゃあ、Bさんの親というのは、どういう階層の人だったのかということが問題になる。

Bさんの親がどういう仕事をして、どういう仕事文化をもっていたのかということが問題になる。Bさんの親のおカネに対する態度が問題になる。

しかし、育った家のことを無視して……結果としてある、Bさんのおカネに対する執着(おカネに関する不愉快な記憶)を「おカネがきたないという考え方をBさんがもっている」ということに置き換えただけなのである。

そりゃ、小さなおカネで常に、トラブルが生じていたら、おカネに対するネガティブな思いがうまれる。わずかなおカネで買えるものなに、親が、そのおカネをケチって買ってくれなかったということは、小さなBさんにとっては重要なことなのである。

無視できることではない。

小さなおカネのことで、小さなBさんがとてつもなく不愉快な思いをしたということは、重要ことなのである。そして、そういうおカネのない家の子供だから、「おカネをもうけやすい」条件がそろってないということになるのである。

子どもといったって、そりゃ、歳(とし)をとる。小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっとおカネがない状態で暮らしてきたなら、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっとおカネがある状態で暮らしてきた人とは、いろいろな条件がちがうということになる。

おカネのもうけやすさというものを考えた場合、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっと有利な条件ですごしてきた人は、おカネのもうけやすさという点でも、有利であることが多い。

成人したBさんの『おカネ観』だけを問題にして、成人したBさんのおカネ観がネガティブだから、Bさんにはおカネがまわってこないとするのは、条件を無視しているという点で、問題がある考え方なのである。

精神世界の考え方だと、Bさんの頭のなかのことが、Bさんの現実をつくっているので、Bさんが頭のなかのことをかえてしまえば、それに対応して、Bさんの現実もかわるということになるのである。

その場合、Bさんの頭の中こと、と、Bさんの現実が対応しているということになって、もちろん、一見正しそうな印象をあたえる。けど、Bさんが、「おカネに対してポジティブに考えても」Bさんの現実がそれに対応して、Bさんの現実がかわらないのである。現実には、さまざまな条件がある。

頭のなかだけ、ポジティブにすれば、それで問題が解決するということはない。ほんとうは、時系列的な条件により、Bさんのからだは、がんじがらめになっているのである。

今現在成り立っている条件というのは、Bさんの行動をしばっている。たとえば、高校卒業時点でのBさんの行動できる範囲と、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっと有利な条件ですごしてきた人の行動できる範囲は、あきらかにちがうのである。

たとえ、Bさんが頭のなかで、おカネに対してポジティブな考えをもったとしても、それだけでは、Bさんをしばりつけている様々な条件がかわらないのである。

けど、インフルエンサーに洗脳された人は……つまり、順方向でインフルエンサーの話をうけいれてしまう人は……さまざまな現実的な条件を、無視してしまうのである。

そして、ただ単に「考え方」に注目することになる。Bさんがもっているとされている「おカネに対するネガティブな考え方」だけに注目して、実際に成り立っているBさんの条件を無視してしまうのである。

そして、「おカネに対するネガティブな考え方」が「Bさんが貧乏だ」という結果をつくっていると考えてしまうのである。しかし、Bさんが貧乏なのは、今更始まったことではないのである。生まれたときから、貧乏な親の影響をうけて、Bさんは貧乏だったのである。Bさんが高校を卒業するとき、突然、Bさんを取り巻く条件がかわるわけではない。

Bさんを取り巻く条件はたくさんあるのだけど、そのうち多数が、おカネをもうけるということに関して、ネガティブな条件なのである。ようするに、Bさんが高校を卒業する時点で、もうすでに、Bさんにはたいしておカネがはいってこない条件がそろっているのである。

もちろん、特殊なことをやっておカネをもうけるということができるかもしれない。

けど、それは、普通ではない。特殊なことだ。たとえば、詐欺とか、普通の方法ではない方法でおカネをもうけるということはできるかもしれないけど、それは、普通の方法ではない。普通の方法でおカネをもうけるとなると、いっきに現実的な条件が、ものを言うようになるのである。

ちょっとだけ言ってしまうと、逆転の思考ができるつもりの凡人は、まったく、逆転の思考なんてしてない。だいたい、これには、条件の無視……という特徴がある。

これ、言ってしまってはまずいのかもしれないけど、精神世界の人は、詐欺に引っかかりやすい人だ。精神世界の人は、すでに、詐欺に引っかかっている。「逆転思考ヨイショ詐欺」にひっかかっている。

「逆転思考ができる」ぶんだけ、普通の人よりもすぐれているという考えをもってしまうのだけど、それは、洗脳インフルエンサーが与えた考えだ。これ、「ヨイショ」されているのである。

「自分は逆転思考ができる特殊な人間だ」と思って、うかれているわけだけど、だまされている。

条件を無視して、「一項目」だけに集中させる手法というのは、親支配者層の人がやる詐欺的な手法のひとつだ。「一項目詐欺」と呼んでおこうか?

自己啓発セミナーの講師も、「一項目詐欺」をよく、やっている。この人たちの、話し方の特徴に気がつくべきだ。ほんとうは、条件でがんじがらめなのに、条件を無視して、一項目だけに集中させる。

そうすると、一項目だけをかえると、現実がかわるような印象をあたえることができる。けど、現実は、実際には、条件に縛られている。なので、一項目だけをかえても、現実はかわらない。


(ある)から、意識しない。(ない)から、意識する

 これ以降、書くことは、ぼくとしても、感覚として書く。ようするに、まちがったことを書くかもしれない。ようするに、草稿として書いておく。

人間にとって(よい)条件というのは、空気のようなもので、特に意識しないものなのではないかと思う。自分の(よい)条件は、自分にとって空気のようなもので、(ある)ので、特に意識しない。しかし、自分にとっても、じつは、(なければ)意識せざるをえないことなのである。(ある)から、意識しない。(ない)から、意識する。空気がなかったら、くるしくなって、空気がないということを、意識せざるをえなくなる。もちろん、空気のなかに酸素があり、酸素を欲しているのだという知識があるから、そうなるわけで、空気がない場合も、「空気がない」ということを意識するというのは、知識があるから成り立っていることだ。「空気がない」状態だと、くるしくなり、くるしさだけは、知識に関係なく、意識することができる。人間にとって(わるい)条件というのは、意識せざるをえないものなのではないかと思う。それは、空気がない条件で、くるしさを感じるのとおなじなのである。そして、人間である(自分)は、やはり、悪い条件を意識するのではないかとおもう。それは、まず、くるしさや痛さなどの感覚として意識され、くるしさにまつわる感情や痛さにまつわる感情などの感情をうみだす。この、感覚→感情という流れは、当然の流れだと思う。「など」と書いたのは、たとえば、「かゆさ」という感覚も、「かゆくて不愉快だ」という感情をうみだす。さらに、ひっかいて、あとが残るのであれば、あとが残ったということについて、気にする人は気にする。あとが気になるという感情が生まれる。

条件に関係なく、自分でも、こうすれば「達成されるはず」なのである。

 これだけ、人によって条件がちがう世の中だと、めぐまれた条件の人が、条件を無視して、プラス向きのことを言うと、特別な悪条件にたたられている人の気持ちを傷つけてしまうのである。そして、プラス向きな思考というのは、ようするに、「こういうことをしたほうがいい」「こういうことをしたほうが効率がいい」「こういうことをしたほうが楽しめる」ということなので、ほんとうは、条件が成り立っている。プラス向きの思考について人々が語るときは、まず、めぐまれた条件の人が、ほんとうにそういうふうに思って言う場合と、めぐまれない条件の人が、こうであるはずだと言う場合がある。まあ、そういう意味では、言霊(理論)のトリックや、努力論のトリックに、みずから、ひっかかりたいという圧力があるといえる。めぐまれない条件の人は、「べきこと」として、言霊(理論)や努力論にしがみつくのである。「達成されるはず」なのである。条件に関係なく、自分でも、こうすれば「達成されるはず」なのである。

どうも人間というのは、ぼくも含めて、自分の環境が普通だと思ってしまうところがあるらしい

 どうも人間というのは、ぼくも含めて、自分の環境が普通だと思ってしまうところがあるらしい。自分の条件が普通の条件であると考えてしまうらしい。だから、普通に、相手の条件を無視してしまう。あるいは、相手の条件がもたらすものを、軽く考えてしまうらしい。自分の経験してきたことが、普通だと思うのはしかたがない。だから、人間というのは、他人の条件を無視する傾向がある。しかし、他人の条件に配慮ができるひとというのもいる。これは、言ってみれば、たてまえだ。自分の条件が普通だと思って発言をしたとき、『相手』が反発してきたので、いちおう、それ以降は、相手の条件に「配慮をしめすような」ふりをすることにしたということだ。こっちのほうが、あとでつくられた「態度」であり、この場合も、ほんとうは、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を「軽く見る」態度のほうが、強い。土台には、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を無視するという態度がある。この無視というのは、「影響」を無視するということだ。法則性ということを言うのであれば、こっちのほうが、法則性があることだと思う。言霊理論の法則性や努力論の法則性は、ないけど、自分の条件が普通だと思って、相手の条件を軽く考えてしまうということのほうに、法則性がある。

しつこくなるけど、ネイティブな思考としては、自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するという思考であり、それだと、問題がしょうじるので、あとで、きれいごととして、相手の条件をがんばって考えるようにしたという感じだ。あるいは、相手の条件を重視しているようなふりをしたほうがいいと考えてそうしているという感じだ。

道徳性ということを言うのであれば、「自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するということ」は、かならずしも、道徳的ではないことではないのかもしれない。

いっぽう、決めつける話にかんしては、「人間というのはこうだ」「これはこうだ」と決めつけることになる。これも、どちらかというと、人間にありがちな思考なのだと思う。ようする、人類というのは、決めつける思考をしたがる生き物なのではないかと思う。傾向ということを言うのであれば、「言ったことが現実化する」とか「努力をすれば成功する」というような、詐欺部分があるようなことではなくて、こっちのほうが、傾向としてあるのではないかと思う。もちろん、人類の傾向だ。人間が考えるときの思考スタイルとして、そういうふうに考えてしまう圧力があるのではないかということだ。

 

2024年6月15日土曜日

ネズミとヘビメタのちがいがあるけど、おなじなんだよ!!

 「ネズミ問題を発生させる」「ダニ問題を発生させる」というのが、いかにも、親父がやりそうなことなんだよなぁ。いかにも、親父がやりそうなことなんだよなぁ。

もう、ほんとうに、ネズミ・ダニ対処で、俺は、ほとんどすべての、残りエネルギーを使ってしまった感じがする。

しかも、まだ、ダニ問題が片付いていない。

ネズミを呼び込むようなことを、やるというのが、親父っぽいんだよな。

普通の人は、そんなことはしない。

やった場合でも、「やめてくれ」と言えばやめてくれる。「におっている」と言えば、「におっている」ということを認めてくれる。だれが、ほぼ一日中、自分があとで食べる、魚の切り身を、テーブルの上に、なにもかけずに、出しっぱなしにするか?

これ、鼻が正常なら、絶対に、「におっている」ということがわかるんだよ。

けど、「片付けたくない」というスイッチが入ってると、「におってない」「におってない」ときちがい的なことを絶叫して、「におってない」ということを認めない。普通の人なら、思いつきもしないことなんだ。

自分が食べるつもりの魚の切り身を、サランラップもかけずに、ほぼ一日中、ずっと出しておくなんて、普通の人なら・思いつきもしないことなんだよ。

普通に、サランラップをかけて、冷蔵庫に入れる。いま食べないし、今後、三時間、四時間食べないならな、そうする。これは、竹とおなじで、自分が、そうしたくなったら、そうしてしまうのである。

で、家にネズミが入ってこれるような、隙間がなければ、それでおしまいだったんだけど、そうじゃなかったんだよな。

ネズミが入ってきたら入ってきたで、ネズミシートでつかまえるということに、こだわりまくる。ネズミシートでつかまえたって、ネズミの糞が増えていくんだよ。壁や床がネズミのションベンくさくなるんだよ。

普通の人なら、絶対に、たえられないことなんだよ。ところが、自分がネズミシートで捕まえるということに、こだわる。そもそも、ネズミが入ってこないようにしないと、ネズミの糞が増えるということをどれだけ言っても、認めない。

普通の人だったら、絶対にそんなことは、ないんだよ。きちがいなんだよ。

でっ、この、踏ん張りは、きちがい兄貴の踏ん張りとおなじなんだよ。

きちがい兄貴のヘビメタは、きちがい親父のこういうことと、まったくおなじなんだよ。ネズミとヘビメタのちがいがあるけど、おなじなんだよ!!

ヘビメタ騒音で働けなくなって、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。ヘビメタ騒音で勉強ができなくなって、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。

きちがい親父のきちがい行為経由のダニで、かゆい思いをするのは俺なんだよ。

肌がきたくなるのは俺なんだよ。

ネズミの糞をかたづけるのは俺なんだよ。

きちがい親父が入院したあと、たとえば、ガスの検査で、うちのなかに、人が入ってくるとき、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。ガスの検査の人が、ネズミのばい菌にやられないように気をつかって、アルコール消毒液を使って、除菌をするのは俺なんだよ。

けど、ばい菌というのは、目に見えないので、「あの人、だいじょうぶだったかな」と心配するのは俺なんだよ。

きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らさなかったら、俺はこの家にいない。きちがい親父のネズミ騒動、ダニ騒動に、かかわる必要がなかった。

*     *     *

張本人のきちがい兄貴がシランプリでまったく関係ない人として生活し続ける。やり続ける。張本人のきちがい親父がシランプリでまったく関係ない人として生活し続ける。やり続ける。やり続けた。きちがい兄貴がいないところで、俺がどれだけはじをかいたり、ばつの悪い思いをしたと思っているんだ? きちがい親父がいないところで、俺がどれだけはじをかいたり、ばつの悪い思いをしたと思っているんだ?

