あーーあ。しかし、つまんないなぁ。
つまんない。
なんだ? この夜? なんだ? この人生?
こんな人生でおもしろいわけがない。どうしてぼくには、きちがい兄貴のハンディや、きちがい親父のハンディがあるんだ。ほかの人にはないハンディがあるんだ。
ぼくだって、ほかの人とおなじように、きちがい兄貴のハンディやきちがい親父のハンディが、なかったら、普通に暮らせた。
普通に恋愛して、普通に家族をもつことができた。
普通に……いや、それ以上に働いていた。
なんで、ぼくが、ほかの人からは、まったく見えない、きちがい兄貴というハンディやきちがい親父というハンディで、ほかの人から、悪く言われなければならないのか?
「俺だって、兄貴とトラブルがあった」「俺だって、父親とトラブルがあった」……こういうことを言う人たちは、ほとんど、普通の兄や普通の父とトラブルについて語っている。
「俺だって、家族とトラブルがあった」「私だって家族とトラブルがあった」……普通の家族とのトラブルについて語っている人が多い。
すくなくても、前投稿で「できる」という前提で語った人は、みんな、普通の家族と一緒に暮らしていた人なのである。ぜんぜん、きちがい家族のことがわかってない。きちがい家族と一緒に住んでないから、「そんなことはない」と思うわけでしょ。
きちがい家族がどんな意地できちがい行為をするかわかってないから、きちがい家族にきちがい行為をされたことがない。きちがい行為を毎日受けてこまったことがない。
そういう感覚の持ち主だ。そういう感覚の持ち主だから「騒音が鳴ってたって、宿題はできる」と普通の騒音について発言するわけだし、「騒音が鳴っていたとしても、働ける」と普通の騒音を思い浮かべて発言するわけだ。
きちがい家族と住んでないから、そういうことが言えるんだよ。きちがい家族と住んでいる人なら、ぼくの発現を理解できる。「できない」と言ったら「できないんだな」と思う。
それを、「できない」と言ったのに、「できる」という前提で、ものを言うなんていうことは、たいへん失礼なことだ。
「できる」という前提でものを言ったのだから、きちがい家族に、長期間にわたって、きちがい行為をされて、こまったことがないということを意味している。
きちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい行為をするということがわかってない。
一度スイッチがはいっちゃったら、毎日ずっとそうするということがわかってない。これ、たまたま、狂うときがあるとか、ときどき狂うことがあるということではないんだよ。
そういう頭を搭載して生きているんだよ。
常に、そういう感覚で、そういうことをするんだよ。
そういうタイプのきちがいと一緒に住んだことがあるなら、そういうタイプのきちがいがやることがわかっているので、「できる」という前提でものを言うということがない。
こっちが「できない」と言ったのに、「できないということを認めない」ということは、きちがい家族と一緒に住んだことがないということなんだよ。
きちがい家族と一緒に住んだことがないから、影響が不可避的だということがわかってないだけだろ。
「俺だって、苦労した」という言葉で、同質化、均質化することができないように、 「俺だって、家族とのトラブルを経験したことがある」という言葉で、同質化、均質化することはできない。できない。
きちがい家族が、どういう感覚で、どういう態度で、どういうことをするのか、わかってないから「影響をうけないことは可能だ」「影響をうけないぞと決心すれば、影響をうけない」というようなことを言うんだよ。
わかってないから、言っているだけ。
経験がないから言っているだけ。
毎日の経験というのは、毎日の経験なんだよ。毎日の影響というのは、毎日の影響なんだよ。