たとえば、ジャイアンが、のび太を見かけたら、「おまえは気にくわないんだよ」と言って、のび太をなぐるということが、何回かあったとする。
その場合、のび太は、ジャイアンにあうと、なぐられるということを学習するのである。「ジャイアンにあうと、なぐられる」という考えは、悪い考えか、良い考えかということを考えると、悪いことが起こると考えているという意味で、悪い考えなんだよ。
注意するべき点は、一回目、ジャイアンがのび太をなぐるまえは、のび太のほうには、そういう考えがなかったということだ。
たびたび、そういうことがあったので、学習した。
だから、「ジャイアンにあうと、なぐられる」と考えるようになった。これは、「ジャイアンにあうと、なぐられる」と思うようになったと言っても、いい。
暗い思霊主義者は「暗いことを考えると、暗いことが起こる」ということを言う。考えたので、それが、現実化するということを言っているのだ。
しかも、これには、じつは、言霊理論とおなじ問題がある。
どういう問題かというと「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文が意味的に等価だという問題だ。
しかも、「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文が意味的に等価になるということを、当の「暗い思霊主義者」が自覚してないのである。
「暗い思霊主義者」は、「暗いことを考えると、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことが起こらない場合もある」という意味を込めて、じつは「暗いことを考えると、暗いことが起こる」ということを言っている。
ところが、「暗いことを考えると、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことが起こらない場合もある」という文と「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文は、意味的に等価ではないのである。なので、問題がしょうじる。
暗い思霊主義者が言っていることは、単に「暗いことを考えると、暗いことが起こるような気がする」ということだけだ。暗い思霊主義者が、「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文の意味と、「暗いことを考えると、暗いことが起こるような気がする」という文の意味のちがいを考えてないのである。
確率ということを考えた場合、暗い思霊主義者は「暗いことを考えると、暗いことが起こる確率が、明るいことを考えた場合よりも、あがるのではないか」という意味を込めて「暗いことを考えると、暗いことが起こる」と言っているのである。
ところが、何回も言うけど、「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文は、意味的に等価なのである。
言っている本人が、おなじ文に、ちがう意味を込めて、言っているのである。
しかも、おなじ文にちがう意味を込めているということに、本人が、気がついてない。言っている本人が、気がついてない。これは問題だ。
たとえば、ジャイアンがのび太をなぐったとする。一回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。二回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。三回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。四回目だ。三回、なぐられたとき、のび太が「ジャイアンにあうと、ジャイアンがなぐってくる」と暗いことを思ったとする。
暗い思霊主義者は、のび太が、「ジャイアンにあうと、ジャイアンがなぐってくる」と暗いことを思ったので、ジャイアンがのび太をなぐったと、考えてしまうのである。
いや、ジャイアンが、むしゃくしゃしていたので、のび太をなぐった。
ストレス発散のために、のび太をなぐった。
ジャイアンのなかに、のび太をなぐりたいという気持がしょうじたので、のび太をなぐった。のび太をなぐったのは、ジャイアンであり、ジャイアンが主体的に、自分の意志で、のび太をなぐった。
のび太は、三回なぐられたので、学習して「おなじことが起こるのではないか」と推論しただけなのである。
のび太の「なぐられる」という暗い思いが、現実化したのではないのである。ジャイアンが、なぐりたくて、なぐったのである。のび太をなぐったのである。
なぐるという行為の主体は、ジャイアンなのである。
こういうことも、わからなくなってしまっているのが、暗い思霊主義者だ。
三回、なぐられたら、四回目もなぐられるかもしれないと思うだろ。ネズミだって学習する。人間だって学習する。
こういう、学習という能力は、人間が生きていくうえで必要な能力なのである。
「暗いことを考えると暗いことが起こるので、暗いことに関しては、学習をやめましょう」と言っても、すでに、学習の能力があるので、学習するのである。
暗いことに関しては、学習をやめる……自分にとって、都合が悪いときだけ、学習の能力をオフにする……そんな「きようなこと」はできないのである。もし、そんな「きようなこと」を無意識的にしてしまうなら、それはそれで、行動に問題がしょうじる。なんで、これがわからないのか?
まあ、ともかく、のび太のほうが「ジャイアンにあうとなぐられるかもしれない」と暗い考えをもったので、のび太が、ジャイアンになぐられるという暗いことが起こったと考えるのは、完全にまちがないのである。
なんで、なぐる主体である、ジャイアンの意志については、まったく考えないのか?
主体性をもったジャイアンという存在が、どうして、まったく、思考のなかに出てこないのか?
思考のなかに出てくるジャイアンは、まるで、のび太の操り人形だ。のび太の意思で動く、ロボットみたいなものだ。「ジャイアンが自分をなぐる」と、のび太が思ったから、ジャイアンがのび太をなぐった。ジャイアンの意思は、どこにあるのか?
ジャイアンには、主体的な意思があり、意思を実行したのである。 のび太の暗い考えが、ジャイアンをして、のび太をなぐらせたのではないのである。ジャイアンが、のび太を、なぐったのである。ジャイアンが意識的に、のび太をなぐったのである。ジャイアンの主体的な行為なのである。
まったく、わかってないんだよな。
のび太は、ジャイアンになぐられるまえは、ジャイアンになぐられるという暗い考えをもってなかったのである。実際になぐられたので学習した。それだけだ。
一回目、のび太がなぐられる前に、のび太は、「ジャイアンになぐられる」という暗い考えをもってないのに、ジャイアンになぐられたということは、どう説明するのだ?
暗い思霊主義理論では、説明できないことではないか。
思ってないんだぞ。
暗いことを思ってないのに、暗いことがしょうじた。
もちろん、のび太にとって暗いことだ。ジャイアンにとっては別に暗いことじゃないのである。ほんとうに、まったくなにもわかってない。