つもっている感情の量が、あたらしい、感情の量に影響をあたえる

 きちがいヘビメタを鳴らされるというとが、どういうことなのかわかってないやつがいる。わかってないやつらばかりだ。こいつらが思っていることと、ぼくが経験したことはちがう。あたりまえのように、きちがい兄貴がものすごい音でヘビメタを鳴らしていた。このヘビメタというのは、好きな人にとっては好きな音楽なのだろうけど、ぼくにとっては、一番苦手な音がつまっている音楽だ。ヘビメタが好きな人は、ヘビメタではなくて、自分の嫌いな音が、常に、大音響で鳴っているという状態を想像してみてほしい。そして、それを鳴らしているのが、頭がおかしい、家族なのだ。家族! 家族!! 家族ということが、どれだけ足をひっぱるかわからない。感情の量というものがある。感情の量。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、きちがい的にでかい音を鳴らしているあいだ、一倍速で、その騒音にたえているときの感情。時間が長く続けは、感情の量が増える。期間が長く続けば、感情の量が、果てしないほど増える。そして、つもっている感情の量が、あたらしい、感情の量に影響をあたえる。まえよりも、悪くなっていくのだ。失敗体験がつみかさなる。くるしい時間がつみかさなる。そして、理解してくれる人がだれもいない。これは、ようするに、おなじ体験をした人が、だれもいないということだ。つもりつもった感情の量がある。これを無視して、「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言うやつらがいる。

こいつらは、完全になめくさっている。

こういうやつらに、なめくさったことを、言われることが、きちがい兄貴の態度で決まっているのである。

よそでは、きちがい兄貴だって鳴らせないようなでかい音で、鳴らして、よそでは、きちがい兄貴だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているということを、絶対に、認めない。

こんな、頭にくる態度があるか?

これ、毎日、何時間もやられていいわけがない。これ、毎日、何時間もやられて、勉強時間をとられていいわけがない。これ、毎日、何時間もやられて、睡眠時間をとられていいわけがない。

きちがい兄貴しか、こういうことをほんとうに実行する人間がいないのだから、ほかのやつらは、おなじことをされたことがないやつらなのである。

かりに、きちがい兄貴以外に、こういうことを、きちがい兄貴感覚でやるやつがいたとする。その少数の例外は、例外としてあつかうことにする。

けど、その少数の例外は、「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言うわけがない。

「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言ったやつらは、みんな、みんな、全員、きちがい的な音を、きちがい的な音のでかさで、鳴らされたことがないやつらなのである。

そして、こいつらのほうが、当然ながら、多数派なのである。九九・九九九九九九九九九九九九九九九九九九九九九%ぐらいが、こういうやつらなのである。こんなのは、ない。

けっきょく、感情の量を知らないやつらが、くそを言ってくる。くそを言ってくる。やられなかったから、言えることだ。しかも、言霊主義者は、理論的にまちがっているのである。努力論者は、理論的にまちがっているのである。きちがい家族によるきちがい騒音に対する無理解さを発揮したあと、くそまちがった理論を言いやがる。

ほんとうに、毎日、きちがい騒音でボロボロなんだよ。

関係ないわけがないだろ!!

ほんとうに、ひとのこころを踏みにじるようなくそボケ発言を、普通にしやがる。ごく普通に、ひとのこころを踏みにじる、くそボケ発言をしやがって。しかも、正しいと思っている。まちがっているよ。

世の中の、ほとんどのやつが、こういうやつらだ。どうしたものかな?


2024年6月14日金曜日

遠距離通勤・長時間通勤で、人生つんだひとの話

遠距離通勤・長時間通勤で、人生つんだひとの話があったけど、わかるような気がする。Youtubeにそういう動画があったということ。

最初は、通勤時間中に、読書をしようとか、スマホで映画を見ようとかと思うんだよ。最初は、『このくらい離れても、妻や子供のためには家が大きいほうがいい』と思うんだよ。

ところが、実際にやってみると、きついというのが、わかる。最初のころと、二年間続いたときとでは、感情がちがう。からだにつかれがたまっている。

けっきょく、家でも、会社でも、うまくいかなくなる。この人の場合は、自分で選んだことだから、まだ、あきらめようがあるけど、ヘビメタ騒音は、俺が選んだことじゃないから、あきらめがつかない。

選択してないんだよ。

俺は、選択したわけじゃないんだよ。

ヘビメタ騒音がある人生とヘビメタ騒音がない人生を選べたわけじゃないんだよ。ぜんぜん、ちがう。そして、職場のことだから、けっきょくは、転職すればいいということになる。

それも、うまくいくとは限らないけどね。

ところが、ヘビメタ騒音の場合、家族のことだから、家族をかえると言うことができなかった。俺が一一歳のときに、きちがいヘビメタ騒音がはじまった。「(兄貴に)鳴らさせない」ということができないなら、アパートを借りてくれと、俺が、きちがい親父に言ったけど、そんなのは、きちがい親父が理解するはずがない。

きちがい親父は、きちがいだから、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めると、それに、まあ、かげから、賛成してしまう。特に、やめさせようとしないんだよ。

こういうのも、ネズミが入ってきて、ネズミの糞が、毎日増えていく状態なのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言ってゆずらないときの感覚とおなじなんだよ。

ともかく、普通の人が行動するように、行動してくれない。

きちがい親父は、普通の人が行動するように行動してくれない。こっちが、助けを求めると、きちがい的な意地で否定して、頑固に動かない。頑固に動かないというのは、意地になって動かないということだ。

きちがい兄貴のヘビメタだって、きちがい兄貴でなければ、あんなに頑固になって鳴らすことはなかったのである。

親父ときちがい兄貴の頑固さが似ているから、ものすごくこまることになる。

普通の人だったら、絶対にやられないことを、きちがい的な意地でやって、やっているということ認めない。そして、やりきったら、もう、「関係がない人」になってしまう。

これが、毎日、繰り返される。

「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言う人もいるけど、影響はうける。

「過去は関係がない」ということを言う人もいるけど、過去は関係がある。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音自体が、よその家では絶対にありえない、ひどい騒音なんだよ。それに対する家族の反応というのも、よその人には、絶対に考えられない反応なんだよ。

おかあさんは、兄貴に、「しずかにしてやって」と言ったけど、兄貴は、おかあさんの言うことなんてきかない。親父が、竹を植えたときの態度で、きちがいヘビメタ騒音を、鳴らす。

おかあさんも、「そとに助けを求めるタイプ」ではなかったので、けっきょく、きちがい兄貴が意地をとおして鳴らしていると、「こまったまこった」と言ってこまっているだけだった。

おかあさんはおかあさんで、うちの問題を、かくすようなところがある。

まあ、そのころから、ご飯をつくることと、自分で入浴することはしていたけど、ほかの時間は、ずっと横になっていたような状態だ。おかあさんは、当時から、ほとんど寝床で暮らしていた。まあ、免疫関係の病気とその他の病気で、横になっている時間が長かった。おかあさんの寝床と俺の寝床をくらべると、おかあさんの寝床だと、きちがいヘビメタが鳴っていても、眠れるのだよ。

ほんとうに、位置的な問題なんだろうけど、おかあさんの部屋とぼくの部屋とでは、ヘビメタ騒音のひびき方がちがう。学校から帰ってきて、おかあさんの布団で寝ていたときがある。そのときは、眠れた。

おかあさんの布団でぼくが眠っているとき、おかあさんは、ようするに、居間のおかあさんが座る居場所に座っていた。最初のころは、これもまた、「(自分の布団で)眠ってもいい」とおかあさんがぼくに言っていたのだけど、一か月ぐらいしたときに、どうしても、座っているがつらいから、(自分の布団で)寝るのはやめてほしいと言うことを、ぼくに、言ってきた。

そりゃ、ほんとうは、ぼくもつらかったけど、おかあさんの布団なので、おかあさんにゆずった。

けど、ぼくの部屋と、おかあさんの部屋だと、音圧がちがうんだよ。だから、ヘビメタ騒音が鳴っている時間でも、おかあさんの部屋では眠れたけど、ぼくの部屋では眠れなかった。ぼくの部屋は、ほんとうに、透明な壁なら、すぐそこに、きちがいの巨大スピーカーが見えるような近さなんだよ。

そして、空間的に、まよこと、ななめ下だと、音の響き方がちがう。兄貴の部屋の床と、ぼくの部屋の床はつながっているので、もろに、(こまかい)振動がくる。そのこまかい振動は、振動として完全に認知できるような大きな振動ではないけど、眠りに影響をあたえていたのではないかと思う。

音もそうなのだけど、音の振動のほうも、問題で、睡眠に影響をあたえていたと思う。

長時間通勤をした人も、最初は、「電車のなかにいる時間を有効に活用すればいい」と思っていたわけだけど、実際にやってみると、きつかったということだ。

きつさの影響が、いろいろなところに、あわられるのである。

たとえば、仕事とか家族の人間関係に影響をあたえる。「つかれ」というのは、つかれなのだけど、つかれが、注意力や他者に対する感情に影響をあたえるのである。 長時間通勤でだいじょうぶだと思っていたときは、睡眠時間がたりずに、仕事でミスが連発するということは、考えられなかったことなのである。

そして、どれだけ注意しても、やはり、睡眠時間が減ると、ミスが多発することになったのである。

普通の人は、注意すれば、ミスが減ると思っているけど、基本的にものすごく睡眠時間が減って、「つかれている」と、それがうまくいかないのである。持続時間の問題や持続期間の問題がある。

ミスが増えるもともとの原因(問題)が解決されないまま、存在し続けると、「注意をむける」と言うこと自体が、むずかしくなる。注意をむける持続時間自体が短くなる。どれだけがんばっても、注意がむかない時間があり、その時間にミスをしやすくなる。

ミスをされたほうは……そりゃ、ミスをされた立場で、発言をする。長時間通勤の人の上司は、上司の立場で、ミスをするなと言う。けど、それが、日常的に、ずっとつかれていると、どうしても、ミスが多くなる。

ヘビメタ騒音というのは、日常生活における「ミス発生装置」なんだよ。

ほかの人は無視するけど、どうしても、ミスが発生するんだよ。

きちがいヘビメタを鳴らしている兄貴がこまるのではなくて、きちがいヘビメタ騒音を強制的に聞かされているぼくがこまるんだよ。そして、長時間通勤とおなじように、その条件は、無視されるのだよ。……他人から無視される。


*     *     *

長時間通勤で、成功したというケースもあると思う。「俺は、長時間通勤をしたけど、快適だった」と言う人もいるだろう。

けど、条件がちがうかもしれない。

たとえば、電車を乗り換える必要があるのかどうかという条件。電車を乗り換える必要があるならあるで、乗り換える駅がいくつあるのかという条件。会社で、残業があるのかどうかという条件。

もちろん、まず考えられる体力的な条件というのがあるのだけど、体力的な条件だけでは決まらないのである。

Aさんは、長時間通勤が快適だった。Bさんは、長時間通勤で音(ね)をあげた。

Aさんは、根性があって、Bさんが根性がないと言いきれるのか?

ほかの条件がちがうのであれば、一概には言えない。Aさんは、体力があって、Bさんは体力がないのか?

一概には言えない。

けど、Bさんは、長時間通勤が、一〇年続いたあとは、体力的に弱くなっているだろうということが予想できる。これは、もともとの体力ではなくて、結果のほうね。結果的に、そうなったということと、もともとの資質(初期値)は別のこととして考えないとだめなんだよ。

*     *     *

言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」「つかれたと言うからつかれる」と言うけど、まちがっている。

言霊主義者は、言ったかどうかということと、言う内容にしか注目しないけど、ほかの条件が成り立っている。ほかの条件がちがえば、結論はちがってくる。

これ、言霊主義者だって、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。言霊主義者だって、十数年にわたって、ほとんど毎日、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(人は)つかれるのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「元気だ元気だ」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。

言霊主義者といえども、自分の現実的なことに関しては、言霊的な解決法を利用しないのである。言霊的な解決法が利用される場合は、そういう気分が味わえるときだけに、限定されている。

現実的な場面のなかでは、言霊主義者だって、言霊的な解決法を利用しようとしない。言霊的な解決方法なんて、まったく役に立たないということを、言霊主義者が知っているからだ。

けど、これがまた、「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用してない」「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用しようともしない」ということに、言霊主義者が気がつかないというところがある。

子どもじみた、無視がある。

注意がむかないのである。

これまた、注意がむかなければ、なかったことになってしまうのである。言霊主義者の注意がむくのは、言霊は有効だと感じられる場合だけなのである。

*     *     *

相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、相手に負のストロークをあたえていることなるのだけど、気がつかない。相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、気がつかない。

「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言うと、相手に負のストロークをあたえたことになるのである。

ところが、 「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言う人は、それに気がつかない。

*     *     *

家があるほうの駅が始発駅なのかそうではないのかという、条件もある。残業があると言っても、残業の頻度と残業時間の長さがちがえば、別の条件が成り立っていると言えるのである。

けど、「元気だ元気だ」と言ったかどうかという条件の差しか見ないようなことを、言霊主義者は言うのである。

実際に自分の身にしょうじたことでなければ、相手がかかえてるいる条件は、一切合切無視して、「言えば、言ったことが現実化する」と言う。「つかれたと言うからつかれるんだ」と言う。

