たとえば、人間の体重から割り出して、ある量の毒を飲むと、人間のからだをもってるものは、だれでも死ぬとする。ようするに、ある一定量の毒を飲むと、人間が死ぬとする。この場合、毒を構成している物質の原子や分子が、人間を構成している物質の原子や分子と、化学的な反応をしたということだ。自分が言っただけで、反応をとめられるかというと、とめられない。言うという魔法的な力で、この反応をとめられるかというと、とめられない。毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子は、物理法則にしたがって、運動する。その結果、人が死ぬということになる。
あたかも、とめられるようなことを言うな。言うことで、物理法則にしたがった運動を、魔法法則にしたがった運動にかえることができるか? かえられない。どれだけ言ったって、物理法則にしたがった運動をしてしまう。なので、最初から、これも「無理なこと」なのだ。言えば、物理法則にもとづいた運動をかえることができるかというと、かえられない。無理なことを、「できる」と言って、対象となる人に、ふっかけている。対象となる人が言っても、そうならないことが、この場合、最初から決まっている。ところが、言霊主義者は、「自分の場合、言ったことが現実化したので、言ったことが現実化するということは正しい」と思って、「無理なこと」をほかの人にふっかけることになる。
ほんとうは、言霊主義者だって、その毒を一定量飲めば、死ぬ。ほんとうは、言霊主義者だって、毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子の、運動をとめられない。物理法則にしたがった運動をとめられない。ところが、魔法的な力によって、物理法則にしたがった運動をとめることができるというのだ。そして、毒を飲んだ人が、言っても死んだ場合は、「言い方が悪かった」とあとだしで言うのだ。こんなのは、ない。「言い方が悪かったから」毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子の、運動をとめることができなかったと、まちがったことを主張する。しかし、ほんとうは、言霊主義者だって、とめられないのである。自分だってできないことを、人に、「言えばできる」と言うな。