きちがい的な意地でへんなものをおしつけて、相手がこまっているということを、きちがい的な意地でガン無視するというのは、きちがい親父の思考回路として普通にあることなんだよ。
特別なときに、特別に発生するようなことじゃないんだよ。
常にそうなんだよ。常に、こっちがこまる「こと」を、きちがい的な意地でおしつけてきたり、常に、こっちがこまる「もの」を、きちがい的な意地でおしつけてくる。きちがい的な頭の回路が、そうさせている。
で、きちがい的な頭の回路というのは、常に、そういうふうに機能しているんだよ。きちがい親父が、きちがい兄貴に、使えないハンダゴテをおしつけたというのがあるのだけど、それも、構造としてはまったくおなじなんだよ。
普通に使えるものを買ってやるということができなかった。だから、「使えない」ということを認めないのである。この認めないときの、発狂と、意地が、すごいのである。
へんな帽子をおしつけるときも、自分がゲットした帽子だから、「へんな帽子だから、かぶりたくない」と言われたら、発狂する。相手……この場合、俺が、そういうことで、どれだけはじをかくかわかってない。
ようするに、俺が、きちがい親父に負けて、かぶらされた場合、ほかの人たちは、俺が、「その帽子はへんだ」ということがわかってないから、かぶっていると、これまた、自動的に解釈してしまう。
ハンダゴテのことだって、きちがい兄貴が、学校にその、使えないハンダゴテをもっていけば、きちがい兄貴がバカだから、そのハンダゴテが使えないということを理解できないのだと、思ってしまうのである。だから、「そんなの(そのハンダゴテ)が使えないって、わからないのかよ」と言われてしまうわけ。
いや、わかっている。わかっているけど、きちがい親父が認めないから、しかたがなく、学校にもってくることになった。
この、不格好なへんなハンダゴテが使えないということはわかっている。それを、きちがい親父に、発狂して、何回も何回も、説明した。
けど、きちがい親父が、発狂して、何回も何回も「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」と絶叫するのである。この絶叫……「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」という絶叫は、ネズミ対策工事をしようと言われたときの「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」という絶叫とおなじなんだよ。
構造的には、おなじ部分なんだよ。言葉の内容がいれかわっているだけで、そこで成り立っていることは、おなじなんだよ。
この「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」という絶叫は、酒糟のついた魚を出しっぱなしにしているので、部屋中が、くさくなっていると言われたときの「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」という絶叫とおなじなのである。構造的には、おなじ部分なんだよ。言葉の内容がいれかわっているだけで、そこで成り立っていることは、おなじなんだよ。
帽子の場合……俺→「へんな帽子だ」ということがわかっている。友達→「へんな帽子だ」ということがわかっている。親父→「へんな帽子だ」ということがわかってない。絶対の意地でへんじゃないと言って、へんな帽子だということを認めない。親父→「へんな帽子だと、友達に言われて、こまった」ということが、まったくわかってない。親父→「自分が意地をはって、息子に、帽子をおしつけた」というとが、まったくわかってない。
友だちのまえで、俺がはじをかく(親に強制されたことで、子供がはじをかく)ということが発生する。友だちは、エイリ君は、その帽子がへんな帽子だと認識できなかったと思うわけ。エイリ君は、その帽子がへんな帽子だということがわからずに、へんな帽子をかぶっていたわけで、エイリ君はファッションセンスがないと思ってしまう。
もっと、端的に言うと「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのは、へんだ。バカだ」と思うわけだ。エイリ君は「へんな帽子をかぶっていて、はずかしく思わないようなセンスをしている」と友達のほうは思うわけだ。
俺は、「へんな帽子だ」と思っていた。「へんな帽子をかぶって、はずかしいと思っていた」という気持がある。普通の家の子供だと、「へんな帽子だからかぶりたくない」と言えば、親が納得して、もうかぶせようとしない。けど、うちは、ちがう。もう、小さいときから、こういうことが何回も何回も発生してしまうのである。
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ハンダゴテの場合……兄貴「このハンダゴテは使えない」「不格好な、はずかしいハンダゴテだ」ということが、わかっている。
友だち……「このハンダゴテは使えない」「このはんだごてが使えないということがわからないなんて、バカだ」。
兄貴→「このはんだごてが使えないということはわかっている。だから、父親にさんざん使えないということを言った」。
友だち→「大人の人が、このハンダゴテは使えないと言われたのに、それを理解しないなんてことはない。大人なのだから、理解できるに決まっている」。
技術科の先生→「おまえ(兄貴)の説明のしかたが悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」。兄貴→友達や先生に誤解されて、くやしい思いをする。家に帰って、親父が帰ってくるまで待って、きちがい親父に「やっぱり、ハンダゴテは使えなかった」と言う。
きちがい親父→「使える!!!使える!!!使える!!!使える!!!」。兄貴→「使えないんだよ。使えないということがわからないのかと、友だちにばかにされた」。
きちがい親父「なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!使える!!!使える!!!使える!!!使える!!!」……。
きちがい親父の「みとめないがち」。絶対に、認めない。
きちがい親父が認めなかったら、きちがい親父の頭のなかでは、「ハンダゴテは使える」という認識のままなんだよ。
きちがい親父は、きちがい兄貴(自分の子供)が、自分のおしつけたもので、友だちにばかにされてくやしい思いをしたということが、まったくわからないんだよ。認めないんだよ。きちがい親父の「みとめないがち」。絶対に、認めない。きちがい親父が認めなかったら、きちがい親父の頭のなかでは、「自分がおしつけたもので、自分の息子が、息子の友達にバカにされたということは、発生しなかった」という認識のままなのだよ。
あったってないことになっている。本人が(親父が)そのことにかかわっているという認識がない。そのことというは、自分が(親父が)おしつけたもので、こどもが、こどもの友達からバカにされたということだ。
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ちなみに、「その年で働いてないなんておかしい」と言った人は、「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのか」と言った友だちと、おなじレベルの思考方法なのである。きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音をきちがい的な意地で鳴らして、俺の通勤できる力をうばったから、通勤できないんだということを言ったあとに、九八%の大人は、そういう反応だ。
「できなくなる」ということがわかってないだけだ。
「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのか」と言った友だちは、うちの親父が、認めないということがわかってないのだ。親父がかぶせたということを言ったあとに、そういうことを言う。「大人が、へんな帽子だということがわからないわけがない」という前提思考があるのだ。
ハンダゴテだって、「そのハンダゴテが使えないということを、大人がわからないわけがない」という前提思考があるのだ。「そんなにでかい音で、お兄さんが、ヘビメタを鳴らして、どれだけ言ってもやめてくれないというのはおかしい」という前提思考があるのだ。「本当にでかい音で鳴らしていたなら、でかい音で鳴らしているということがわかっているはずだ。
「でかい音で鳴らしているということを認めないなんていうのはおかしい」という前提思考があるのだ。だから、エイリさんがへんなことを言っていると思ってしまうのだ。