こんなの、最初から、ケンカを売っているようなものだ。

相手の条件を無視した助言なんて役にたつわけがないだろ。けど、言ったか言わなかったかの条件以外は、すべて、無視してしまうのである。

そして、(言霊主義者のなかでは)他の条件によって決まることは、「言うこと」ですべてくつがえすことができることなのである。ところが、そういう意味で、言霊主義者は、言霊にはすごい力があるということを言うのだけど、実際の自分の問題に関しては、言霊を使って問題解決しようとしないのである。

 *     *     *

努力論者もおなじで、条件に関係なく努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しないということを言うのである。

けど、努力したかどうかが、結果に関係なく、一意に決まるとしても、ほかの条件が成功するかどうかに影響をあたえる。

ほかの条件を無視してしまうという態度には問題がある。

ほかの条件を無視して「努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しない」と言うことには問題がある。

条件を無視されたほうは、不愉快さを感じる。

努力論者も、成功してない人を、最初から、ののしっているのである。「努力不足だから、成功しないのだ」とののしっているのである。負のストロークをあたえているということにいいかげん、気がつけ。

相手の条件を無視して、じつは、まちがっている法則性があるようなことを言うことは、相手に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がつけ。

そして、努力論者が無視した条件について、相手が語りだすと、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」と努力論者が相手に言うのである。

これも、負のストロークを相手にあたえたと言うことになる。いいかげん、気がつけ。

「努力をすれば成功する」というのは、理論的にまちがっているんだよ。「一〇〇%詐欺」と「あとだし思考」をしている。あとだし思考は、あとだし詐欺と言うことができる。

じつは、「努力をする」ということが一意には決まらないという問題がある。

じつは、「成功する」ということが一意には決まらないという問題がある。

 

きちがい兄貴が、規格外だから、俺が誤解をされる

 きちがい兄貴が、普通の人が思いつかないことを、毎日、やる。きちがい親父も、普通の人が思いつかないことを、普通にやる。思いつかないことなんだよ。思いつきもしないことなんだよ。きちがい親父の場合は、ヘビメタ騒音のように毎日同じことをするわけではないけど、自分が思いついたことは、絶対にゆずらない。この頑固さが、普通の人にはわからない。普通の人が思いつかないことを、普通の人がまったくわからない頑固さでやる。しかも、本人は、やったつもりがないのだ。絶対の意地で、やり通して、やったつもりがない。こんなのはない。親父も兄貴も、こういうことろがおなじなのである。親父も兄貴も、毎回、普通の人が思いつかないことを、普通の人がまったくわからない意地でやる。どうして、毎回そうなるかというと、きちがいの脳みそを搭載しているからだ。本人にとっては、それがあたりまえだから、そのように動いしてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らせば、横の部屋の俺は、影響をうけるけど、ほかの人は影響をうけない。そうすると、ほかの人は、ひとごとなので、きれいごとを言う。「そんなことが成り立つわけがない」とぼくが、きちがい騒音のなかで、思うことを言う。これ自体が屈辱だ。けど、普通の人だって、まったくわかってないから、普通の思考で、そういうふうに言う。そうなると、きちがい兄貴がつくりだしている状態と、普通の人のきれいごと思考の、あいだにはさまれることになる。きちがい兄貴がもたらした状態というのが、地獄なのである。けど、ほかの人は、「そんなのは関係がない」と言う。ほかの人の立場からすれば、そのように言うしかないのである。かかわっている範囲でいうとそうなる。かかわってる範囲と言うのは、たとえば、(ぼくに)遅刻されるとこまる人がいたとする。その人がかかわっている範囲んだと「(ヘビメタ騒音なんてそんなのは)関係がない」「遅刻しないようにして」と言うしかない。けど、「できない」。できないのだけど、ほかの人の立場からすると、わからないのだ。ぼくといっしょに、きちがい兄貴の横の部屋で生活しているわけではないから、わからない。俺だって、騒音はあった。きちがい兄貴が、エレキギターとでかいスピーカーでうるさくするまえだって、騒音はあった。幼稚園の横だし、きちがい兄貴が、フォークギターをずっと弾いていた。けど、そういう騒音とは、質がちがうのである。どうやったって、遅刻してしまうような騒音なのである。どういふうに、生きても、次の日、遅刻してしまうような騒音なのである。そういうこまった騒音なのである。これは、ぼくにとってはリアルなんだけど、ぼくの話を聞いた人にとっては、まったくリアルなことではない。だから、その人はその人の感覚でものを言う。けど、一般的な感覚でいえば……きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられることがないので、正しいことなのである。どれだけ、こまるか、よその人も、きちがい兄貴もわかってない。この切羽詰まった状態が、何千日も続いて、いいわけがない。あとは、全体感情というのがある。あるいは、全体的な体調というものがある。きちがいヘビメタ騒音に、前日やられて、次の日の朝、学校に行かなければならないと、動いているときの状態が、並じゃないのである。これだって、「俺だって朝はつらい」と言って、同質化することはできる。これだって、「みんな、だれだって、朝はつらい」と言って、同質化することはできる。けど、きちがい兄貴がつくりだしている状態というのは、きちがい兄貴が、ヘビメタをやりはじめた以降の状態なんだよ。普通の状態じゃない。けど、前述のとおり、普通の人は、そんなことはわからない。経験的にわかってない。俺だって、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすまえも……鳴らし始めるまえも、それなりに、朝はつらかった。ものすごく調子が悪い日もあった。けど、ちがうのである。ヘビメタ騒音が数千日、つもったときの、調子の悪さと、それ以前の普通の暮らしの、なかの調子の悪さというのは、ちがうのである。ちがうのである。「どうしようもなさ」というのがある。これのひきつった発狂的な状態がちがうのである。だから、まあ、ひきつった発狂的な状態と表現される状態になるまでに、時間経過があった。「つみかさなった」のである。けど、「そんなの半径がない」と言う人は、時間経過を無視してしまう。俺の、努力の結果を無視してしまう。どれだけ、くるしい状態のなかで、「時間通りにいかなければならない」という気持になって、努力したか、みんな、きちがいヘビメタ騒音にさらされてない人は、わからない。実際に、きちがい家族がいて、きちがい家族が、きちがい感覚で、きちがい的な音を毎日鳴らしてしまうという状態を経験している人じゃないとわからない。ほんとうに、きちがい的な騒音なんだよ。あんな音で、鳴らそうとする人がいないんだよ。そもそも、そういうふうに思う人がいないんだよ。そして、鳴らそうと思う人がいないほどでかい音で、鳴らしているのに、自分がでかい音で鳴らしているということが、まったくわかってない人というのが、いないんだよ。きちがい兄貴が、規格外だから、俺が誤解をされる。みんな、まったくわかってない。

ほんとうに、「やったってやってない」の世界だ。

どうして、ぼくだけ、きちがい兄貴やきちがい親父に、人生を破壊されなければならないんだ。しかも、よそのやつは、「自分だったら平気だ」と思って、くそを言ってくる。「自分だったら、影響をうけないことが可能だ」と思って、くそを言ってくる。おかしい。ぜんぜんちがうんだよ。こいつらが思っていることと、ぜんぜんちがうんだよ。こいつらは、うちのなかにいるときのきちがい親父の態度や、うちのなかにいるときのきちがい兄貴の態度がわかってない。これ、両方とも、きちがい感覚が成り立っているんだよ。ほかの人が、きちがい親父のような態度やきちがい兄貴のような態度をとったところを見たことがない。医者だって、実際に、親父のリハビリにかかわるまでは、「それは、認知症の健忘でしょ」と言っていたのだ。俺が「父は性格に問題がある」と言うことを言ったんだけど、その意味がわかってなかった。自分がやられて、はじめてわかるんだよな。腹がたつんだよ。どんな人だって、きちがい親父の態度には腹がたつわけ。きちがい親父の場合、人の言うことをきかないて、絶対の意地で動いしてしまうときと、人の言うことをきかないで、絶対に動いてやらないときがあるのだけど、入院しているときの態度というのは、絶対に動いてやらない態度だ。これが、むかつくんだよ。これ、リハビリで、親父にかかわってしまったので、「あの人はなんだ」と医者だって思うわけで、そういうことがなければ、俺が言っていることがわからない。入院していたとき、長期入院だったから、親父のなかで「うち」と「そと(よそ)」がひっくり返っちゃったんだね。あのとき、一時的に、俺が、親父にとって「よその人」になったから、俺に対して、態度がよかった。ともかく、医者だって、実際に、リハビリでかかわらないと、どれだけ腹がたつ態度かわからないわけで、リハビリでかかわるまえに、ぼくが説明したって、腹がたつ態度だということがわからないんだよ。

でっ、親父の「絶対言うことをきいてやらないぞ」と言う踏ん張りは、きちがい兄貴の「絶対言うことをきいてやらないぞ」という踏ん張りとおなじなんだよ。そして、両方とも、そうやって意地をとおした場合、自分がやったと思ってない状態になる。あれ、自分が意地をはって、相手の言い分をしりぞけて、きちがい行為をしたということが、完全に、わかってないのである。本人が、まったくわかってない……状態なんだよ。こんなのは、ない。ほんとうに、「やったってやってない」の世界だ。

2024年6月12日水曜日

一日中、影響をうける。

 めちゃくちゃに、腹がいたくなって、もだえくるしんでいたのだけど、いちおう、おちついた。けど、朝の九時ごろから、二か所の工事騒音にやられて、けっこうきついのだ。今日は、午前五時ぐらいから眠って、なんか、うるさいなか、うとうとしていたけど、なんか細切れの睡眠になってしまって、ずっと通して眠ったという感じがしない。

「俺の人生なんなんだ」ということを、うとうとしながら思っていた。やっぱり、不利なんだよね。普通の人にくらべて、ものすごく不利なんだよね。「これはない」と言いたくなるほど、不利なんだよね。あらゆる場面で、きちがい家族の邪魔がはいる。そりゃ、長期騒音の問題というのは、ひとつひとつ、切れている問題ではないのである。一日のなかで、はげしく鳴っている時間が七時間から一三時間だとしても、一日中、影響をうける。

「言霊の力によって現実化する」と「魔法の力によって現実化する」は、おなじこと

 「言えば、言ったことが魔法の力で、現実化する」というのと「言えば、言ったことが言霊の力で、現実化する」というのは、おなじことなんだよ。けど、言霊主義者は、おなじことだと言うことがわからない。どうしてかというと、言霊という言葉にだまされてしまっているからだ。「言霊の力によって現実化する」と「魔法の力によって現実化する」は、おなじことなんだよ。いいかげん、気がつけ。「魔法」という言葉を使うと「そんなのは、おかしい」と言霊主義者は思うのだけど、「言霊」という力を使うと、「ただしい」と言霊主義者は思ってしまう。

「言えば、魔法の力によって、言った通りになる」……と「まじめに」言っている人がいたら、「どうしようかな」と思うだろ。しかも、その理論によって、「こっち」を傷つけている。こまるんだよ。「言えば、魔法の力によって、言った通りになるから、言えばいい」……。「言った通りにならなかったぞ」……。「言った通りになるまで何回でも言えばいい」……。「言った通りにならなかったぞ」……。「こころをこめて言ってないからダメなんだ。こころをこめて言えば、言った通りになる」……。

カルト思考なんだけど、カルト思考だと本人が思ってないんだよね。そりゃ、ビジネス関係の本に、「言霊を使えば、のぞみがかなう」という関係の本が何冊もある状態だからなぁ。ビジネス関係の本というのは、いちおう、大人向けの本なのだけど、大人向けの本なのに、このレベルだ。

「できると言えばできる」とか「言ったことが現実化する」とか、いいかげんにしてくれ。

*     *     *

言霊の分派としては、「くちぐせ」派がある。あとは、思霊の分派、言霊の分派としては「潜在意識」派がある。くちぐせは、時系列に因果関係を逆転させて、「あとだし思考」をしているだけだから。くちぐせ派が、絶対の意地で無視している条件が問題なんだよ。条件が、そういう「くちぐせ」をうみだしたんだよ。条件が、そういう「くちぐせ」をもたらしたんだよ。条件のほうが理由なんだよ。くちぐせは、結果なんだよ。

「潜在意識」派は、潜在意識というニセ科学タームを使って、それらしく語っているだけだ。こういうレベルだ。「潜在意識」が勝手にやってくれるという場合だって、「条件」は頑固に無視されている。条件を無視するな。

*     *     *

「自分は魔法が使える。自分は、言霊が使える。自分は、言霊という魔法が使える。言えば、言ったことが現実化する」……と本人が、思ってるぶんにはかまわない。「言えば、いつか現実化する」とごまかして、希望に向かって進むのは、一向にかまわない。

しかし、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、「正しいこと」として流通していることには問題がある。言霊理論が正しい理論として、社会に流通していることに関しては、問題がある。問題がある。言霊理論は、正しくないのに、正しいこととして社会に流通している。

そうなると、特に条件が悪い人が、苦労するようになるのである。特に条件が悪い人は、条件によって苦労しているわけだけど、さらに、夜郎自大な言霊主義者に説教をされて、不愉快な経験をすることに「なっている」のである。

いわば、経験をすることになっている。

社会のなかで、多数者が「言霊(理論)は正しい」と思っていると、特に条件が悪い人は、不愉快な思いをするようになっているのである。 

言霊主義者というのは、他人の条件について、考えることが「にがて」な人たちなんだよ。

結論としては、言霊主義者が、「言霊(理論)は正しい」「言ったことが現実化する」と考えて、希望にむかって努力することは、別にいい。その人の勝手だ。夢をかなえてくれ。

しかし、それと、他人に対して、それを言うことはちがう。

そして、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、「正しいこと」として流通していることには問題がある。

2024年6月11日火曜日

ダニが一番の問題なんだよなぁ

あーあ。このさきどうするかな?

