「ヘビメタ騒音で、できない」と俺が言ったあと、相手が「それでも働いたほうがいい」と言った場合、ものすごい、気分になるんだよ。並じゃないんだよ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音にやられた時間がつもっているからだ。つもってない人にとっては、なんでもない発言なんだけど、つもっている俺にとっては、ゆるせない発言なんだよ。実際にやられてない人は、やられたことがないので、俺がどういう気持になるか、まったくわからない。おれがどれだけ「やられている最中の気持ち」や「やられたあとの眠れない時間の状態」や「2時間しか眠れない状態で、動いているときのつらい状態」について語ったとしても、実際にやられてないので、わからない。実際にやられたことがないということは、たとえば、鳴らされるあいだの状態を経験してないということなのである。そして、それは、時間的なものなのである。毎日数時間にわたって、あの、自分がきらいな音を、あの音量で、あの至近距離で鳴らされた経験がないとまったくわからないことなのである。「俺だって騒音ぐらいある」と言っても、きちがい兄貴の騒音は、俺にとって、それまでの騒音とはまったくちがう、異質な騒音なんだよ。質がちがう。鳴らされているさいちゅう、この部屋にいるときの気分が、並じゃないのである。ほんとうは、きちがい兄貴は、条例違反の悪いことをしているんだぞ。ところが、悪いことをしているつもりがまったくない。そして、きちがい親父が、それを支持している。こんな状態ない。普通の家では、そもそも、発生しない状態なんだよ。普通の家では、そもそも、発生しない音なんだよ。「俺だって騒音ぐらいあった」と言うけど、ちがうんだよ。実際に、そいつは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない。どれだけ、くやしいかわかってない。悪いことをやって当たり前。悪いことをやっていると、まったく思わない。どれだけ言われても、無意識的なレベルでは、相手の言っていることがわかるけど、意識的なレベルでは相手がっていることがわからないので、わからないまま、やり続ける。どれだけなにを言われても……不愉快に思っている家族に、どれだけなにを言われても、悪いとは、一切合切思わないのである。きちがい行為をやる人間が、まったく悪い行為だと思ってない……。きちがい的な家族が……家族の一員が、それを支持してしまう。これがどういう圧力をうみだすか、ぜんぜんわかってない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている人の騒音とは、意味合いがちがうんだよ。質がちがうんだよ。量がちがうんだよ。
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まあ、ここらへんの、感覚のちがいが、人間関係上の問題をうみだすのである。これは、一般の人は……きちがい家族によるきちがい騒音という経験がないので……あるいは、「つもってない」ので……きちがい家族の騒音がうみだしているものだとは思わないのである。ようすにる、ヘビメタ騒音の解釈をめぐって、人間関係上の問題が発生するのだけど、ほかの人にとってみれば、それは、俺の性格や能力によるものだと思ってしまうのである。たとえば、勝手に「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思ってしまうのである。これ、こみにゅケーション能力の問題じゃなくて、ヘビメタ騒音の影響をどういう影響だとみなすかの問題なのである。やられてない人……つまり、何年間も毎日積もってない人にとってみれば、「家族の出す騒音なんて、たいした問題じゃない」のである。どうしてかというと、普通の家族と暮らしているからだ。ここらへんの理解に差があるのは、俺はわかるけど、「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思っている相手は、ここらへんに差があるとは思ってないのである。これ、言ってしまうと、問題がしょうじるけど、平凡な想像力しかないから、俺が、ちゃんと説明しているのに、ヘビメタ騒音の影響の大きさについて、まちがった解釈をしてしまうのではないかと思う。ようするに、コミュニケーション能力に問題があるとするなら、相手のコミュニケーション能力に問題があると思う。想像力が欠如しているのである。『相手』の状態に対する想像力が欠如している。相手の立場に立って、物事を考えられない。どちらかと言えば、「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思っているの問題だ。そして、勝手に、「コミュ障だ」と決めつけてしまう性格は、いい性格とは言えない。
ともかく、実際にやられてない人は、「つもっている量」にかんしても、勘違いをしている。この勘違いが、いま説明したような問題を発生させる。これは、ぼくにとって、悪いことで、相手?にとっては、どうでもいいことだ。相手にとってみれば、そもそも、ヘビメタ騒音なんて「小さなこと」だから、どうでもいいことなのだ。実際につもってない相手にしてみれば、ヘビメタ騒音の影響なんてないのである。 「俺だって騒音ぐらいあった」と言うけど、その騒音体験は「つもるような」騒音体験なのかということだ。つもらないような騒音体験だから、通勤して働いているんだろ。自分は通勤して、働いているからえらい……。エイリさんは、通勤して働いてないからえらくない……。こういう、「見立て」がこの会話のすべてに影響をあたえている。
騒音体験があったとしても、同質の、同量の騒音体験ではないんだよ。どうしてなら、働いているじゃないか。たいした騒音じゃないから、影響をうけずに働ける。たいした騒音じゃないから、つもらない。つもっている量が莫大ではないので、働ける。そもそも、つもらない量だから、一日のなかで処理で着て、睡眠時間に影響をあたえない。つもってない。睡眠時間に影響をあたえないので……毎日、睡眠時間に影響をあたえるような騒音ではないので、起きている時間にも影響をあたえない。起きている時間に影響をあたえるような、「前の日の騒音」ではないのである。前の日の騒音が、そのまま、残っている。前の日の騒音が、前の日にもまして、次の日に影響をあたえる。そういう状態を、毎日毎日……土日も含めて毎日毎日……本当に、三六五日中三六五日……毎日毎日……つづいてる状態を十数年間にわたって、経験したわけではないのだ。だから、ちがうと言っているのに、経験したことがないから、ちがいがわからない。ちがいがわかってない。「俺だって騒音ぐらいあった」という言葉ひとつで、ちがいを、全否定する。こういうところも、じつは、相手の立場を考える能力の欠如があるのではないかと思う。まあ、欠如と言ったって、「人並み」なので、能力の問題はないと評価されるわけだけど……。まあ、きちがい家族による騒音というのが、普通のうちではないことなので、普通の人は体験してないことなのである。だから、まるっきり、わからない。わからないけど、これまた、わからないというということがわかってないのだ。ちがいがあるということが、これまた、わかってない。そりゃ、普通の騒音と、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音の、両方を経験したことがある、ぼくにしてみれば、両者のちがいは「あきらか」なのだけど、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音を毎日毎日経験したことがない人は、経験がないから、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音に関しては、わからないということになる。比較することができない。