「どんだけつらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」……こんなことを言うやつが、ぼくと同等の苦労をしたわけがない。ぼくと同等のつらい思いをしたことがあるはずがない。
ちゃんと、自然に、「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないことを学習する。思い知らされる。思い知らされていないのだから、たいした苦労じゃない。
はっきりと、言い切れる。
だいたい、ほんとうに苦労した人が「どんだけつらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言われたときの、気分が、わかってない。こいつらはわかってない。わかってないのだから、ほんとうには苦労してない。
こいつらが、自分の基準で苦労したと思っているだけだ。「どんだけつらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言えなくなるような苦労を経験してない。
そして、本当に毎日毎日、苦労している状態で……「どんだけつらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言われたときの気分を、こいつらは、経験してない。経験してないから、言える。
実際、こいつらは、きちがい家族にやられたことがないのである。きちがい家族がどういう態度でどういうことをするかまったくわかってない。
そして、きちがい家族の認知ついてまったくわかってない。なんで俺が、きちがいと言うか?
それは、きちがい的な意地でやったことを、「やった」と思ってないからだ。
あれだけ意地をはって、がむしゃらになってやったことを、おぼえていないのだ。「そんなのやってない」と嘘を言う。けど、本人は、嘘を言っているつもりが、これまた、ほんとうにないのである。こんなの、きちがいでしかない。
「へんな家族に」やられたことがないから「へんな家族」についてわかってないし、「へんな家族に」やられたことは、毎日続くことなので、影響がでかくなるということもわかってない。こいつら……へんな家族にやられたことがない、普通の人は、わかってない。
どうして、毎日続くかというと、きちがい家族が、きちがい的な脳みそを搭載して暮らしているからだ。そういう基本的なことが、きちがい家族と一緒に住んでない人は、わかってない。
わかってないのに「俺だって苦労した」と言う。「俺だって苦労した」とひとこと言えば、同質の苦労をしたということになってしまうのである。きちがい家族にやられた人と、きちがい家族にやられてない人が、あたかも、同質の苦労をしたような前提で、ものを言う。
「俺だって苦労した」というひとことで、きちがい家族にやられた人の経験と、きちがい家族にやられたことがない人の苦労を、同質のものにできるかというとできない。同等の苦労をしたような前提で、ものを言うな!