まあ、たとえばの話だけど、ヘビメタ騒音の影響を無視して「働くべきだ」と言う人と、つきあえるかというと、つきあえない。
つきあえばいいじゃないかと思うかもしれないけど、ヘビメタ騒音で働けなくなっている。
だから、働かない状態が続く。会うたびに「働くべきだ」と言われる状態が続くことになる。
だから、働くか、つきあいを切るしかない。
働けないのだから、つきあいを切るしかない。まあ、つきあいを切らずに、働かない状態で、会うという、選択肢も、選択肢としてはある。それは、否定しない。けど、楽しいかな? そんな状態であっていて、楽しいかな?
楽しくないんじゃないかな。こんな、針の筵(むしろ)の上に座っているような状態で楽しいか?
「働くべきだ」と説教されて、楽しいか? 働けないと、言っているのに、相手は、「働くべきだ」と言ってくる。こいつ、ぜんぜん、理解してないだろ。
こいつ、理解しているといえるの?
いえないよ。
何度も、こっちは「働けない」「できない」「ヘビメタ騒音で働けないからだになった」と言っているのに、それは、全否定か? 全否定する人と、一緒にいて、楽しいかな? 楽しいわけないだろ。なんで、これがわからないかな? 決まっていることなんだよ。それは、きちがいヘビメタ騒音の数万時間、で、決まったことなんだよ。否定するなよ。経験した俺が「無理だ」と判断しているんだよ。数千日にわたって経験した俺が「できない」と判断しているんだよ。これは、「瞬間移動ができない」ということと、ほぼおなじだ。ヘビメタ騒音がなければ、働けた。働けるなら、働いているのだから、「言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」とか「できないというからできないのだ」ということに、特に、反論する理由がないんだよ。ほんとうは、ちがうと思っていても「そうですね」と話をあわせても、問題が生じない。けど、できないからだになってしまったら「そうですね」と話をあわせてしまうと、問題がしょうじる。一度でも、「そうですね」と話をあわせてしまうと、問題がしょうじる。たった、一回でも駄目なんだよ。一回でも駄目。「そうですね」と言ってしまうと、「そうですねと言っただろ」と、相手が言うことになる。「そうですねと言ったのに、どうしてやらないんだ」と、相手が言うことになる。「そうですね」と言ってしまったのが事実だと、これは、やばいんだよ。「そうですね」と言ってしまったのだから、「そうですね」と言ったということに関しては、相手が正しいということになる。
そして、「そうですね」と言ったのだから、やるべきだということになる。
ところが、「そうですね」と言ったあとも、きちがいヘビメタ騒音で「できない」状態というのは、かわらない。まったくまったく、まったく、かわらない。
だから、ぼくが、追いつめられることになる。
だから、最初から、絶対に、「そうですね」と言ってはいけないということになる。わかるかな?
きちがいヘビメタ騒音にやられて「できない」状態にならないと、わからないんだよな。けど、そういう人が「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と言う。
これも、ヘビメタ騒音なんて、俺が経験した騒音とおなじくらいの騒音だろということなのだ。これも、ヘビメタ騒音関係の苦労は、俺が経験した苦労とおなじぐらいの苦労なんだろということなのだ。ところが、ちがう。ちがうんだよ。
これ、相手は「ちがう」ということを、認めない。認めないなら、相手のなかでは、同等の騒音、同等の苦労ということになる。自分がげんに働いているのだから、働けるということになる。同等の騒音を経験しても、同等の苦労を経験しても、働けるということになる。
けど、ちがう。
同等の騒音じゃない。同等の苦労じゃない。だから、まあ、こういうところを、ぐるぐるとまわることになるんだよ。相手に、直接このように説明したって、相手は認めないのだから。
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ちなみに、ぼくに「できると言えばできる」と言ったやつが、定年退職する前に、退職して無職になっている。なんだ? おまえ? できると言えばできるんだろ。人間働くべきなんだろ。働けよ。なんで無職なんだよ? おかしいだろ。
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ちなみに、たとえば、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」という教えをもった宗教があるとする。けど、「できると言えばできる」という嘘理論を言い、「できない」と言っている相手に「できる」ということを言うのはどうなのかな? 自分がやられて、いやなことは人にしないことにしているんだろ。精神世界の人はそうだ。まあ、その宗教は、「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」という教えをもっているとする。「できると言えばできる」という理論自体がまちがっていて、「できると言っても、できない」と相手が言っているのだから、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」ということをまもって、言わないようにする選択肢はないのか?
定年退職する前に退職したやつは、それなりに理由があって、退職したんだろ。「できると言ってもできない」ということを経験したはずだ。なんで人に言うときだけ「できると言えばできる」なんてことを狂信している状態になるのか? おかしいとは思わないか?
ともかく、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」なんて言ってたって、この通りだ。「できないと言っているだろ」「いいかげんにしろ」と相手が言ってたって、「人は働くべきだから、働くべきだ」ということを言ったりする。いやがっている。相手がいやがっていることを、頑固にしている。
だから、教義として、いいことを言っていたとしても、実際には、いいことにならないということが、現実の世界では、多発するんだよ。そういうことについて、もうちょっと、考えたほうがいいよ。
表面的にきれいごとを言ってたとしても、いくらでも「すりかえる」ことができるんだよ。悪い状態に誘導することが、できるのぉ!! ちょっとは、考えたほうがいい。