たとえば、のび太とジャイアンがいるとする。ジャイアンが、むしゃくしゃしていたので、たまたま見かけたのび太に、「おまえは気にくわないんだよ」と言ってなぐったとする。
ジャイアンが加害者で、のび太が被害者だ。自己責任論者というのは、こともあろうに、なぐられたのび太の責任を追及しはじめるのである。なぐったほうのジャイアンのことは、完全に無視して、責任を追及しない。
しかも、そういう態度が、おかしいとは思ってないのである。おかしいと思ってないところが、おかしい。
むしゃくしゃしていたので、のび太をなぐった。行為の責任を問うとするなら、当然、ジャイアンの責任を問うべきだ。
ところが、ジャイアンには、こびて、のび太の「なぐられた責任」を追及しはじめるのである。こんなのはおかしい。おかしいと思わないのがおかしい。
なぐられたからには、なにかのび太が悪いことをしたにちがいない…………こう考えてしまうのである。なぐられたからには、なぐられるだけの落ち度があったにちがいない……こう考えてしまうのである。のび太は、なぐられないように、できたはずなのに、結果としてなぐられたので、なぐられたということに関して、責任がある……こう考えてしまうのである。
ジャイアンが、のび太には関係がないことで、むしゃくしゃしていたから、のび太を見かけたときに、因縁をつけて、なぐったのである。
ジャイアンの主体的な行為なのであるから、ジャイアンに責任がある。
ジャイアンは、むしゃくしゃしていたとしても、のび太をなぐらないという選択ができたのだから、のび太をなぐったということに関して、責任がある。
どうして、ジャイアンの責任は問わずに、のび太の責任だけ問うことになるのだ?
おかしいとは、思わないのか?