ジャイアンが、ジャイアンの意思で動いているのだけど、あたかも、それをのび太の意思のように言うわけ。
ジャイアンは、ジャイアンの意思で動いているから、のび太が「ジャイアンが自分をなぐるのをやめる」という明るい考えをもったとしても、その考えに関係なく、なぐってくるわけ。
暗い思いは、実現化するけど、明るい思いは実現化しないなんておかしいとは思わないのか? のび太の思い……のび太の頭のなかにある考えとは、まったく関係なく、ジャイアンが行動をしているからこうなる。
別に、のび太の頭のなかにある「暗い考え」がジャイアンを動かしているわけではない。
のび太の頭のなかにある「暗い考え」を「明るい考え」にかえれば、ジャイアンの行動がかわるというのが、カルト思霊主義者の主張なのだ。のび太の頭のなかにあるジャイアンがなぐるので、実際のジャイアンがなぐる。のび太の頭のなかにあるジャイアンが、のび太をなぐるのではなくて、のび太の頭をなでると、実際のジャイアンがのび太の頭をなでるようになる。
カルト思霊主義者の主張にしたがえば、ジャイアンが、のび太の頭をなでるようになるのである。ところが、現実には、そうならない。
カルト思霊主義者の理論がまちがっているからだ。ジャイアンは、のび太の頭のなかにある考えとは、関係なく、ジャイアンの頭で考えて、ジャイアンがしたいことをする。
だから、のび太が「思っただけ」でジャイアンの実際の行動に影響をあたえるということはできない。不可能なのである。
ところが、なにか、神秘的な力によってそうなると、考えてしまうのだ。思霊主義者や思霊主義者に説得されてしまう人は、なにか、神秘的な力によってそうなると、考えてしまうのだ。
これは、幼児的万能感が、色濃く残っているからそう感じるだけだ。
頭のなかにある世界が、現実の世界にそのまま連動しているように、錯覚しているのである。頭のなかにあるジャイアンが、自分のことをなぐるのではなくて、なでるようになると想像すると、実際のジャイアンも、自分のことをことをなぐるのではなくて、なでるようになると信じ込んでいるのである。
あるいは、そういう希望をもっている。
しかし、それは、現実的ではない。
どうしてかというと、ジャイアンが、ジャイアンの考えにしたがって、行動しているからだ。ジャイアンは、のび太の操り人形ではないのである。頭のなかのジャイアンは、のび太の操り人形だけど、実際のジャイアンは、のび太の操り人形ではない。
だから、のび太が頭のなかで、ジャイアンが自分の頭をなでてくる「良いイメージ」を、どれだけ、繰り返し再生しても、実際のジャイアンにはまったく影響をあたえない。
ところが、幼児的万能感に支配されている人は、なにか、神秘的な力によって、頭のなかにあるジャイアンのイメージにあわせて、実際のジャイアンが、のび太の頭をなでるようになると思っているのだ。
繰り返しジャイアンがやることであれば、途中から見ている「思霊主義者」は、「ジャイアンが自分をなぐってくる」とのび太が思っているから、実際のジャイアンがのび太をなぐってくるのだと思ってしまう。
だから、のび太が、「ジャイアンが自分をなでてくる」と思えばよいのであるという主張を……思霊主義者がするのである。
のび太が頭のなかで「ジャイアンが自分をなでてくる」という「明るいこと」を考えれば、現実が、それにあわせ、明るいものになるのだから、それで、問題が解決するのである。
頭のなかにあることが、神秘的な力によって、現実化されるというカルト理論にしたがえば、そうなるのである。
ところが、実際には、どれだけ、のび太が「明るいこと」を考えても、ジャイアンが自分をなぐってくるという暗いことが発生してしまう。
そうなると、思霊主義者は、こともあろうに、「のび太の思い方が悪いのだ」とのび太のせいにしてしまうのである。ほんとうは、自分のカルト理論がまちがっているのである。ほんとうは、思霊主義者の現実認識がまちがっているのである。
ところが、思霊主義者は自分のまちがいを認めたくないので、「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言いはじめるのである。なので、のび太は、ジャイアンになぐられ、さらに、思霊主義者からは「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言われることになるのである。
これは、のび太にとっていいことではない。
思霊主義者の登場で、「やっかいごと」が、さらに増えてしまう。思霊主義者は、実際にはのび太の負担を増やしているのに、のび太に対して、いい助言をしてやったつもりでいるのである。明るい思霊主義者が、暗いことを増やしている。すでに不幸な人の、負担を増やしている。
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のび太のことをせめる思霊主義者が、同時に自己責任論者である場合もあるのだ。思霊主義者であって、自己責任論者である人はいる。しかし、自己責任論者が「のび太の思いがうまく現実化されないこと」に責任を感じるかというと感じないのである。 「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言って、のび太の責任にしてしまう。
自己責任論者は「すべては、自己責任」と言うけど、自分の理論がまちがっていることについて、気がつかなければ、自分の理論がまちがっているからこそしょうじる結果について、まったく責任を感じない。
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人によって、条件がちがうのだけど、条件のちがいというのを、精神世界の人たちは、ガン無視するのだ。精神世界の人たちだけではなくて、この世の普通の人が、条件のちがいをガン無視してしまう。実際には、条件のちがいがつくりだしている「格差」であるかもしれないのに、条件のちがいは無視して「努力の差」や「明るいことを思うか、暗いことを思うかの差」にしてしまうのだ。
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本当は、自分の提案……「明るいことを考えれば明るいことが起こるので、ジャイアンがなぐってくるとは考えないで、ジャイアンがなでてくると考えればいい」という提案が、非・現実的なのに、うまくいかないと、のび太のせいにしてしまうのである。それで、「すべては、自己責任だ」と言う。