ともかく、シェディングはさけなければならない。そして、食べ物なんだけど、もうちょっと気をつけないとだめだなぁ。クッキーは、やめる。一月に一袋ぐらい、チョイスとか、マリーとか、そういうレトロなクッキーを食べていたのけど、やめた。あとは、ピザもやめる。
けど、そんなことはどうでもよくて、ダニが一番の問題なんだよなぁ。肌がきたくなる。かゆさはともかく、肌がきたなくなるのはたえられない。これも、きちがい親父が、へんなところで、へんな意地をはったからそうなるのだけど、ほかの人には、きちがい親父の意地がわからないんだよな。あれ、放置になってしまうんだよなぁ。こまるんだよな。認知症なんて比べ物にならないほど、へんなことをする。へんな意地をはる。そうすると、きちがい親父が、この家をさったあとも、俺が、ネズミのことや、ネズミの糞や、ダニやナメクジのことでいやな思いをしなければならなくなる。そして、たとえば、粗大ごみ業者の人を呼んで、粗大ごみ業者の人が作業中に、ダニに刺されるということが起こると、俺は、ものすごく気にする。「他人だから刺されもいい」と思うわけにはいかない。やはり、「そういう状態を強いられる」というのはよくない。きちがい親父は、俺がダニに刺される状態をつくったんだよ。俺は、ダニにされることを強いられたんだよ。だから、立場をかえて見ると、俺が、業者の人に、ダニにされることを強制しているということになってしまう。それが、心苦しい。

*     *     *

こっちが、こまることをやって、くそ意地をはるのだ。親父も兄貴も、こっちがこまることをやって、くそ意地をはる。でっ、この、意地になっている状態なのだけど、普通の人には、到底わからない状態だ。もちろん、本人だって、ひどいことをやっているつもりはない。親父も兄貴も、あたりまえのようにスイッチが入って、ひどいことをやる。けど、それが、親父や兄貴にとっては、ひどいことをしたことになってないのである。

親父のネズミも、兄貴のヘビメタも、おなじなんだよ。そして、ほかの人……普通の人は、きちがい親父のことやきちがい兄貴のことが、まったくわかってない。これもわかってないところで、アホなことを言ってくるということになる。普通の人は普通の人で、どれだけまとはずれなことを言っているか、わかってない。

特に、精神世界の人は、きちがい家族にやられた人のことを、悪く言うんだよ。そして、無理解ぶりを発揮して、無理なことを言ってくる。これも、無理難題をおしつけているのだけど、無理難題をおしつけているつもりがないんだよね。ともかく、きちがい家族にやられた人は、そとの人にもやられる。そとの人というのは、これまた、絶対に?理解しない。ちゃんと理解してくれた、普通の他人というのが、いない。みんな、無理なことを言ってくる。

2024年6月10日月曜日

眠りたいと思った言霊主義者は、実際に眠ってしまう

 たとえば、言霊主義者が眠たくなったとき、どうするか? 眠れる状態であれば眠ると思う。「眠らなくても、眠ったのとおなじ状態になる」と言って、眠らずに起きているかというとそうではないのである。もし、眠たいにもかかわらず、眠ることができない状態だったらどうするか? 「一秒後には、眠らなくても、眠ったのとおなじ状態になる」と言って、眠ったのとおなじ状態になって、置き続けているのだろうか? ちゃんと、眠るのではないか。そして、眠りたいときに、どれだけ「眠りたくない」と言っても、「眠りたい」と感じているのではないか? 言霊主義者は、自分の現実的なことに関しては「言霊で解決しよう」と思わずに、普通の方法で解決しようとするのである。カネがなかったら、アルバイトをするというような現実的な方法で解決しようとする。しかし、人には「言ったことが現実化する」と言うのである。ようするに、言うことによって解決することができるというようなことを言うのである。ところが、ほかの人が言っても、問題が解決しない場合がある。「言ったあと」と「言ったから」の混同は、一般にみられる現象なので、「言ったあと」と「言ったから」の混同してしまう人もいる。なので、「言ったら問題が解決した」と思う場合もある。けど、それは、「言ったから」ではない。「言ったあと」の特殊なケースもある。AさんとBさんがいて、AさんがBさんを好きになったとする。AさんがBさんに、直接、好きだから付き合ってくれ」と言ったとする。その結果、AさんがBさんとつきあうことができたとする。この場合は「言ったから」問題が解決したと、言える。普通の範囲でいえる。しかし、これは、言葉にやどると言われている?言霊によって解決したのではない。言霊の力でAさんが問題を解決したわけではない。Aさんは、言葉の力で解決した。時系列的には「言ったあと」解決したので、これは「言ったあと」の特殊なケースだ。だから、言ったことによって、言ったあと、問題が解決することはあるのだけど、それは、言霊の超神秘的な力によって解決したわけではないと言うことは、明記するべきなのである。言霊の超神秘的な力による場合は、BさんがAさんのことを好きではないのに、言霊のすごい力によって、Aさんのことを好きになり、Aさんの申し出をうけいれたというようなことが起こる場合なのである。あるいは、言霊力によって、まったく好きではないAさんの申し出をうけいれたというようなこととが起こった場合なのである。ところが、言霊にはそういう力がないのである。うまくいったケースを例としてあげて、「言霊という神秘的な力が存在する」ということを、言霊主義者は、他者に説明するけど、これは、詐欺的な説明だ。詐欺なのである。言霊主義者は、こだわてっいないし、認識していないけど、詐欺だ。「言葉の力」がかかわっている場合は、「言ったから、言った通りになった」と言える場合がある。けど、その場合、言葉の力であって、言霊の力ではない。なまじか、「言ったから」と言えてしまうところが、難点だ。これは、だましのポイントでもある。

話をもとにもどそう。言霊主義者も、じつは、自分の現実的な問題に関しては、言霊的な解決法を利用しようともしないのだ。どうしてかというと、言霊的な解決法が「無駄だ」ということがわかっているからだ。「やったってしかたがないこと」なのである。「言ったって、言った通りにはならないこと」なのである。「言ったって、言った通りにはならないことだから、言わない」のである。言霊的な解決方法をこころみようともしない。「元気だ元気だ」と言えば、眠らなくたって、元気に活動できるのだから、眠らなければいいじゃないか。すべての恋愛問題を、言っただけで解決できるのだから、言って解決すればいいじゃないか。なんで、言霊主義者なのに、恋愛の問題を言霊で解決しようとしないのか? 「一秒以内に、彼女は自分のことを好きになる」と言えば、そうなるのだろ。「一秒以内に、彼氏は自分のことを好きになる」と言えば、彼氏は自分のことを好きになるのだろ。だっら、そうやって、問題を解決すればいいじゃないか。そして、これは、一回でも言ったら、そうなるのである。「言えば、言った通りになる」のだから、一回でも言ってしまえば、その通りになる。言霊というのは、言霊主義者にとっても、たよりない力なのである。そんな力は、まったく信じてないから、現実的なことに関しては、現実的なことをするのである。作業を続けなければならない状態で眠りたくなったら、「一秒後には、眠ったのとおなじ状態になる」と言えば、問題は解決してしまうのである。不眠不休で、活動できるのである。つかれを感じたら、「元気だ元気だ」と言えば、つかれた状態ではなくなるのである。「一秒後に、自分のからだは、つかれないからだになる」と言えば、一秒後には、かならず、つかれないからだになっているのである。「一秒後に、自分は死なない存在になる」とひとこと言えば、一秒後には、「死なない存在になっている」のである。ところが、言霊主義者なのに、「人間はいつか死ぬ」などと言うのだ。「自分だって、いつかは死ぬ」と、言霊主義者であるにもかかわらず言うのだ。「あの人のことを好きだったけど、自分には高根の花だからあきらめた」と、言霊主義者であるにもかかわらず言うのだ。「つかれたから眠りたい」と、言霊主義者であるにもかかわらず、言うのだ。言霊主義者には、そもそも、おカネの問題も、恋愛の問題も、身体の問題も発生しないはずなのである。発生した場合も、言えば、解決できるはずなのである。「言えば、言った通りになる」のだから、言うだけで、解決できる。言霊主義者が、いろいろな問題化をかかえてるということ自体が、おかしいのだ。すべての問題を、言霊で解決できる。言うだけで解決できる。すぐに、不死になる。すぐに、他人を生きからせることができる。すぐに、瞬間移動ができる。すぐに、ほしいカネを手に入れることができる。できる、できる、できるできる。できると言えばできる。

ところが、言霊主義者でさえも、実際には、つかれを感じたり、眠りたいと思ったりするのである。眠りたいけど、眠ると問題が発生するときは、「一秒以内に、眠ったのとおなじ状態になる」と言えば、それで、問題解決なのである。言霊主義者が「眠りたいのに、条件的に、眠ることができない」という問題に悩まされることは、ないのである。

言霊主義者が、眠りたいのに眠れないという問題に悩まされるのであれば、それは、言霊理論がまちがっているということなのである。言霊主義者でさえも、普通に、眠って、体力の回復をはかろうとするのである。実際に、眠るのである。何時間先になるのか、あるいは、十何時間先になるのか、あるいは、何十時間先になるのか、それはわからないけど、ともかく、眠りたいと思った言霊主義者は、実際に眠ってしまう。言霊的な解決方法で、眠らずに、問題を解決するということができない。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人に「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言う人

 「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」ということについてちょっとだけ書いておく。もう、何回も書いたことなのだけど、いちおう、普通に大学を出て、働いている人が「俺だって苦労した」という場合がある。たとえば、ヘビメタ騒音の話を聞いたあとに「俺だって苦労した」「けど、働くべきだ」というようなことを、Aさんが、言ったとする。Aさんの苦労は、働くことができるぐらいの苦労だ。同質の、同量の苦労じゃない。ヘビメタ騒音とは、ちがうのである。ヘビメタ騒音がもたらした苦労というのは、Aさんの苦労とは、くらべものにならないほど、でかい影響をあたえる苦労なのである。はきちがえている。それから、高校を出て一五年(じゅうご)間働いて、そのあと、働けなくなった人がいるとする。Bさんと呼ぶことにしよう。Bさんは「人間は働くべきだ」と言うだろうかということを考えると、言わないのではないかと思う。だって、事実、自分は、今現在働いてないのだから、「人間は働くべきだ」という資格がない。これって、自分が働いているときに、他人に言うことだからね。そして、自分は働いているから、他人に「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言う人というのは、他人の苦労が見えてない人なのである。こういう人たちは、みんな、口をそろえて「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うけど、働き続けることができるぐらいの苦労なんだよね。たとえば、ブラック企業で、一五年間働いて、もう、働けないと思って、仕事をやめたとする。この人は、一五年間で働けなくなっているので、……まさ、一五年間働き続けたことによって、働けなくなっているので、ほかの人には「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」とは言わないと思う。まあ、自分のことは棚に上げて言う人がいるんだけどね……。まあ、自分のことを棚に上げて言う人は、少数派だとする。そして、このBさんのような人たちが言っている「苦労」というのは、ヘビメタ騒音級の苦労だと思う。だって、一五年間で働けなくなっちゃったのだから、「働けなくなる」ような苦労だ。

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「人間は働くべきだ」「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言って、他人に働くことをすすめる人には、きちがい兄貴やきちがい親父のような、きちがい家族がいないのである。きちがい家族のもとにうまれて、生活をしたことがないのである。事実、きちがい家族というハンディがない。きちがい家族のハンディがあって、きちがい家族にやられたからこそ、働けなくなった人が、他人に対して「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言うわけがない。

2024年6月8日土曜日

想定外の家族がいるということに関して、まったく理解がないのだ

 きちがい親父は、俺が、「あとあと」こまることしか、してないんだよなぁ。しかも、その当時、どれだけ、理論的に説明しても、きちがい的なことを言って、きちがい感覚で認めない。でっ、これとおなじことが、きちがい兄貴にも、ほんとうに成り立つのである。きちがい兄貴は、無言バージョンなんだけど、絶対の意地で、自分がでかい音で鳴らしているということを認めなかったのである。あんなにでかい音で鳴らして、一切合切、自分がでかい音で鳴らしているということを認めなかった。あんなでかい音で、一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、鳴らしていたら、相手はこまるんだということが、わからない。相手というのは、一緒に住んでいる人だ。一緒に住んでいる人がこまるということが、ほんとうにまったくわからないのである。これは、言われないからわからないのではない。どれだけ言われたって、わからないままなのである。何万回言われても、何十万回言われても、わからない。しかも、何万回言われても、「そのつど」発狂して、はねのけてしまうので、何万回も言われたという記憶がまったくない状態なのである。これがこまるんだよ。普通の人は、そんな人……そんなしくみの人がいるとは思わないんだよな。想定外なんだよ。だから、想定外の人にやられたことがない。想定外の人と、一緒の家に、家族として住んだことがない。想定外なんだよ。だから、気楽に「受け止め方をかえればいいんだ」とか「人のせいにしている」と(こっちに)言ってくる。これも、ひどいことなんだよ。これ、ほんとうに、想定外の家族がいるということに関して、まったく理解がないのだ。ほんとうに、きちがい家族と、普通の人にはさまれる。きちがい家族がやったことと、普通の人の感覚にはさまれる。きちがい家族が、きちがい的な意地で、一日に何時間も、十何時間もやったことというのは、不可避的に影響をあたえる。けど、きちがい家族にやられたことがない人が、あるいは、きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、それを、簡単に否定する。「影響をうけないぞ」とかたく決心をすれば、影響をうけないですむのである。「影響をうけない」と言えば、言霊のすごい力によって、影響をうけないのである。どれだけ、こまるか。こういう、カルト理論が普通に成り立っている。これ、出所は、幼児的万能感で、幼児的万能感はだれにでもあるので、カルト理論を信じている人が多い。

