言霊主義者だって、普段は、物理法則にしたがった問題解決方法を採用しているのである。たとえば、熱い紅茶を飲みたいとする。このとき、「熱い紅茶が、目のまえにあらわれる」と言って、熱い紅茶を飲むのではない。どれだけ、何回、「熱い紅茶が、目のまえにあらわれる」と言っても、あらわれないということを知っている。そこで、水をお湯にしようと考えるわけである。ガスコンロを使う場合は、ヤカンや鍋に、水を入れて、ガスの炎で、加熱して、水をお湯にかえるのである。「ヤカンのなかの水は、三秒後に、八〇度のお湯になる」と言って、八〇度のお湯をつくるのではない。そうではなくて、ガスの炎を使って、お湯をつくるのである。どうして、「ヤカンのなかの水は、三秒後に、八〇度のお湯になる」と言わないのか、そんなのは、どれだけ言っても、八〇度のお湯にならないということを知っているからだ。現実的な方法を採用しているのである。電気ケトルを使う場合は、電気ケトルのなかに水を入れて、電気ケトルのスイッチを押して、電気の力を利用して、お湯をつくる。ケトルのなかの水をお湯にかえる。ティーカップに水を入れて、「ティーカップの水は、お湯になる」と言うわけではない。だいたい、紅茶が飲みたいのだから、「ティーカップの水は、熱い紅茶になる」と言えばよいのである。どうして、「ティーカップの水は熱い熱い紅茶になる」と言って問題を解決しようとしないのか? そんなのは、どれだけ言ったって、問題が解決しないということを知っているから、言わないのである。「言ったことが現実化する」と言霊主義者は言うけど、自分の現実的な問題に関しては、言霊理論をことごとく無視して、現実的な方法で、自分の現実的な問題を解決しようとするのである。ところが、「ひとの問題」だと、突然、言霊が有効な方法になり、「言ったことが現実化する」と言って、言霊的な解決方法を有効な方法として、人にすすめるのである。けど、言霊的な解決方法では、紅茶すら飲むことができないので、現実的な解決方法を模索することになる。ところが、悩んでいる人というのは、現実的な方法がうまくいかなくて悩んでいる人なのである。その人に、無益、無効な言霊的な解決方法を説明して、言霊主義者・本人だけが、悦に浸る。もちろん、ほんとうに有効な方法を教えてあげているつもりなのである。けど、実際の日常生活では、言霊主義者だって、言霊的な解決方法なんて、採用してない。無益、無効だとわかっているからだ。言霊的な解決方法を教えてあげた相手が「うまくいかなかったぞ」「現実化しなかったぞ」と言った場合は、「こころをこめて言わなかったからだめなんだ」とか「現実化するまで何回でも言えばいい」とかということを、言えば、それで、相手に勝ったような気持ちになるので、言霊主義者は満足してしまう。
毎日毎日、水の入ったコップをまえにして「八〇度のお湯になる」と言ったって、八〇度のお湯にならない。どれだけ言い方がうまい人でも、八〇度のお湯にならない。「言い方」の問題じゃないのである。どれだけこころをこめて言ったって八〇度のお湯にならない。「こころをこめて言ってないから八〇度のお湯にならない」のではないのである。
ところが、言霊主義者は、言ったことが現実化しなければ、「言い方」の問題にしてしまう。「こころをこめて言ったかどうか」の問題にしてしまう。こんなの、最初から、いかさま。いんちき。人をだましている。
ある日、別の人が、水が入ったコップを、八〇度のお湯がはいったコップにすりかえたとする。そうしたら、言霊の力によって水を八〇度のお湯にかえることができたということになるのか?
ちがう。
それは、言葉の力で、八〇度のお湯にかえることができたのだ。
別に、言霊の力じゃない。そして、別の人は、物理的な法則にのっとった方法で八〇度のお湯をつくったのである。別の人は、言霊の力を使って、水を八〇度のお湯にかえたわけではない。おわかりか?