「俺だって苦労をした」という場合、ぼくと同等の苦労をした場合は、すでに働けない状態になっているので、「働いたほうがいい」と人には助言できないと考える人が多い。これ、なぜか、本人が無職なのに、「無職はけしからん」ということを言ってくる人たちがいるんだよね。この人たちの、脳みそというのは、どうなっているのか? 自分は無職じゃないと思っているのかな? ともかく、こういう人たちをのぞけば、「俺だって苦労した」と言っている人が、ぼくと同等の苦労をしたのかどうか、働いているかどうかで見極めることができるということだ。その苦労が、働けなくなるような苦労なのかどうかで、判定することができる。働いているのであれば、働けなくなるような苦労はしてないということだ。本人がどれだけ「俺だって苦労をした」と言ったって、それは、働けるぐらいの苦労なんだよ。そして、未来の自分を、ダメにしない苦労なんだよ。たとえば、その苦労によって、脳に器質的な変化がしょうじて働けなくなったとする。この場合は、もちろん、働けなくなるような苦労だから、同等の苦労だ。そして、「未来の自分をダメにするような苦労」だ。脳にかぎらず、からだに器質的な変化がしょうじて、未来において、働けなくなるような苦労があるんだよ。働けなくなってない人が、「俺だって苦労をした」と言っても、その苦労は、本人が言うほど、ひどくない苦労なんだよ。実際に、からだに器質的な変化がないだろ。実際に、毎日通勤して働ける体を維持ているだろ。それなら、その苦労は、たいした苦労じゃない。
「苦労して勉強して、医者になり、いまは、いい生活ができるようになった」→「俺だって苦労した」
ぜんぜんちがう苦労なんだよ。そんなやつが、ヘビメタ騒音とおなじくらいの苦労だと想定して、勉強の苦労について語る。ぜんぜんちがう。そいつは、きちがい家族にかこまれて生活した経験がなく……一度もなく……勉強だって、普通に(ヘビメタ騒音なしで)できたのだ。それを「苦労」と言い、「俺だって苦労をした」と同等の苦労をしたように語りだす。「ぜんぜん、ちがうだろ」と言うと、まあ、おこることが多い。「俺だって、苦労をして、いまの地位を勝ち得た」……。ちがうじゃない。ちがうだろ。ぜーんぜん、ちがう。たいして、出世してない人でも、えらそうに「俺だって苦労をした」という人がいるけど、その人が経験した苦労とは、ちがうレベルの苦労なんだよ。質がちがう苦労なんだよ。だいたい、「俺だって苦労をした」と言う人たちは、その苦労で、いい生活をしている。その苦労がみのって、いいことを経験している。きちがいヘビメタ騒音の苦労とは、そういうところでも、ぜんぜんちがう。
無職でも、無職だと思われない人たちがいる。退職者と主婦と学生だ。まあ、学生はぬかすとして、多くの、本人が無職なのに「無職はけしからん」と言う人たちは、退職者と主婦だ。けど、アルバイトを繰り返している人は、やめた期間も含めて……ようするに、アルバイトとして働いてない期間も含めて……自分は「無職である他者をせめることができる」と思っているみたいなんだよね。まあ、ほかにいろいろな動機があるから、そういう発言をするのだろう。ともかく、本人が無職で、なおかつ、退職者、主婦、学生ではない人も、「それでも、働くべきだ」ということを言う場合がある。他人である俺に対して、ヘビメタ騒音の話を聴いたあと「それでも働くべきだ」と言う人たちがいる。まあ、この人たちのことは、放っておこう。
まあ、みんな「俺だって苦労をした」「わたしだって苦労をした」と言うのだけど、その苦労というは、働けなくなるような苦労じゃない。働けるのだから、たいした苦労じゃない。ヘビメタ騒音は働けなくなるような苦労なんだよ。だから、「俺だって苦労をした」「わたしだって苦労をした」という言葉で、苦労の質を同質化することはできない。最低限、本人が働いている人が、他人に対して「それでも働くべきだ」と言うべきであって、本人が働いてないのに、他人に対して「それでも働くべきだ」と言うべきではない。