2024年6月7日金曜日

問題の質がちがうのである。

 ヘビメタ騒音が鳴った結果、できなくなっているのに、「関係ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」と言われたときの気持ちというのは、ものすごく不愉快な気持だ。ヘビメタ騒音を経験してないから、できるだけなのに、まるで、自分ならヘビメタ騒音を経験してもできるという、傲慢な自信がある。そんなの、言ってられなくなるほど、ひどい音なんだよ。ひどい音の連続なんだよ。うちのめされて、つかれてしまうんだよ。うちのめされて、できなくなってしまうんだよ。ただ単に、きちがい兄貴がいないから、「できる」だけなのに、えらそうなんだよ。こういう、ポジションに追い込まれるんだよ。必然的に、わかってない他人からえらそうなことを言われる立場になってしまうんだよ。ヘビメタ騒音でできなくなると、そうなる。

これも、「そんなのはいいわけだ」と、きちがい兄貴がいないやつが言ってくる。そいつにはきちがい兄貴がいないのである。きちがい家族と一緒にすごしたことがないのである。きちがい家族がどういう行動をするのか、まったくわかってないのである。一緒いたことがないから、ないからわかってないだけなのに、えらそうにしやがって。そいつには、きちがい家族のハンディがない。そいつがどれだけ「俺だって苦労した」と言っても、きちがい家族によるハンディがない。ぜんぜん、ちがう。実際、きちがい家族に、きちがい騒音みたいなことをやられてない。やられてないやつの発言だ。問題の質がちがうのである。 

きちがい兄貴が、「しらんぷり」で、よその家では絶対にありえない、きちがい攻撃をする。きちがい攻撃の結果、宿題ができないとか、遅刻をしてしまうという問題が発生する。きちがい攻撃があると、どうしても、宿題ができないんだよ。きちがい攻撃がなければ、宿題ぐらい簡単にできるんだよ。けど、俺がそういうことを言っても、「いいわけだ」と言ってくるやつがいる。人生のなかで、何回、こういうくやしい思いをしてきたかわからない。

兄貴のきちがい攻撃→(俺が)できくなる→よその人が、攻撃してくるということになっている。よその人というのは、「できる」という前提でものを言ってくるんだよ。それ自体が、攻撃なんだよ。よその人は、俺がちょっとがんばればできることなのに、いいわけをしてさぼっているからできないのだと、仮定して、ものを言ってくるんだよ。けど、ちがうんだよ。どれだけがんばっても、ヘビメタ騒音があると、できないんだよ。「ヘビメタ騒音が鳴っているからできないといいわけをしている」とよその人が、認識するのは、俺にとって不愉快なことなんだよ。どれだけがんばってもできないというひきつった状態が、よその人にはわからない。だから、ちょっと、がんばればできるのに、さぼってやろうとしないと仮定してものを言ってくる。その人が……言ってくる人が、きちがい兄貴の騒音にさらされたらできなくなると思う。もちろん、証明はできない。これに関して、ぼくは、証明できないのに、法則性のあることを言っているわけだ。だから、言霊主義者とおなじだと言おうと思えばできる。けど、言霊主義者は、勘違いをしているし、その勘違いに無自覚なんだよ。俺の場合は、証明ができないけど、証明ができないということを知っている。まあ、「だれだって、きちがいヘビメタ騒音と同等の騒音をあび続けたら、できなくなる」という法則性があることを言っているわけだけどね。きちがいヘビメタ騒音ではなくて、きちがいヘビメタと同等の騒音だから、そこのところ、勘違いしないでね。だれだって、苦手な音はあるはずなんだよ。その苦手な音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っていたら、できなくなるんだよ。しかも、鳴らしているやつが家族だ。家族というのは、特別な他人だ。これ、ほんとうに、ちがうのである。けど、「他人」というところまで抽象化すると、家族も他人だということになる。それは、正しい。しかし、あたえる影響の度合いや、他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということがちがう。他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということは、普段は意識することがないけど、ほんとうは、重要なことだ。家族(他人)と自分のあいだにあったことは、他人と自分のあいだにあったこととはちがうのである。けど、たとえば、「どれだけ、ガミガミ言われても、影響をうける必要はない」ということを言う場合は、家族(他人)と他人のちがいを無視してしまうのである。この無視が、まちがった結論に(人を)みちびくのである。これも、一〇〇%詐欺が成り立っている。ガミガミ言うと言っているけど、ガミガミ言う内容が、わからない。そこも抽象化されている。ともかく、一緒に住んでいる他人(家族)だろうが、単なる他人であろうが、関係がないという考え方はまちがっている。一緒に住んでいる他人(家族)と単なる他人をいっしょにするな。

*     *     *

ともかく、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、俺を見下して、バカにしはじめるのである。そして、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、「えらそうなこと」を言うようになるのである。これ、もう、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしたときから決まっているんだよ。他人は、きちがい兄貴の、きちがい的な意地について勘違いしている。そして、実際には経験したことがないので、「できなくなる」ということがわかってない。どれだけ、どれだけ、がんばっても、できなくなるのである。この「がんばり」がやっぱり、他人の目には見えない。そりゃ、俺が「がんばっている」あいだ、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らしているわけだから、どうしても影響が出る。影響をうける。けど、他人は、そもそも、きちがい兄貴のことがわからない。どうしてかというと、他人の家族は、きちがいではないからだ。多くの他人の家族は、きちがい兄貴タイプのきちがいではないからだ。実際に毎日いっしょに住んでいて、きちがい行動……きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてないんだよ。 きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてない俺は、「できた」の。できるんだよ。そんなにがんばらなくても、普通にできるんだよ。それが、きちがいヘビメタが鳴っていると、どれだけがんばっても、できないんだよ。「どれだけがんばってもできない」ということを他人は、わかってない。ヘビメタ騒音を過小評価してしまう。あるいは、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまう。これだって、やられてない他人は、自動的に無視するんだよ。九〇%以上の他人が、自動的に無視する。

宿題を例にして、話しているけど、宿題に成り立つことは、すべて、仕事にも成り立つ。継続して仕事をするということが、ヘビメタ騒音でできなくなった。そして、それは、ぼくにとって「必然」なのである。けど、やられてない他人は、その必然さが、まったくわからない。わかるわけがない。実際にやられてないから、わからない。影響の度合いがわかってない。「どれだけがんばってもできなくなる」という時系列的な経験がない。他人に……学校の他人に……「いいわけをしてさぼっている」と言われたときのくやしい経験もない。そりゃ、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないのだから、きちがい家族によるきちがい的な騒音から発生する問題のことはわからない。どうしてかというと、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないからだ。

これ、ヘビメタ騒音が一五(じゅうご)年目に鳴り終わったあともおなじなのである。どれだけのことが、繰り返されてきた、ほかの人にはわからない。はっきり言ってしまうと、「そんなのは関係がない。人間働くべきだから、(エイリさんも)働くべきだ」と言ったやつと「ヘビメタ騒音が鳴ってたから、宿題ができないなんて、いいわけだ」と言ったやつは、おなじレベルの発言をしているんだよ。ちなみに、リアルであったことがある言霊主義者は、みんな、おなじレベルの発言をしている。言霊主義者が、ヘビメタ騒音の影響について、ちゃんと、俺が言っていることを理解してくれたことはない。ぼくの経験の範囲だとないんだよ。

みんな、ヘビメタ騒音が与える不可避的な影響について、理解してない。まあ、わかるわけがないか。これは、経験がないとわからないタイプのことだ。けど、みんな、苦労したと言うのである。たしかに、苦労したのだろう。認める。けど、だから、ヘビメタ騒音の影響を無視しても、いい、ということにはならない。俺におけるヘビメタ騒音の影響は、その人における苦労の影響とはちがう。ちがうのだから、ちがう。「苦労した」という言葉で均一化、同質化して、「俺は苦労したのに、ちゃんとやっている」ということを言うな。「苦労した」という言葉で均一化、同質化したって、苦労の内容がちがうのだから、苦労の影響がちがうんだよ。

「自分だったら、ヘビメタ騒音があったとしても、影響をうけずに、毎日通勤して働くことが可能だ」という気持を、「俺だって苦労した」という言葉に、こめる人たちがいるんだよな。「俺だって苦労した」という文字列のなかには「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、通勤して働くことは可能だ」という文字列は含まれていないけど、「俺だって苦労した」そういう文字列のなかに「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という内容をふくめて、言うやつがいる。明言はされてなくても、こいつらの発現には「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という前提が成り立っている。

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きちがい兄貴の態度というのは、ほんとうに、きちがいと一緒に住んだことがない人にはわからないものだと思う。俺はちゃんと説明しているのに、きちがいと一緒に住んだことがない他人は、俺が言ってることを認めない。あるいは、そもそも理解できない。

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普通の人は、きちがい兄貴やきちがい親父の「ふんばり」がわからない。ほんとうに、きちがいなんだよ。きちがい的な意地でやり通したことは、きちがい兄貴やきちがい親父にとって「まったくやってないこと」なんだよ。自動的にそうなっているんだよ。

きちがい兄貴やきちがい親父がふんばるから、こっちがこまっているとする。けど、きちがい兄貴やきちがい親父に「おまえが、意地をはってやった行為の結果、こっちがこまっているんだぞ」ということをどれだけ言っても、きちがい兄貴やきちがい親父は理解しないのである。そんな高度なことがわかるなら、最初から、きちがい的な意地でふんばって、無視してやらない。 この、自分の行為に対する無責任性というのは、すさまじいものがある。現在進行形だからな。これ、普通の人じゃないんだよ。普通の人と、頭の構造がちがうんだよ。普通の人なら、絶対にわかることが、わからないんだよ。きちがい兄貴もきちがい親父も、無意識的なレベルではわかっているのかもしれないけど、意識的なレベルではわかってない。わかってないということは、やってないということなんだよ。きちがいまるだしで、あれだけ意地をはってやったことなのに、「自分はそんなことは一切合切やってない」という態度なんだぞ。この態度は、むかつく。

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きちがい的な無責任性というものが成り立っているのだけど、精神世界の人は、それを支持てしまうのである。きちがい兄貴やきちがい親父には、きちがい的な無責任性が成り立っている。そして、押し通してやってしまう。家族として一緒に住んでいると、どうしても、影響をうけてしまう。「影響をうけない」ということは、不可能なことなんだよ。特に親父の場合は、親権がある。それから、重複して書くけど、ある人とある人の家族ということについては、ほかの人というのは、「家族」として見なすんだよ。たとえば、俺ときちがい親父が家族であれば、ほかの人は、俺ときちがい親父が家族であるとみなすんだよ。これは、無視されることだけど、重要なことだ。これ、重要なことだということが、ほかの人にはわからない。ほかの人が「俺と兄」を家族だとみなしているということは、重要なことなんだよ。解釈に重要な影響をあたえるんだよ。ほかの人の「頭のなか」にできあがる、ほとんど無意識的な解釈に重要な影響をあたえる。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい兄貴がもっている問題がある無意識は完全にちがう。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい親父がもっている問題がある無意識は完全にちがう。他人は、問題がある(うちの)父と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの父の問題というのは、わかってない。うちの父がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。他人は、問題がある(うちの)兄と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの兄の問題というのは、わかってない。うちの兄がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。

2024年6月6日木曜日

「やめろ」「やめろ」と必死になって言っているのに、やめてくれなかった。

 きちがい兄貴の脳みそが、特殊だったので、特殊なことをやった。普通の人うちには、きちがい兄貴のような特殊な脳みその持ち主がいない。だから、特殊な脳みその持ち主にやられたことがない。特殊な脳みその持ち主がどういう振る舞いをするのか、普通の人は、経験的にわかってない。なので、誤解をする。結果について誤解をする。毎日やられるということについて、経験がないので、誤解をする。誤解をする。ところが、経験的にわかってないのだから、誤解をしているつもりがしょうじない。

普通の人は、経験してないので誤解をする。誤解をしているということも理解しない。「苦労」は誰だってあるので、「俺だって苦労をした」と言っておしまいだ。「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」「受け止め方をかえればいいんだ」「こだわらなければいいんだ」と言う。こいつら、ほんとうにわかってないなぁ。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴だったから、こんなことになっている。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、絶対に、あんなことはしないのだ。きちがいだからやった。そして、きちがいと一緒に住んだことがない普通の人が、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視する。無視して、勝手なことを言う。やられた人間には、できないことを、「できる」という前提でものを言う。けど、これも、「できる」と言う前提でものを考えているということについて、無頓着だ。言っているほうは無頓着だ。

いま、だるくて横になっていたのけど、ヘビメタ騒音の時間が、尋常じゃないのだ。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も含めて、ヘビメタ騒音が鳴っていると、一日が、ほんとうに、めちゃくちゃになる。これ、どれだけ言っても、経験がない人には、どういうふうに、めちゃくちゃになるのかわからない。めちゃくちゃになっていくのかわからない。わからなければ、好き勝手なことを言う。めちゃくちゃになるのに、めちゃくちゃにならないと思って、好き勝手なことを言う。こんなのは、屈辱だ。

兄貴が、ほんとうに、普通の人なら絶対にやられないことを、きちがい的な意地でやったから、こっちが被害をうけた。普通の人なら絶対にやらないことだ。思いつきもしないことだ。思いついてやったとしても、「やめてくれ」とあれだけしつこく言われれば、やめる。ところが、きちがいだから、まったくやめないし、こっちがこまっているということすら、寸分も考えない。そういう態度で鳴らしていた。

