まあ、趣味でもなんでも、基本的なやる気というのは、制御できない。基本的なやる気というのは、自分の意志で制御できるものではないのである。けど、「とく」とか「そん」とかを考えるとやったほうがいいのではないかと思えることがある。けど、その「損得勘定」よりも、基本的なやる気のほうが上なので、「損得勘定」がどうであろうが、ともかく、やる気がないものは、やる気がないからできないのであり、逆に、やる気があるものは、やらないとストレスがたまってしまうのである。
基本的なやる気というのは、体力状態を含んでいる。単位時間内の睡眠時間などの条件を含んでいる。体力というのは、体力測定で測れるような体力ではなくて、じゅうぶんに睡眠をとれたかどうかということを含んだ「生活体力」になる。やる気というと、「気持ち」の問題だと思うけど、じつは、からだの問題でもある。けど、「やる気を出す」ということに集中した場合、からだのことは無視することになる。せいぜい、「じゅうぶんな睡眠をとりましょう」というような話になる。「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提が横たわっている。これじゃだめだ。どうしてかというと、たとえば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていると、じゅうぶんな睡眠がとれないからである。 きちがいとのトラブルというのも、「生活体力」をけずる。けずりまくる。そして、きちがいとのトラブルが、そのきちがいの性格に起因しているなら、やはり、制御できないということになるのである。そして、そのきちがいが、家族だと、問題が、ややこしくなる。問題が、ずっと続くことになる。どうしてかというと、そのきちがい家族の脳みそが、かわらないからだ。「つづく」のである。けど、生活として、「つづく」ということを、「じゅうぶんな睡眠時間をとりましょう」というような話は無視してしまう。「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提で話をすすめるし、「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提は、そのあともずっと成り立っている。ようするに、こっちも「つづく」。
「できる」という話には、じつは、自分が制御できない外部環境について、都合のよう設定をしているのである。制御できない外部環境も、自分に都合がいいような状態になるという前提がある。制御できない外部環境の問題は、勝手に解決してしまうという前提がある。制御できない外部環境の問題が、勝手に解決してしまう場合もある。けど、制御できない外部環境の問題が、勝手に解決しない場合もある。しない場合の話は、無視するのである。