きちがい兄貴にたたられると、「ちゃんと」はできなくなる。できなくなるんだよ。どれだけがんばったって、できなくなる。ぎりぎりのところで、がんばり続けて、おかしくなる。からだが、不可避的にこわれる。本人……つまり、ぼくは、そのことを、経験して知っているけど、ほかの人は、まったく、知らない。「きいたはなし」でしかない。「そんなのは、平気だ」と思うわけだ。「自分だったら、たとえそういうことが起きたとしても、やっていける」「いつまでも続く後遺症なんてない」と思うわけだ。けど、これは、経験してない人の感覚なんだよ。けど、みんな、みんな「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言って、「ちがい」を認めない。苦労したのはわかるけど、事実、同等の経験をしてない。事実、みんなには、きちがい兄貴がいない。みんなには、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、騒音を出し続ける家族がいない。ちがうのだ。
死にものぐるいになってがんばっているのに……みんな、みんな、「あまえている」と言うのだ。こんなのない。しかも、「あまえている」と言っているやつらには、きちがい家族がいないのである。きちがい的な意地で、ほかの人が鳴らさないような音を、ほかの人が鳴らさないような音のでかさで、ほかの人が鳴らし続けないような、時間の長さ、ずっと、鳴らすような家族がいない。おやじうちに、いない。すぐ横にいない。透明な壁なら、手を伸ばせば届くような距離に、きちがい的にでかいスピーカーがない。これ、ちがうんだよ。ちがうの……。けど、俺がどれだけちがうと言っても、ほかの人は、はなからちがいなんて、わからない。経験してないのだから、わからない。経験的にわかってない。この「経験的にわかってない」というのが問題だ。けど、「苦労」とか「騒音」とかという程度にまで抽象化されると、みんな、経験していることだということになる。ぼくのきちがい兄貴の騒音は、異常な騒音で、みんなが経験してない騒音なのだけど、みんな、「苦労」とか「騒音」とかを経験している。この、みんな、苦労とか騒音を経験しているというのは、事実だ。事実だけど、それは、抽象化したレベルで、苦労とか騒音とかと言っているだけなのだ。「ちがう」と言っても「ちがい」がわからない。俺が「ちがう」と言っても、経験がない人は「ちがい」なんて、わからない。まーーったく、まーーったくわからない。
みんな、ほんとうは、「やられれば」「ちゃんとできなくなる」のに、それが、わからない。やられたことがないからだ。けど、「苦労した」とか「騒音ぐらいあった」と言う。そりゃ、あったのだろうけど、ちがう。
そして、ぼくがちがいを強調すると、「自分だけが苦労したと言うのか?」と思うやつが出てくる。実際に経験してないからわからないやつは、みんな、みんな、そう思うわけだよ。そいつらは、そうだ。そいつらの発想はそうだ。「自分だけが苦労した」と俺は言ってない。抽象化して、同レベルの経験にして、「あほなこと」を言うな。