ヘビメタ騒音のことなんて、どれだけ、ほかの人に言ったってわからない。ほかの人は理解しない。やはり、経験したことしかわからない。

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「やめろ」「やめろ」と必死になって、俺が言っているのに……。きちがい兄貴が、それを無視して鳴らす。そういう時間が長かった。きちがい兄貴は、打撃をうけてないけど、俺のほうは、ものすごい打撃をうける。けど、よその人たちは、そんなのことは知らない。「騒音が鳴ってた」と言えば、騒音が鳴っていたんだなと思うけど、騒音が鳴っていたから、遅刻をしてもいいとは言わない。宿題ができなくてもいいとは言わない。どうにかつごうをつけてやってこい」と言われる。きちがいの壁というのがあって、きちがいが絶対の意地できかない。しかも、きちがい自身は、きいてやらなかったという意識がまったくない。あれ、ほんとう、意地になって、絶対にゆずらないでやっているのに、やったってやったつもりがない、ままなのだ。こんなのは、普通の人は理解できない。ほんとうは、普通の人だって、自分の部屋の横で、あれだけでかい音で、ずっと、何時間も何時間も、自分がきらいな音を鳴らされ続けたら、宿題なんてできなくなるのに、「騒音なんて鳴ってたって宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。どうしてもできないし、どうしてもできなくなるのに、それがわからない。俺が悪く言われる。きちがいヘビメタというのが「うち」のことだから、俺がひとしれず、できない状態になる。ひとしれず……。

*     *     *

「やめろ」「やめろ」と必死になって言っているのに、やめてくれなかった。 

*     *     *

やられてない人が、まったく、想像ができないところまで、影響がある。ほんとうにそうなのに、「人のせいにしている」とか「あにのせいにしている」とかと、ほんとうに、まったく、頭にくる。これ、挑発するつもりで言っているわけじゃないんだよな。まあ、そいつらがまったく想像ができないところまで、不可避的に影響をうける。兄貴の行動の影響をうける。兄貴が、意地になって、こっちの制止を無視してやった行動の影響をうける。うけるんだよ。そりゃ、実際に、うちのきちがい兄貴が横に住んでおらず、影響をうけなかった人は、まったく、影響をうけていないから、わからない。実際に影響をうけたことがないので、「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言っても、まちがっているとは、思っていない。まちがっている。影響をうけてないから、実際に影響をうけてないだけなのに、こいつらも、まったくわかってないなぁ。

どれだけ影響をうけないようにしようと思っても、影響をうける。これがわかってない、ぼんくらが、なにを言うか?

2024年6月5日水曜日

「一〇〇%詐欺」

 たとえば、ある日たおれて、救急車で運ばれた人が、じつは、糖尿病だったとする。言霊主義者は、言ったことが現実化すると信じているわけだから、この糖尿病患者は「わたしは糖尿病になる」と言ったから、糖尿病になったと解釈することになる。ところが、こういうありふれたことに関しては、言霊主義者は無視してしまうのである。ありふれたことというのは、現実度が高いことだ。現実に起こる確率が高いことだ。そして、もうひとつ、言霊主義者がこういう現象を無視してしまうのには、理由がある。それは、言わなかったのに、糖尿病になったということだ。「わたしは糖尿病になる」と過去において、言わなかったのに、言わなかったことが、現実化してしまった。「言ったことが現実化する」と言っているわけだから、「言わなかったこと」については、なにも言及してない。けど、言ったことが現実化するのであれば、糖尿病になる人は「わたしは糖尿病になる」と言ったはずなのだ。けど、言わなかった。自分が糖尿病になるなんてまったく思ってなかったので、「自分が糖尿病になる」ということは、事実、言わなかった。言わなかったことが現実化した。「言ったことが現実化する」という言霊理論は、まちがっている。

言霊理論だけではなく、思霊理論にもこのことがあてはまる。「自分が糖尿病になる」と思ったわけではないのだ。「自分が糖尿病になる」と思わなかったにもかかわらず、糖尿病になった。思わなかったことが現実化した。「思ったことが現実化した」のではなくて「思わなかったことが、現実化した」。思ったことが現実化するという理論はまちがっている。

さらに、自分が糖尿病になるということは、暗いことなのか、明るいことなのかというと、暗いことなのである。なので、「暗いことを考えると暗いことが起こる」という理論もまちがっている。「糖尿病になるという暗いことを考えなかった」にもかかわらず、糖尿病になった。 暗いことを考えなければ、暗いことは起こらない……という理論はまちがっている。暗いことを考えなくても、暗いことが起こることはある。「暗いことを考えると暗いことが起こる」とい理論はまちがっている。同様に、じつは、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という理論もまちがっている。明るいことを考えても、明るいことが起こらないことがある。なんかの病気にかかったとする。その病気がなおるという明るいことを考えても、明るいことが起こらない場合がある。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という理論は、まちがっている。

「一〇〇%詐欺」と言いたくなることがある。これは、何度も説明したことなのだけど、XをすればYになる」という言葉は、「Xをすれば、かならず、Yになる」という言葉と、意味的に等価なのである。だから、本当は、「XをすればYになる」という言葉は「Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」ということなのである。 「Xをした」にもかかわらず、「Yにならない」なんてことはないのである。「Xをすれば、一〇〇%かならず、Yになる」のである。もし、Xをしたのに、Yにならなかったら、「XをすればYになる」という理論がまちがっているということになる。命題として考えるなら、「XをすればYになる」という命題は偽なのである。

ところが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」というようなことを言う人は……つまり、思霊主義者は、こういうことをまったく考えてない。Xをすれば、Yになる場合もあるなら、XをすればYになると言えると思っているのだ。Xをしても、Yにならない場合もある。Xをしても、Yにならない場合もあるのに「Xをすれば、Yになる」と言って、なにも疑問を感じない。「Xをすれば、Yになる場合もある」ということと「Xをすれば、Yになる」ということが、思霊主義者のなかでは、イコールなのだ。「Xをすれば、Yになる場合もある」のだから、「Xをすれば、Yになる」と言えると思っているのだ。命題として考えるなら、「Xをすれば、Yになる」という命題は『真』であると考えているのだ。……思霊主義者は、そう考えている。思霊主義者の場合は、Xをしても、Yにならない場合があるとしても、「Xをすれば、Yになる」という命題は真であると、考えているのである。まったく、めちゃくちゃ。

本人のことなら、それでいいけど、ほかの人のことについて、まちがった前提でものを言うな。まちがった前提で、ものを言われると、こっちは、非常にくるしい気持ちになる。思霊者偽者は、条件というものを、すべて無視してしまうのだけど、条件はたいせつだ。たいせつなことをガン無視して、わかったようなことを言うな。ある条件をみたす人と、ある条件を満たさない人がいるとする。ある条件を満たす人が、Xをやった場合、Yになるとする。ある条件を満たさない人が、Xをやった場合、Yにはならないとする。その場合、思霊主義者のように、条件を無視して「Xをやった場合、Yになる」と言ってしまうと、条件を満たさない人が、非常にくるしい気持ちになるのだ。最初から、Yにならないことが決まっているからだ。Yにならないのである。じつは、条件を無視して、知ったような口をきくというのは、いいことじゃない。人によっては、言われたら、いやなことなんだよ。まあ、ある条件を満たさない人が、「XをすればYになる」と、思霊主義者に言われたとしても、そのある条件を満たさない人が、不愉快な気持にならない場合もある。けど、俺は、なる。俺が、ある条件を満たさない人だとして、ある条件を無視した思霊主義者が「XをすればYになる」と言ってきたら、俺は、むかつくね。俺は、不愉快な気持になるね。

2024年6月4日火曜日

無視のしかたが、尋常じゃないのだ

 きちがい兄貴の態度というのは、普通の人には理解できないものなのだ。だから、俺が、誤解される。そして、これが、信じられない話なのだけど……きちがい兄貴は、自分がやったことを理解してない。だから、そういう態度が、おかしいのだけど、当然、兄貴は、それに気がつかない。だから、「きちがい」と言ってるのだけど、事情を知らない人は、俺が勝手に「きちがい」と言っているだけだと思ってしまう。無視のしかたが、尋常じゃないのだ。これ、きちがい親父もおなじで、無視のしかたが、尋常じゃない。そうすると、ぼくが嘘を言っているように思われるのだ。ヘビメタ騒音の話だって、「そんなに鳴ってたら、親が注意するはずだ」「そんなのは、へんだ」「エイリさんが嘘を言っているにちがいがない」と言ったやつがいた。きちがい兄貴やきちがい親父は、きちがい的な意地でやったことに関しては、まったくまったく、無頓着なんだよ。この無頓着さは、やってないときの無頓着さなんだよ。きちがい的な意地でやっているのに、やってないつもりでいるんだよ。だから、きちがいなんだよ。

*     *     *

ほんとうに、迷惑行為をして、注意をすると、ブチ切れて夢中になってやって、やり終わったら、ぜんぜんやってないことになってしまうという、きちがい頭だ。そういう、都合がいいきちがい頭。本人にとってだけ、都合がいいんだよな。相手が「やめてくれ」と言ってきたということなんて、本人がやり通すことができれば、まったくおぼえてないよ。そういうことの繰り返しなんだよ。

2024年6月3日月曜日

「始点」と「終点」しかないのである

  たとえば、ある八歳の少年が、「プロ野球の選手になる」と言ったとする。そして、その少年が二〇歳になったとき、実際に「プロ野球の選手になった」とする。

そうすると、言霊主義者は「プロ野球の選手になる」と言ったから、「プロ野球の選手になった」のだと、主張するようになるのである。「言ったことが、現実化した」「言霊理論は正しい」と言霊主義者は思ってしまう。

けど、これは、言ったから現実化したわけではないのである。

「プロ野球の選手になる」と言った「始点」と、実際に「プロ野球の選手になった」という「終点」しか考えない。「始点」と「終点」しかないのである。「始点」と「終点」のあいだにあったことをすべて無視してしまうのである。

その少年が「プロ野球の選手になる」と言ったあと、プロ野球の選手になるべく、野球の練習をした。数々の試合をした。そこで、目覚ましい活躍をした。こういうことを、すべて無視して、「始点」と「終点」だけを考えて、「言ったから」そうなったと、アホなことを言うのが言霊主義者だ。

ほんとうに「言ったから」なのだろうかということを考えると、そうではない。

その少年がすぐれた身体能力をもっていたという条件……。家が比較的裕福で野球をやらせることができたという条件……。実際に、野球の大会に出て活躍したという事実……。

こういうものを、すべて無視して、ただ「言ったから」ということにしてしまう。

別のある八歳の少年が、「プロ野球の選手になる」と言ったとする。そして、結果的には、プロ野球の選手になれなかったとする。この場合は、言ったにもかかわらず、現実化しなかったのである。

そういう、現実化しなかったケースについても、言霊主義者は、ガン無視してしまう。こういう、ヌケヌケの理論を展開しているのが、言霊主義者だ。

「まるまるというプロ野球選手はこどものときに『プロ野球の選手になる』と言ったから、プロ野球の選手になったのだ」……というような説明を、言霊主義者はする。まちがっている。条件や、中間のプロセスをガン無視した、ヌケヌケの説明だ。

ちなみに、思霊主義者にもおなじことが成り立つ。

彼らが、「視点」と「終点」だけを考えて、言霊や思霊のせいにするから、あたかも、そうであるように、見えるだけだ。説得された人は、そういうふうに、考えてしまう。

けど、まちがっている。

まあ、だまされただけだよ。トリックがあるんだよ。いいかげん、気がつけ。

「一秒以内に一五歳になる」

  「いつか夢がかなうはずだから、努力をする」という考え方があるけど、言霊理論が正しいなら、努力をする必要なんてないのである。一秒以内に夢がかなうと言えば、夢が現実化するのである。待っている必要なんてない。今すぐに、夢がかなう。けど、これも、現実原理によって、破壊されているのである。だから、「努力をする」ということが必要になる。言霊主義者は気がついてないけど、言霊主義者自体が、言霊の力を否定している。言葉に言霊が宿っていて、その言霊が、「言ったことを現実化する」神秘的な力をもっているのであれば、努力をする必要なんてない。言えば言っただけで、すぐに、神秘的な力によって現実化されている。たとえば、八歳の少年が「一秒後にプロ野球の選手になる」と言えば、八歳の少年だろうが、プロ野球の選手になっているのである。そういう魔法のような力があると、言霊主義者は言っているのである。ところが、現実的なことになると、言霊主義者は、本人は気がつかないのだけど、主張をまげてしまう。「そんなことはあるわけがない」と思ってしまう。だから、「いつか」とか「そのうち」とかと言わなければならなくなるのである。何歳でプロ野球の選手になれるのか、ぼくは、野球に興味がまったくないので、知らないけど、かりに一五歳でプロ野球の選手になれるとする。その場合、八歳の少年は、一五歳になるまで待たなくてもいいのである。これも、「一秒以内に一五歳になる」と言えば、言霊の力によって言ったことが現実化するので、一秒以内に、一五歳になってしまうのである。「そんなことはありえない」と言うのであれば、もちろん、言霊の神秘的な力を否定しているということになる。あるいは、プロ野球選手に関する決まりが、かわって、突然、八歳でもプロ野球の選手になれるということになれば、八歳でも、プロ野球の選手になれる。その場合も、「一秒以内にプロ野球選手に関する決まりがかわって八歳でもプロ野球選手になれるようになる」とひとこと言えば、そうなるのである。超自然的な、神秘的な力によって、そうなるのであ。そうならないというのであれば、もちろん、言霊の神秘的な力を否定しているということになる。言霊主義者は、現実的なことになると、本人も気がつかないまま、言霊の神秘的な力を否定してしまう。そして、否定したことを、無視するのである。なので、言霊主義者は、別に、矛盾を感じない。

 

「妥協の産物」

 基本的なことを言ってしまえば、思霊主義者は「自分の夢」や「自分の希望」にかかわることに関しては「いつか」かなうものだと思っているのである。けど、これは、現実原理に負けた思考だ。現実原理に負けてなければ、思っただけで、「自分の夢」や「自分の希望が」すぐに、かなうはずなのである。かなうはずなのだけど、かなわない。なので、「いつか」かなうはずだという「妥協の産物」がうまれる。

