2024年5月30日木曜日

「できるのに、できないなんて言うのは、あまえだ」

  たとえばの話なのだけど、ぎっくり腰になったら、重いものを運ぶような仕事はできないと思う。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、運送業で重いものを運ぶ作業を含んでいる仕事をしているとする。そのAさんが、まあ、いわゆるぎっくり腰になったとする。そして、Aさんが、「ぎっくり腰をやってしまったら、もう、この仕事はできない」と判断したとする。けど、ぎっくり腰を経験してないBさんは、Aさんに「できると言えばできる」と言ったとする。いやーー。できると言っても、できないものは、できないんだよ。そして、Aさんが「できるできる」と言って、その仕事をつづけたとする。そのあと、二回目の、ぎっくり腰を経験したとする。でっ、Aさんは、また「できるできる」と言って、腰をかばいながら、その仕事をつづけたとする。そのあと、三回目の、ぎっくり腰を経験したとする。「できると言えばできる」というのは、何回だって、「できると言えばできる」という理論だ。終わりがないのである。けど、経験をとおして、Aさんが「もうむりだ。できない」と言ったとする。けど、ぎっくり腰を経験してない、言霊主義者のBさんは「できると言えばできる」というのである。終わりがない。四回目でも、「できると言えばできる」ということは、成り立っている。「できない」ということを認めないのだから、そうなる。Bさんの頭のなかでは「できると言えばできる」「これは正しい」ということになっているのだからそうなる。五回目、六回目、七回目、八回目、九回目、一〇回目……n回目。終わりがないのである。Aさんは、Aさんの体と相談して「できない」と言っているのである。Bさんが、Aさんのからだの状態について、知らないだけなのである。あるいは、Aさんができないと言っても、Bさんが、Aさんのからだの状態について、軽く考えて「できる」と思っているだけなのである。ようするに、BさんがAさんのからだの状態を無視すれば「できると言えばできる」というようなカルト理論を、Aさんに言うことができるのだ。けど、Aさんは、自分の経験を通して、「できない」と思っている。これは、Aさんが思っているだけなのか? Aさんが「できない」と思っているから、できないのか。ちがうだろ。Aさんは、経験をとおして、「できない」と判断したから、できないと言っているのだろう。

ぎっくり腰のことが、ヘビメタ騒音でも成り立つ。「できないんだよ」。けど、経験がないやつは、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と同質化して、「できない」ということを無視して、「できる」と判断する。「できるのに、できないなんて言うのは、あまえだ」と思うわけだ。思ったらそういうふうに、言う人もいる。ようするに、言霊主義者じゃないけど、「できる」と判断している人は、「できない」と言っている人の、言うことを認めずに「できる」と判断して、「できない」と言っている人に、ものを言う。多くの場合は説教だ。助言という体裁をとる場合もあるけど、これ、説教だと思う。けど、「できる」と判断している人は、ほんとうに正しいのかという問題がある。

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「できない」ということを認めない人たちがいるんだよ。まあ、この人たちは、自分のことに関する判断は、わりと正確なんだけど、他人に対する判断は、まちがっている場合が多い。自分が経験してないことだと、軽く見たり、無視して、「できないなんてことはない」と言い出す。言霊主義者は「できるできると言えばできる」と言い出す。

じゃあ、言霊主義者のBさんが、なんでもできるのかというとできないのだ。Bさんもできないことがある。Bさんが「俺は、勉強なんてまったくできないよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できると言えばできる」のではないか? これ、よく言霊主義者の人が、「俺なんて、勉強なんかできなかったよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できるできる」と言えばできるんでしょ。

自分の経験をとおして「できない」と思っていることについては、言霊主義者だって「できない」と言うのである。自分の経験をとおしてわかっていることだから、そういうふうに言うのである。「できない」と言うのである。けど、これは、おかしい。言霊主義者なら「できるできる」と言えば、なんだってできるはずだ。できないのであれば、「できるできる」と言ってもできないことがあるということを認めなければならない。ほんとうに、どっちも認めないんだよな。言霊主義者は、いつまでたっても、「できると言えばできる」と言っている。本人ができないことがたくさんあるのに、そういうふうに言って、ゆずらない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。