くそ凡人は、たとえば、「きちがい兄貴をしずかにさせてくれる」という意味では、まったく、助けてくれない。
ところが、言うだけは言うのだ。感想を言う。その感想というのは、ようするに、「エイリが、がんばれば、それでいい」という話だ。
「きちがいヘビメタ騒音で働けなくなる」というとは認めずに、実際には、ヘビメタ騒音をなくしてくれるわけではなく、俺(エイリ)が、受け止め方をかえればいいという話になる。
ところが、実際に鳴らされていると、どれだけ受け止め方をかえようと思っても、きちがいの騒音に悩まされ、きちがいの騒音の影響をうけるのである。
この「影響をうけるということ」も、また、否定するのだ。
こいつらは、否定する。
どうして、否定できるかというと、やられてないから、否定できるのだ。「できるはずだ」という前提でものを言う。こんなやつらが、九割以上だ。こんな世界で生きていたくないと思うのは当然だ。
『自分だって騒音はあった』と言うけど、その騒音は、兄貴の騒音とはちがうのである。きちがい家族が出している騒音とはちがうのである。スイッチが入った、きちがい家族が出している騒音とはちがうのである。ちがうのは、よくわかる。
「受け止め方をかえればいい」などと、きちがいヘビメタ騒音でこまっている人にアドバスをしてしまうぐらいの騒音なのだから、たいした騒音じゃない。はっきりしている。
俺が、ぎりぎり、きちがいヘビメタ騒音のなかで、努力をしてきたということを認めてないのだ。このくそ凡人にとっては、ヘビメタ騒音は「受け止め方をかえればどうにでもなるような騒音」なのだ。こういう、「受け止め方」をしている。
こんなやつに、なにがわかるというのだ。「受け止め方をかえればどうにでもなるような騒音」だと見なしている時点で、こいつは、なにもわかってないということがわかる。どれだけ、まぬけか、わかる。どれだけ、うぬぼれが強いかわかる。どれだけ、きちがい家族による騒音を軽視しているかわかる。
こいつらが、勝手に過小評価しているだけだ。こいつらが、問題の本質を無視しているだけだ。
どうして無視できるかというと、実際にはやられてないからだ。きちがい家族による騒音とおなじ程度の騒音を経験したことがないからだ。
おなじ程度の騒音を経験した人が「受け止め方をかえればいい」なんてことを言うはずがないのだ。口がさけたっていえないよ。
その人は、その騒音のなかで「受け止め方をかえよう」として、実際には、受け止め方をかえられずに、被害を受けた人だ。
不可避的な被害というのがある。物理刺激は、どれだけ、無視しようと思っても、物理刺激があったという影響をうける。からだ影響をうける。こういうこと理解してないやつが「受け止め方をかえればいい」と言う。
こいつらが、自分なら、受け止め方をかえることで処理できると「思っている」のは、実際に、経験したことがないからだ。実際に経験したことがないので、実際の影響については、まったくわからずに「受け止め方をかえればいい」とたわごと言っているだけだ。
どんだけ、状況を理解してないばか発言をしているのか、本人が気がつかない。どうしてかというと、経験したことがないうえに、「うぬぼれ」が強いからだ。『自分なら大丈夫だ』という自信があるのだ。その自信というのが、ようするに、経験してないからもっている自信なのだ。ようするに、わかってないからもっている自信なのだ。たまたま、やられてないからといって、たわごとを言っていいわけではないということは、わかるか?
たまたま、やられてないから、言えるだけのことを言っている。けど、本人は「同等の騒音を経験した」と前提しているところがある。これがちがうのである。経験してないから、同等の騒音だと思ってしまっているけど、ぜんぜんちがう。
ともかく、こいらつらは、ほんとうは、できないことを言っている。ほんとうはできないことをできるという前提で言っている。ほんとうは、自分だってできないことなのに、自分ならできると、前提して、言っている。こんな、ふざけた態度があるか?
こういう想像力がかぎられた人間が、好き勝手なことを言ってくるようになってしまう。きちがい家族が、きちがい家族の感覚で、きちがい騒音を鳴らし続けると、俺が、よその人間から、こういうわかったようなことを言われることになる。わかったようなことと書いたけど、たわこどだ。
こいつらに、こういう説明をした場合、こいつらが「そうなのか。その通りだ」と納得してくれる確率は、極めて低い。もう、経験でわかっている。こいつらは、説明されても、納得しない。
こいつらの理解力では理解できないことを、されてしまった。こいつらの経験の範囲外にあることをされてしまった。長い長い間、されてしまった。