早い話、言霊とおなじように「一秒以内に、これこれが現実化する」と思えば、思っただけで、現実するのである。現実化するはずなのである。ひとごとの場合は、決定事項として言うので、「現実する」ということになる。言霊にしろ思霊にしろ、断定しているのだから、決定事項なのである。けど、これも、現実原理に押し切られて、「一秒以内に現実化する」と思っても、現実化しないということを体験的に知っている。なので、これも、「妥協の産物」として「現実するはず」という強い推量になってしまう。ほんとうは、内面と外面(外界)は一致するのである。けど、それが、「一致するはずだ」ということになるのである。ほんとうは、すぐに、時間のずれを経験することなく、思ったら、その通りになるのである。けど、ならない。だから、「はずだ」ということになり、「いつかかなうはずだ」ということになってしまうのである。けど、このことについて、本人は無頓着なのである。自分が現実に打ち負かされて、「自分の思いが、すくに現実化する」ということをあきらめたということを意識的には、認めていない。認めていないから、「いつか」「現実化する」と思って生きているのである。自分の夢や自分の希望に関しては、こういうことが成り立つ。ほかの人のことについては、無慈悲にも、内面と外面が一致するので、なぐられた人は、なぐられると思ったからなぐられたのだという解釈が、思霊主義者の頭のなかに成り立ってしまうのである。なんの疑問もなく成り立ってしまうのである。だから、容赦なく、その人のせいにしてしまう。つまり、この場合は、なぐられた人のせいにしてしまう。

一秒以内と書いたけど、ほんとうは、(思霊主義者)本人が時間のズレを感じることがないレベルで、すぐに現実化するはずなのである。けど、すぐに、そうならないということを見てしまう。すぐに、そうならないということを認識してしまう。だから、断定が推量になる。けど、これは、そんなには意識しないことなのである。現実をちょっとでも離れると、断定になってしまう。自分のことについては「はずだ」という強い推量でごまかすのだけど、自分のことでなければ、「はずだ」という強い推量でごまかす必要が(最初から)ないので、断定してしまう。「そうだ」と断定してしまう。ほかの人のことについては、「そのほかの人が思ったからそうなったのだ」と断定してしまうのである。

ほんとうに、こまったやつらだ。

のび太の意思(内的な世界の想起)が、ジャイアンをして、のび太をなぐらせている

  思霊主義者も、自分の現実的な問題に関しては、現実的に考えるのである。

たとえば、ある思霊主義者が、のび太なら、「ジャイアンがなぐってくる」と考えるのである。ジャイアンが、ジャイアンの意思にしたがって、自分をなぐるという行動をすると考えるのである。

ところが、ある思霊主義者が、のび太ではない場合は、のび太が「ジャイアンがなぐってくる」と思ったから、ジャイアンがのび太をなぐると考えてしまうのである。

自分のことでなければ、のび太の意思(内的な世界の想起)が、ジャイアンをして、のび太をなぐらせていると考えてしまうのだ。

「のび太は、内的な世界で想起しただけで、外的な世界のすべてを自分が想起したように動かせる」と思霊主義者は考えているのだ。

これが、思霊主義者の正体だ。

*     *     *

自分の現実的なことに関しては、幼児的万能感が後退して、現実的に考えるのである。しかし、「ひとごと」だと、幼児的万能感が前進して、幼児的万能感に支配された思考になるのである。

また、自分の非現実的なことに関しても、幼児的万能感が前進して、幼児的万能感に支配された思考になるのである。自分の非現実的なことというのは、たとえば、「夢」や「希望」のことだ。

「夢」や「希望」について考えるときは、幼児的万能感に支配された思考になる。

「それ」がひとごとであったとしても、自分の夢や自分の希望に一致したものであれば、幼児的万能感に支配された思考になる。

ようするに、自分も他人も関係していることで、「自分の夢」や「自分の希望」にかかわることであれば、幼児的万能感に支配された思考になる。

なので、自分も他人も関係していることで、「自分の夢」や「自分の希望」にかかわることであれば、他人が「暗いこと」を考えるのは、ゆるせないことになるのである。


思霊主義者は、自分の内的な世界と、外的な世界が、完全に一致するはずだと考えている

 

 自分の内側の世界を内的な世界、自分の外側にある世界を外的な世界というとする。この場合、とりあえず、内的な世界に関係なく、外側にある世界があるのである。自分の内的な世界にあわせて、外側の世界がひろがっているわけではないのである。ところが、思霊主義者は、自分の内的な世界と、外的な世界が、完全に一致するはずだと考えているのである。あるいは、なんとなく、そういうふうに思っている。だから、内的な世界をかえれば、それにあわせて、外的な世界がかわるはずだと前提して考えてしまうのである。ところが、実際には、生まれ落ちたときから、外的な世界は、外的な世界として存在しているのである。これが、徹底的に、わかってない。思霊主義者は、なんとなく、わかっているだけだ。だから、自分の現実的な問題に関しては、「内的な世界とは関係なく、外的な世界がある」ということがわかっているのだけど、ひとごとになると、「内的な世界にあわせて、外的な世界がある」と思ってしまうのである。

もう、説明したので簡単に説明するけど、ジャイアントのび太がいるとする。のび太にとってジャイアンというのは、外的な世界に存在する存在なのである。のび太のジャイアンに関するイメージは、外的な世界に存在するジャイアンイメージなのである。ジャイアンが、のび太をなぐった場合、ジャイアンのなかに、のび太をなぐりたくなる理由があるから、のび太をなぐるのである。ジャイアンが、のび太をなぐるまえは、ジャイアンが、理不尽な理由で、のび太をなぐるということは、のび太は考えていないのである。なぐったあと、「また、なぐられるのではないか」という予想が成り立つ。「マイナスの赤ちゃん」のところで話したけど、親が子供を虐待する場合もおなじだ。「暗いことを考えると暗いことが起こる」のではなくて、すでに、暗いことが起こったあとなのである。ジャイアンは、ジャイアンの性格から、ある種のこころの構えをもっている。ジャイアンは、ジャイアンの脳みそをもっている。ジャイアンの性格傾向がある。ジャイアンが、ジャイアンの脳みそにしたがって、行動しているのである。ジャイアンが、時系列的に、何回ものび太をなぐっていれば、のび太は、「またジャイアンに、なぐられるのではないか」と思うようになるのである。ここで、思霊主義者は「またジャイアンになぐられるのではないかと思うから、なぐられる」と言い出すのである。のび太が、「またジャイアンがなぐってくる」と思うから、その思霊のすごい力によって、ジャイアンがのび太をなぐるというのである。この場合、のび太が、ジャイアンはなぐってこない」と思えば、なぐってこなくなるはずなのである。ところが、のび太が、「ジャイアンはなぐってこない」とどれだけ思っても、ジャイアンに変化がなければ、なぐってくるのである。ジャイアンのこころの構えがかわらないのであれば、「何かむしゃくしゃする」と思っているときに、のび太を見かけたら、のび太をなぐるのである。これは、ジャイアンが、ジャイアンの脳みそで考えて、やっていることだ。のび太がやっていることではない。のび太が、ジャイアンをあやつって、ジャイアンに自分をなぐらせているわけではない。けど、思霊主義者言っていることというのは、そういうことなのである。のび太の内的な世界が、外的な世界に直接影響をあたえるから、ジャイアンがのび太をなぐってくるのである。言っておくけど、まちがいだ。



思霊主義者はまったく感じてないけど、「あおり行為」だ

 たくさんの悪い条件が成り立っている状態で、「明るいこと」を考えたって、明るいことなんて起こるわけがないのである。たくさんの悪い条件によって、日常茶飯事で、悪いことが起こる。

めちゃくちゃな状態なんだよ。

そのめちゃくちゃな状態というのは、ほんとうに多数の悪い条件によって成り立っている。条件を無視してはいけない。

条件が、トラブルをうみだしているのだから、条件がかわらなければ、どれだけ、本人が「明るいこと」を考えたって、明るいことなんて起きない。

そして、かりに、ランダムに「明るいこと」がたまたまおこったとしても、その「明るいこと」というのが、暗い条件によって、押しつぶされてしまうのだ。基本的に、どれだけあがいても、条件がかわらないと、自動的に、ものすごくたくさんの悪いことが発生する。

その悪いことは、条件によって、自動的に出てくる「悪いこと」だ。きちがい家族とのトラブルだって、きちがい家族という条件がうみだしていることなんだよ。その場合、きちがい家族がかわるから、きちがい家族から、現実的な意味で、距離をとれるようにしなければ、問題は解決しない。条件によって、きちがい家族から、現実的な意味で、距離をとれない場合があるのである。

だから、どれだけ、本人が「明かること」「良いこと」を考えていても、それを無視して、トラブルが発生し続ける。腹がたつことが起こりまくる。不愉快なことが起こりまくる。

けど、思霊主義者は、すべての条件をガン無視して「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる」というのである。これは、冒涜だ。ゆるせない。

これだと、まるで、本人が暗いことを考えたから、暗いことが起こっているということになる。本人が暗いことを考える場合は、すでに、トラブルが発生しているのである。

すでに、悪い条件が成り立っていて、トラブルが発生しているのである。トラブルが発生したあとに、不愉快になっているのである。時間的な意味でゼロ地点を考えるなら、悪いことを考えてなくても、自動的に、悪いことが発生するのである。

ところが、思霊主義者は、それもふくめて、本人が悪いことを考えたから、その悪いことが発生していると、本人の「せいに」してしまう。こんなの、ケンカをうっているようなものだ。「いたぶって楽しんでいる」とすら言える。

これは、思霊主義者はまったく感じてないけど、「あおり行為」だ。

本人のせいじゃないことについて、本人のせいにしている。本人のせいだと決めつけている。

こんな失礼なことをしているのに、「いいことをしている」つもりなのだ。こういうのも、トラブルをうみだすもとになる。

時間的な継続を考えるなら、そりゃ、悪い条件は、継続的に成り立っいて、時間的なゼロ地点で発生したあとは、それについて、「暗いことを考えるようになるので」暗いことを考えているような状態になる。

ようするに、本人が暗いことを考えている状態になるのである。

けど、じゃあ、本人が暗いことを考えているから、暗いことが起こるのかというとそうではないのである。本人が、暗いことを考えなくても、事実、暗いことが起こった。

そして、基本的に暗いことをうみだしたやつの構えが、そういう構えなのだから、ゼロ地点で起こったような暗いことが、かなりの高確率で、続けて起こるようになっているのである。

だから、予想としての「暗いこと」と現実に(時系列的にあとの世界で起こる)暗いことが一致してしまう。思霊主義者は、あとだし思考をしているのて、「そらみたことか」「わたしの言っていることがあっている」と思ってしまうのである。しかし、これも勘違いだ。

思霊主義者は、自分が勘違いしていることに、気がつかないと思う。思霊主義者は、まちがった推論をしているということに気がつかないと思う。

そして、この文章を思霊主義者が読んでも、理解できないのではないかと思う。思霊主義者の反応は、「なんだこんなもの」「なんだこついは」というような暗いものだと思う。明るいものじゃないんじゃないかな……と思う。

2024年6月2日日曜日

「希望」が精神とからだをボロボロにするソフトドラックなんだから、世も末だ

 これ、言ってしまってはまずいのかもしれないけど、おまじないのような方法は、ソフトドラックなんだよ。ソフトドラックだから、健康被害がないかというと、そうではないのだ。ソフトドラックでも健康被害がある。これ、「希望」がソフトドラックで、健康被害をもたらす。副作用があるかというと、ある。精神がどんどんボロボロになっていく。「希望」が精神とからだをボロボロにするソフトドラックなんだから、世も末だ。きれいごとのおまじないのような方法。精神世界のおまじないのような方法。これらの方法が、条件が極端に悪い人を、自殺に追い込む。これが正しい。ぜんぜんすくいがない。

「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」なんて言っている人は、どれだけ、条件が悪い人を追い込んでいるか、まるでわかってない。自分の行為でくるしむ人がいるということがわかってないなぁ。条件を無視するな。

*     *     *

もちろん、すべての「希望」について語っているわけではなくて、精神世界風の「希望」やおまじないのような「希望」について語っているわけだ。「努力をすれば成功する」ということについて、語ってきたけど、「努力をすれば成功する」といったばあいの「努力」と結びついた「希望」について語っているわけだ。「努力をすれば成功する」という文のどこがまちがっているか、理論的に説明することがむずかしかった。これ、トリックがある。けど、言霊主義者に、言霊理論のまちがいを説明しても、理解してくれないように、普通の人に「努力をすれば成功する」という文のまちがいを説明しても、理解してくれない……場合が多いと思うよ。

