子どもの引き寄せ能力について、考えてみよう。親がものをあたえる傾向を、おなじだとする。実際には、もちろん、収入が低いにもかかわらず、ものをあたえやすい傾向をもつ親もいるし、収入が高いにもかかわらず、ものをあたえにくい親もいる。
この傾向に関してはあとで考えることにする。
いまは、みんな、どの親も、ものをあたえる傾向度が一だとする。そして、収入を一〇段階にわけるとする。下から、一段階目の親を収入度一の親と呼ぶことにして、下から一〇段階目の親を収入度一〇の親と呼ぶことにする。
その場合、収入度一親を持つ子どもは、ものをもらう機会が少なく、収入度一〇の親をもつ子供はものをもらう機会が多いといえる。
こういう状況があるとき、引き寄せ主義者は、収入度一〇の親をもつ子供を引き寄せがうまい子どもと呼び、収入度一の親をもつ子供を引き寄せがへたくそな子供と呼ぶことになる。
じつは、親の収入段階が、子供の引き寄せる量に影響をあたえている。けど、引き寄せという視点で、現実を見ると、収入度一の親をもつ子供は、引き寄せ能力がなく、収入度一〇の親をもつ子供は引き寄せ能力があるように見えるのである。
実際には、親という条件が、子供の「引き寄せ能力」の値を決めているのだけど、引き寄せ主義者は、親という条件を完全に無視して、子供に特有の能力が、引き寄せる量に影響をあたえていると考えるのだ。
そして、引き寄せ能力が低い子供も、(自分たちが言う)引き寄せ能力をあげる方法を実行すれば、引き寄せ能力があがるということを言うのである。
引き寄せという考え方をうけいれた子供たちは、引き寄せという視点で現実を見るようになるので、引き寄せの量がないとされた子供にしてみれば、その方法を知るのは、重要なことになる。
なんと言っても、ものをもらえずに、みじめな思いをする機会が多いのに、その方法を実行すると、ものをもらえるようになるのだ。
けど、実際には、子供が、どれだけ、もらえるところをイメージしても、親がかわらなければ、イメージのとおりに、「引き寄せる」ということができない。
実際には、子供が、どれだけ、もらっている人のまねをしたとしても、もらっている子供のようには、もらえない。
どうしてかというと、もらっている子供というのは、じつは、親が収入度が高いから、もらっているだけだからだ。親の収入度が四段階である子供が、親の収入度が一〇段階である子供のをまねをしても、親という条件がかわらないのだから、ものを引き寄せることができない。
子供たちは完全にだまされている。
引き寄せ主義者が、人をだますつもりがあるのかどうかわからないけど、やっていることはこういうことだ。
架空の能力は、じつは、現実の写し絵なのだ。「現実の条件」の写し絵なのだ。条件が決めているのに、その条件について、まったく考えないことにして、無視する。
かわりに、潜在的で見えない「能力」というものを考えて、その「能力」の差が、現実の差になってあらわれるということを言う。これは、嘘だ。
つぎに、傾向について考えてみよう。親がものをあたえやすい傾向についてだ。
たとえば、これも、一〇段階にわける。ただし、〇・一から一までの一〇段階にする。そして、これを傾向度と呼ぶことにする。
その場合、親の収入度と親の傾向度を掛け合わせた値が、実際のあたえる度合い(あるいは、あたえる量)になる。
たとえば、収入度一〇だけど、傾向度〇・一の親は、あたえる数量が一になる。そして、たとえば、収入度七だけど、傾向度が一の親はあたえる数量が七になる。なので、収入とは一致しない値になる。このあたえる数量は、親が子供にあたえる数量のことなのだけど、引き寄せという視点から見ると、このあたえる数量が、そのまま、子供の引き寄せ能力の値になる。
たとえば、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供は、〇・一しか、あたえられず、引き寄せが一番へたくそで、引き寄せ能力が一番低いということになる。
いっぽう、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供は、一〇あたえられることになり、引き寄せが一番うまく、引き寄せの能力が一番高いということになる。
