たとえばの話なのだけど、ぎっくり腰になったら、重いものを運ぶような仕事はできないと思う。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、運送業で重いものを運ぶ作業を含んでいる仕事をしているとする。そのAさんが、まあ、いわゆるぎっくり腰になったとする。そして、Aさんが、「ぎっくり腰をやってしまったら、もう、この仕事はできない」と判断したとする。けど、ぎっくり腰を経験してないBさんは、Aさんに「できると言えばできる」と言ったとする。いやーー。できると言っても、できないものは、できないんだよ。そして、Aさんが「できるできる」と言って、その仕事をつづけたとする。そのあと、二回目の、ぎっくり腰を経験したとする。でっ、Aさんは、また「できるできる」と言って、腰をかばいながら、その仕事をつづけたとする。そのあと、三回目の、ぎっくり腰を経験したとする。「できると言えばできる」というのは、何回だって、「できると言えばできる」という理論だ。終わりがないのである。けど、経験をとおして、Aさんが「もうむりだ。できない」と言ったとする。けど、ぎっくり腰を経験してない、言霊主義者のBさんは「できると言えばできる」というのである。終わりがない。四回目でも、「できると言えばできる」ということは、成り立っている。「できない」ということを認めないのだから、そうなる。Bさんの頭のなかでは「できると言えばできる」「これは正しい」ということになっているのだからそうなる。五回目、六回目、七回目、八回目、九回目、一〇回目……n回目。終わりがないのである。Aさんは、Aさんの体と相談して「できない」と言っているのである。Bさんが、Aさんのからだの状態について、知らないだけなのである。あるいは、Aさんができないと言っても、Bさんが、Aさんのからだの状態について、軽く考えて「できる」と思っているだけなのである。ようするに、BさんがAさんのからだの状態を無視すれば「できると言えばできる」というようなカルト理論を、Aさんに言うことができるのだ。けど、Aさんは、自分の経験を通して、「できない」と思っている。これは、Aさんが思っているだけなのか? Aさんが「できない」と思っているから、できないのか。ちがうだろ。Aさんは、経験をとおして、「できない」と判断したから、できないと言っているのだろう。
ぎっくり腰のことが、ヘビメタ騒音でも成り立つ。「できないんだよ」。けど、経験がないやつは、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と同質化して、「できない」ということを無視して、「できる」と判断する。「できるのに、できないなんて言うのは、あまえだ」と思うわけだ。思ったらそういうふうに、言う人もいる。ようするに、言霊主義者じゃないけど、「できる」と判断している人は、「できない」と言っている人の、言うことを認めずに「できる」と判断して、「できない」と言っている人に、ものを言う。多くの場合は説教だ。助言という体裁をとる場合もあるけど、これ、説教だと思う。けど、「できる」と判断している人は、ほんとうに正しいのかという問題がある。
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「できない」ということを認めない人たちがいるんだよ。まあ、この人たちは、自分のことに関する判断は、わりと正確なんだけど、他人に対する判断は、まちがっている場合が多い。自分が経験してないことだと、軽く見たり、無視して、「できないなんてことはない」と言い出す。言霊主義者は「できるできると言えばできる」と言い出す。
じゃあ、言霊主義者のBさんが、なんでもできるのかというとできないのだ。Bさんもできないことがある。Bさんが「俺は、勉強なんてまったくできないよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できると言えばできる」のではないか? これ、よく言霊主義者の人が、「俺なんて、勉強なんかできなかったよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できるできる」と言えばできるんでしょ。
自分の経験をとおして「できない」と思っていることについては、言霊主義者だって「できない」と言うのである。自分の経験をとおしてわかっていることだから、そういうふうに言うのである。「できない」と言うのである。けど、これは、おかしい。言霊主義者なら「できるできる」と言えば、なんだってできるはずだ。できないのであれば、「できるできる」と言ってもできないことがあるということを認めなければならない。ほんとうに、どっちも認めないんだよな。言霊主義者は、いつまでたっても、「できると言えばできる」と言っている。本人ができないことがたくさんあるのに、そういうふうに言って、ゆずらない。