この椅子取りゲームは、参加者がみんな不幸になる椅子取りゲームなのである

 希望をもつことは、たいせつなことなのだけど、世にあふれる「おまじない」のような解決方法はまったく役に立たない。これ、目のまえにニンジンをぶら下げられた馬とおなじなのである。脳内に、希望だけはある。けど、実際の条件は最悪。あがけばあがくほど、実際の条件が悪くなる。けど、きれいごとだけは、ほざかれる。もともと、条件がちがう人が、「こういうふうに考えればいい」と、おまじないのようなことを言う。「おまじないがきく」という考え方がはやっているのはよくないことだ。条件に目をむけない。所与の条件のちがい……これが重要なのに、所与の条件のちがいは、ガン無視だ。これだと、条件が悪い人が、損をすることになる。条件が悪い人が、無理難題をおしつけられ、自殺に追い込まれる。希望だけはあるんだよ。そりゃ、条件が悪い人だって、脳内に、「こうなればいい」という考えがある。そういう気持はあるだろう。条件が悪いから、おまじないのような解決方法にたよらなければならなくなる。条件が悪いので、ほかの人にはできる現実的な解決方法を試すことができないのである。現実的な解決方法は、じつは、条件によってちがう。人それぞれに条件があり、条件によって、現実的におこなえる解決方法にちがいがある。ところが、そういうことは、無視して、「だれにでもできる」というおまじないのような方法をこころみることが奨励?されている。けど、条件がいい人が、おまじないのような方法を使うと、成功して、条件が悪い人がおまじないのような方法を使うと失敗するのである。おまじないのような方法は、フェイクで関係がない。実際には、条件が、成功をもたらし、条件が失敗をもたらす。けど、条件がいい人は、フェイクで、カネをもうけることができる。これも、条件なんだよ。詐欺的なことでカネをもうけることができるというのも、それをささえるような条件がある。カネの流れとしては、条件が悪い人から、条件がいい人に流れる。なので、もっと差ができてしまうのである。条件が悪いやつが、条件がいいやつに、だまされる。「実際には、条件が、成功をもたらし」と書いたけど、考え方としては、成功をたらすように見えるだけだ。そして、情報商材詐欺とおなじ方法で、金銭的には、実際に、成功する。条件がいいやつが金銭的には、実際に、成功する。

*     *     *

実際に、希望は必要なのだけど、「しくみ」に目をむけないとだまされ続けることになるので、「しくみ」に目をむけたほうがいい。ほんとうの希望というのはしくみをかえることにある。個体的にはどうだか知らないけど、全体的には、しくみをかえなければ、どうにもならないところまできている。かりに、ある個体が、希望をもって生きていたら、ちょっとは、改善できたとしよう。まあ、それでも、最終的には、この社会だと、悪い終わり方で終わるのだけど……。 ともかく、ある個体が希望をもってがんばったら、出世することができたというようなことは、ある。それなら、それでいいのかというと、よくはないのだ。その個体ではない個体が、失敗することになる。まあ、椅子取りゲームみたいなものなのだけど、この椅子取りゲームは、参加者がみんな不幸になる椅子取りゲームなのである。しあわせになるのは?椅子取りゲームの運営者側だ。椅子取りゲームに参加している人は、みんな、けっきょく、どれだけ努力しても不幸になる。努力しなくても不幸になるし、努力をしても不幸になる椅子取りゲームなんだよ。

椅子にもグレードがあるとする。いい椅子に座った人が、おまじないのような方法を、悪い椅子に座っている人や、椅子に座ってない人に言えば、社会全体がよくなるかというと、ならない。総体的に優位な人が、きれいごとを言っても、よくならない。相対的に優位である人が、「こうすれば希望がかなう」という方法を、相対的に劣位である人に教えてあげても、社会はよくならない。基本的なことを言ってしまうと、相対的に優位である人が、「こうすれば希望がかなう」という方法を、相対的に劣位である人に教えてあげた場合、相対的にである人は、もっともっと、不幸になるのである。そういうしくみが成り立っている。いいかげん、気がつけ。

問題

 問題なのは、引き寄せ思考や言霊思考や思霊思考や努力論や自己責任論が、すべて、すべて、社会的な条件が悪い人に、負担をかけるものになるということだ。これ、世の中には、引き寄せ主義者や、言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者が多いので、条件が悪い人は、常に、攻撃をうけるのである。誰からの攻撃かというと、引き寄せ主義者や、言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者からの攻撃だ。そして、幼児的万能感は、だれにでもあるので、「やってみる」のだけど、多くの場合は、失敗することになる。これらの理論には、基本的に無理がある。いままで見てきたように、詐欺なのだ。罠が仕掛けられている。そして、引き寄せ主義者や、言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、主観として、善意で、人に、それらのことを説明しているという問題もある。これ、悪いことをしているつもりがないんだよね。実際には、無理があることなんだよ。けど、無理があることだと思ってない。そりゃ、引き寄せ主義者や、言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者にとっては、それらは「確かなこと」なので、だまそうとしているとも、思わないだろう。自分をだましてしまっているので、だましているつもりがまったくない。

そういうものすごく大事な条件を、引き寄せ主義者は、無視してしまっている。

 たとえば、ほしい本があるとする。ほしい本は、もう、絶版で売ってないとする。けど、中古市場には、あるかもしれないと思って、いろいろなところを探す。たとえば、アマゾンマーケットプレイスとかヤフーオークションなどを探したとする。ずっと、探していたら、ヤフーオークションにその本が出たので、買ったとする。これは、探して買ったということだ。けど、「引き寄せ」ということにこだわっていると、あたかも、自分が引き寄せたように思えるのだ。これは、探すという行為の結果だ。まず、自分自身に、普通の思考が成り立っている。これは、脳の病気になるとできくなることかもしれない。普通の生活をしているということも、じつは、重要な条件だ。引き寄せとか言うまえに、じつは、自分が普通の生活をしているという重要な条件が成り立っている。そして、本を買えるだけのカネがある。そして、中古の本を売っている人たちがいる。中古の本を売っている人たちが集まるサイトがある。全部、物理的に成り立っているのだ。そして、「探す」という行為をした。意識の集中がある。こういうのも、全部、じつは物理法則に従って成り立っている。さまざまな条件が成り立って、「探す」という行為ができるのだ。自分が自主的に探したのだから、引き寄せもくそもなくて、ただ単に探したから手に入ったと言えることだ。けど、引き寄せ思考をしていれば、「引き寄せは可能だ」ということになる。なので、これは、「見え方」の問題になる。引き寄せというパラダイムを採用している人には「自分が引き寄せたように、見える」のである。ぼくから見ると、これは、引き寄せたのではなくて、探して、見つけて買っただけだ。そして、それを成り立たせる条件がいろいろと成り立っているのである。「引き寄せ」にこだわっている人は、じつは、条件を無視してしまう。彼らには、起点としての「ほしいと思った」ということと、結果として手に入れたということしかない。その中間をうめるのものは、ただ単に「引き寄せ能力」だけであり、ほかの条件はまったく関係がないのである。けど、無視している条件が重要なんだよ。無視している条件のひとつでも欠けていたら、じつは、どれだけ「引き寄せること」を願っていても、手に入れることができない。そういうものすごく大事な条件を、引き寄せ主義者は、無視してしまっている。そして、無視しているということに気がつかない。オークションだって、物理的な法則が成り立っているんだよ。そしてまあ、社会的なしくみも成り立っている。けど、社会的なしくみが成り立つにはまず、物理法則が成り立っていないとだめなのだ。なので、どれだけ「引き寄せ」にこだわっていたとしても、物理的な条件にしがって、本を手に入れたということになる。それこそ、物理的な条件や、その上に成り立つ社会的な条件にしたがって、本を手に入れたのに、それらのことは、無視して、「引き寄せた」と思っているのが引き寄せ主義者だ。言霊主義者や、思霊主義者のことについて語るときも語ったけど、ほんとうは、物理的な法則に支えられている条件を、すべて無視して、「自分の気持ち」と「結果だけ」を考えているのだ。中間のプロセス……実際に自分がおこなった中間のプロセスを、すべて無視してしまう。自分がやったことというのは、全部、物理法則にささえられていることなんだよ。無視するな。

2024年6月1日土曜日

だますほうの、新たなキャッシュポイント

 たとえば、「受け取る器じゃない」とか「その段階にたっしていないからダメなんだ」ということを、セミナー講師が言った場合、セミナー受講者はどう感じるか。「自分の器を大きくするにはどうしたらいいか」とか「その段階にたっするにはどうしたらいいか」と感じてしまうのだ。えっーーと。セミナー講師のほうが、格上で、セミナー受講者のほうが格下なわけ。「引き寄せが起こらないのは、精神レベルがその段階にたっしてないからだ」とセミナー講師が言って、セミナー受講者がそれをうけいれた場合、セミナー講師のほうには、また、キャッシュポイントがうまれるのである。ようするに、「精神レベルを上げる方法」でかせぐことができる。けど、引き寄せることは誰にでもできるはずだし、その方法を使えば、引き寄せることができるはずなのである。これ、じつは一〇〇%引き寄せることができるはずなのだ。引き寄せ能力が、人に存在するなら……。

言霊でも、説明したけど、「言えば、言ったことが現実化する」のだから、一回でも言えば、現実化しなければおかしいのである。現実化しなかった場合は、「言えば、言ったことが現実化する」という理論がおかしいということに、気がつかなければならない。ところが、「言い方が悪かった」ということにされてしまうのである。

もうひとつ、いいわけがある。それは、「回数がたりない」ということだ。けど、言うか言わないかの二値しかないんだよ。回数は関係がない。だから、「現実化するまで、何回でも言えばいい」と言われたら、そういうふうに言いかえせばいい。これ、詐欺なんだよ。トリックなんだよ。

引き寄せの場合も、セミナー受講者が「引き寄せられなかった場合」について、おなじようなことが発生する。ようするに、失敗したセミナー受講者のやり方がへたくそだということになってしまう。そうなると、「やり方」をめぐって、カネをかせぐことができるのである。もちろん、セミナー講師は金をかせぐことができる。セミナー受講者は、カネをうしなうのである。たいせつなカネを、うしなってしまう。「引き寄せ」なんていう、どうしようもない考え方にとりつかれたために、たいせつなカネをうしなってしまうのである。セミナー講師は、カネを引き寄せることができるけど、セミナー受講者は、カネをうしなう。

「うまくいかなかった」「現実化しなかった」「引き寄せられなかった」……こういうことが、だますほうの、新たなキャッシュポイントになるのである。いいかげん、気がつけ。

 

「こだわってるからダメなんだ」

 いま、横で工事をやっているから、うるさい音がするのだけど、きちがいヘビメタ騒音とはちがうのだよ。きちがいヘビメタ騒音とは……。あと、ヘビメタが好きな人は、ぼくがヘビメタ騒音といっていることろを、自分が一番嫌いな音の騒音と言いかえて読んでくれ。

あと、三キロと一〇三キロのたとえで言いたいことはまだあった。「重さに意識を集中させてるからダメなんだ」とか「重さにこだわるからダメなんだ」と、三キロ背負っているやつが、一〇三キロ背負っているやつに言うんだよ。こういうことだって、一〇三キロ背負っている状態で、聴かなければならなくなる。これ、どれだけ、「重さがちがう」と言ったって、三キロ背負っている人は、「俺だって重い」と言っておしまいだ。事実、「思い」と思っているわけだし、そういうことを言ってる人の脳内では、それが絶対に正しいのである。実際に重いわけだから。けど、一〇三キロの重さを経験してないのも事実なんだよ。現に、一〇三キロ背負ってないのも事実なんだよ。一〇三キロの人が、「こだわってるからダメなんだ」という言い方は、一〇三キロ背負っている人に、さらに、負担をあたえるんだよ。ところが、「こだわっているからダメなんだ」と言う人は、助言をしているつもりなのだ。いいことを言っているつもりなのだ。こんなのない。自分は、こだわらないいい人で、相手は、こだわるわるい人なのだ。自分は、こだわらないようにしようと思えば、こだわらないようにできるすぐれた人間で、相手は、こだわらないようにしようと思っても、こだわり続けるダメな人間か、あるいは、相手は、こだわらないようにしようと思わない、ダメな人間なのだ。

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きちがいヘビメタ騒音というのは、そういう騒音なのだ。バカに説教される騒音なのだ。

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ともかく、ヘビメタ騒音が続いている限り、よその人から、こういうふうにバカにされる。格下に見られる。勝手に、説教をされる身分になってしまうのだ。そういうのもつらかったな。だから、それがいやで、きちがい兄貴に、直接「ならすな」「こまるから、鳴らすな」と、言いに行くわけだけど、きちがい兄貴が、きちがいバリアーで、認めないのだ。このきちがいバリアーで認めないということが、これまた、三キロしか背負ってない凡人にはわからないのだ。けっきょく、きちがいと一緒に住んでいない人には、きちがいの行動がわからない。きちがいと一緒に住んでいない人には、きちがいの感覚がわからない。これ、ほんとうに、矛盾だらけのひどい感覚なのだけど、普通の人には、そういう矛盾だらけのひどい感覚をもっている人がいるということがわからない。普通の人の感覚だと、「そんな人はいない」「そんなことはない」とはっきり言えることなのだ。「やったってやってない」……そんなことがあるはずがない。「起きているときに、自分が意地になってやったことなのに、まったくやったという認識がない状態で生きている」……そんなことはない……と……そう思う。そう思って、誤解をするわけだよ。だから、「重さのちがい」が根本的に、わからないだけではなくて、「重さのちがいをもたらす、きちがい的な家族の感覚や行動についても」わからないのである。普通の人はわからないのである。そして、普通のうちには、きちがい家族がいないので、きちがい家族がもたらす問題は最初から存在しないのである。なので、三キロと、一〇三キロのちがいが出てくる。けど、最初からないものを、どうやって、感覚・知覚するのだ? どうやって認識するのだ?

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強烈に不利なのに、「そんなのは関係がない」と言われる。そりゃ、ハンディがないほうには、ほんとうに、ハンディがないのである。きちがい家族がうみだす特殊なハンディがない普通の人には、きちがい家族がうみだす特殊なハンディが、実際にないのである。ないので、「関係がない」のである。けど、こっちはあるのである。けど、きちがい家族がうみだす特殊なハンディがない普通の人は、ほんとうにこれまた、認めないのである。頑固に無視するのである。「自分には(ないから)関係」がないと、「関係がない」の区別がついてないのではないか。「自分には関係がない」から「相手にも関係がない」ことだと、ごく自然にまちがった思考をしているのではないか?

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。