しかし、ほんとうは、引き寄せのうまさなんて関係がない。
条件がそのまま反映しているだけだ。
けど、「実際に引き寄せ方法を試したら、引き寄せることができたという場合があるのではないか」と思う人もいるかと思う。そこには、「方法を試したあと」と「方法を試したから」の混同がある。
言霊主義者の「言ったあと」と「言ったから」の混同とおなじだ。ある言霊主義者が「明日は雨がふる」と言ったとする。実際に、その日、雨がふったとする。
その場合、言霊主義者は『自分がふると言ったから、ふったのだ』と考えてしまうのだ。
けど、その言霊主義者が「言ったから」ではなくて、ほかの理由で、雨がふったのだ。その言霊主義者が『自分が言ったあと、ほかの理由で雨がふった』と考えずに、『自分が言ったから、雨がふった』と考えるので、言霊理論は正しいと思ってしまうのだ。
これと似たことが、引き寄せ主義者の身の上にもしょうじる。ほんとうは、引き寄せ方法を方法を試したあとに、引き寄せができたと思うような、なんらかのものをもらっただけなのだ。
引き寄せ方法を試した「あと」に、ものをもらったので、『引き寄せ方法は有効だ』と思ってしまっただけだ。
ものをもらった理由はほかにある。引き寄せ方法を試したからではない。
引き寄せ方法を試したあと、ものをもらうという出来事が、ほかの理由によってしょうじただけだ。
引き寄せ主義者には「試したあと」と「試したから」の混同がある。
いったん、引き寄せという考え方をうけいれると、『自分の引き寄せ能力によって、引き寄せることができたのだ』と考えるようになってしまう。
けど、引き寄せ能力なんてものはない。現実の写し絵だ。
ものをもらうということではなくて、彼氏ができるとか彼女ができるという場合もおなじだ。引き寄せ方法を試したあと、彼氏ができた。あるいは、引き寄せ方法を試したあと彼女ができた。
それだけだ。
引き寄せ方法を試したからではない。その引き寄せ方法を試したあと、別の理由で、彼氏ができたり、別の理由で彼女ができたりしている。
引き寄せ方法を試したあと、ものももらえず、彼氏もできない場合はどうか?
ただ単に、引き寄せ能力がないということになってしまうのである。そして、「へたくそだから」うまくできないと思ってしまう。そんなのは、現実うつし絵なので、へたくそも、くそもない。
大人の場合は、子供の場合とはちがって、なにかをもらう場合も、彼女・彼氏に出会う場合も、機会が豊富なのである。なので、こどもの場合のように、単純に考えることはできないけど、子供の場合とおなじなのである。
子供の場合、親という条件が、こどもの引き寄せ能力の値を決めていた。親という条件がかわらない限り、めったに、引き寄せることができないのである。
親ではなくて、おじいちゃん、おばあちゃんにものをもらう場合もあるだろう。その場合は、引き寄せ方法を試したのであれば、『引き寄せた』と思うのだ。けど、おじいちゃん、おばあちゃんが、ものをくれただけだ。その子供の引き寄せ能力があがったわけではないのだ。
子供の場合を考えるとよくわかるのだけど、引き寄せ方法のトレーニングをしても、親の収入度や親の傾向度に変化がなければ、なかなか、変化がないということになる。
そもそも、引き寄せ能力なんてものは、ないからだ。
勝手に、そういうものを想像して、人間に固有の能力だと架空の話をしているだけだ。人間に固有と書いたけど、個人に固有の能力なのだ。
だから、個人差があるということになる。
個人差があるから、引き寄せ能力がある人が、引き寄せ能力がない人に、引き寄せる方法を教えてあげるということになる。
まあ、ただで教えてあげる場合もあるし、カネをとって教えてあげる場合もあるだろう。
けど、どんな方法であれ、嘘の方法だ。
どうしてかというと、個別の引き寄せ能力などというものは、最初からないからだ。現実の条件の差を、引き寄せる能力差だと認識させて、おカネをもうけたり、自分を相対的に相手より有利な立場に置いて、マウントしているだけだ。