たとえばの話だけど「できると言えばできる」「できないと言うから、できない」という人に、賛成してしまった場合、どういうことになるかと言うと、「やらなければならない」ことになるのだ。
「そうですね」とひとこと言ってしまうと、言ってみれば「やる義務」がしょうじてしまう。こういう話なんだよ。
ところが、きちがいヘビメタ騒音で「できない」体になったので、できない。この場合は、「できない」というしかない。相手は、「できると言えばできる」と言うわけだけど、「できない」とこたえるしかない。
手短に言うと、こういうことを言ってくる人たちは、きちがい家族が鳴らす、きちがい的な騒音の効果をあまく見ている。それは、やられたことがないから、あまく見ているだけなのだけど、あまく見ていることにはかわりがない。
この人たちは「ヘビメタ騒音で、できない」ということや、「ヘビメタ騒音でできなくなった」ということは、認めない。
本人だって、ほんとうは、きちがい家族による騒音にたたられたら、できなくなるのに、できなくなるとは思わないのだ。そうなると、ぼくがとても弱い側にたたされることになる。
「できると言えばできる」→「そうですね」→時間経過→「どうしてやらないんだ」→こたえに窮する。だから、最初から「できないものはできない」と言うしかない。そうなると、「できると言えばできる」→「できないものはできない」→「できないと言うからできない。できると言えばできる」→「できないものはできない」ということの繰り返しになる。
もう、最初から決まっている。
「できないこと」はあきらかなんだよ。
それは、相手……言霊的なことを言う人が、俺とおなじ経験をすれば「これは無理だ」とわかることなんだよ。
けど、言霊的なことを言う人には、俺とおなじ経験がない。そして、俺とおなじ経験をするような環境がない。だって、その人には、きちがい家族がいないのだからなぁ。
けど、「騒音」ぐらいはあるので、「どんだけ騒音が鳴ってたって、まるまるはできる」ということを言う。
ところが、騒音が鳴っていた生活をし続けた結果、できなくなった。これは、短期間的なものと、長期間的なものがある。
たとえば、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいはできる」と鳴らされてない人は、言う。
けど、実際に、鳴っていると、できない。
そして、そういうことが七年以上、つみかさなると、通勤することや、働くことができなくなる。通学することもできなくなる。
けど、実際に七年以上、経験したことがない人は……きちがい家族による騒音生活を経験したことがない人は「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤できる」「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、仕事はできる」「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通学できる」と言うわけだよ。
そして、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言う。
だから、こういう不愉快なコミュニケーションが繰り返されることになる。このもとをつくったきちがい兄貴なんて、無関心だよ。どれだけ言ったって、自分がやっていることでそういうことがしょうじているということがわからない。そのときは、ヘビメタを思いっきり鳴らしたいので、ヘビメタを思いっきり鳴らせなくなるようなことは、どれだけ、日本語がわかれば、わかるようなことでも、まったく日本語がわからないような感じで、認めない。
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「できると言えばできる」と言っている人は、まず、「わたしは瞬間移動することができる」と言って、瞬間移動してから、ものを言ってくれ。一倍速で経験したことがないからわからないだろうけど、七年間のきちがい騒音生活のあとは、瞬間移動ができないように、通勤通学ができないようになるんだよ。まあ、経験したことがないからわからないと思うけど……。
* * *
言霊主義者に「死人をよみがえらせてみろ」とか「瞬間移動してみろ」と言ったら、言霊主義者はどう言うか? 「そんなことはできるわけがない」と言うだろう。
そのとき、ぼくが「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言ったとする。
どういう気持になるか、ちょっとは、わかるか?