たとえば、生まれたばかりの赤ちゃん。生まれたばかりの赤ちゃんは、「因果応報」というようなことを考えた場合、ゼロなのである。プラスマイナス・ゼロ。ゼロの状態でうまれてくる。「やってない」。
たとえば、きちがい的な父親がいたとする。そのきちがい的な父親は、そのきちがい的な父親にとって、妻である女性が、自分の世話をしなければならないと思っているとする。赤ちゃんの世話よりも、自分の世話に集中するべきだと思っているとする。この父親は、赤ちゃんにかまっている妻のすがたを見たら、発狂するのである。
どうしてかというと、自分の世話を知るべきなのに、赤ちゃんの世話をしているから気にくわないのである。発狂して、赤ちゃんと妻をせめる。
このきちがい的な父親にとってみれば、赤ちゃんは、邪魔な存在しでしない。邪魔な存在は、むかつくのである。
なので、発狂して、「あれが気にくわない」「これが気にくわない」と赤ちゃんにあたる。
べつに赤ちゃんが、きちがい的な父親に悪いことをしたから、それがきちがい的な父親の攻撃としてかえってくるというわけではないのだ。
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「因果応報」と言う考え方にとらわれている人が、因果関係を考えると、さきに、赤ちゃんが、きちがい的な父親を攻撃したから、赤ちゃんに、きちがい的な父親が攻撃をしているということになってしまうのである。
「そこにいるのが気にくわない」という理由で、攻撃される赤ちゃんは、いる。幼児だっている。この赤ちゃんや幼児が、なにか悪いことをしたから、それが、この赤ちゃんや幼児にかえってくるのか?
ちがう。別の理由で、攻撃されているのである。問題は、攻撃しているほうにあるのである。なので、因果応報的に、ゼロである状態でも、攻撃されることはある。
「やられる」ことはあるのだ。
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しかし、ここで、カルマとか、うまれかわりとかということを考えると、この不条理が、説明できる。かたちのうえの説明だ。
しかし、信じている人は、信じてしまうので、カルマを利用した説明が正しいと思ってしまう。
たとえば、その赤ちゃんは、前世で、その父親に悪いことをしたのだという説明をすれば、カルマとかうまれかわりを信じている人は、「なるほど」と納得してしまう。
じつは、その赤ちゃんは、ゼロではなかった。前世で、悪いことをしていたからマイナスだったということにしてしまうのだ。そうすると、現象が「いちおう」は説明できる。不条理が不条理ではなくなる。
けど、このカルマとかうまれかわりとかという話は、妄想の話なのである。そんなの、証明できるわけがない。勝手に、カルマとかうまれかわりを信じている人たちが、つくったことだ。
だから、この点でも、精神世界の人は、人にぬれぎぬを着せている。
悪いことをしてない人を悪いことをした人にしてしまう。「前世で悪いことをしたから」「今世でそうなっている」と考えてしまう。
いったん、そういう視点を獲得してしまうと、かわいそうな赤ちゃんは、かわいそうな赤ちゃんではなくなるのである。そういう視点を獲得すると、 因果関係的に「ゼロ」である赤ちゃんは、因果関係的にゼロ」である赤ちゃんではなくて、因果関係的に「マイナス」である赤ちゃんになってしまうのである。