たとえば、ものすごく有名なプロゴルファーが、『相手が、パットを打つとき、はいれと思う』ということについて語ったとする。
ようするに、相手のボールがカップにはいるように念じるということだ。自分のボールがカップにはいるように念じるというのは、普通の人がやっていることだ。
けど、その、ものすごく有名なプロゴルファーは、「相手のボールがカップに入るように念じる」と言うのだ。
こういうタイプの「ちょっといい話」というのがあるのだ。
「一流の人はちがう……」と普通の人がうなるようなことを言う。
けど、相手が、パットを打つとき、その、ものすごく有名なプロゴルファーが、『はいれ』と思ったかどうかわからない。嘘を言っているかもしれない。
けど、いちおう、普通の人は、こういう話は信じるので、実際に、その有名なプロゴルファーは、相手が、パットを打つとき、『はいれ』と思うということにしておこう。
毎回、相手が打つとき、「はいれ」と思う……。なかなかできることじゃない。
毎回だからね。「はずせ」と思うときも、本当は、あるかもしれない。
「はずせ」と思わないのは、これまた、潜在意識がかかわっていて、「はずせ」と一度でも思うと、自分がはずすことになるという理論につながるのである。
潜在意識は『相手』と『自分』の区別ができないので?「はずせ」と一度でも思うと、自分がはずすことになってしまうのである。
なので、相手に対しても、一度も「はずせ」と思わず、毎回「はいれ」と思うことにしているというような話に、最初の話はつながる。
つまり、「相手も自分も区別せずに、常に『はいれ』と念じている」とそのプロゴルファーは言うのだ。
一度でも、「はずせ」と思うと、それが、影響して、自分がはずすことになる……こういう、カルト思考だ。
けど、プロゴルファーが、本当にそんなことをいつも、毎回思っていると思う?
相手が、打つときのことは、ガン無視して、自分が打つときのことだけを考えて、自分が打つときは、かならず、うまくいくというプラスのイメージをもつことにしているというのであればわかるけど、それは、相手のことを考えない場合の話だ。
相手の話が出てきてしまっている時点で、おかしいとは、思わないのか?
一度でも、「はずせ」と思うと、それに支配されてしまう。一度でも、「はずせ」と思うと、それに支配されてしまうということを知っている。
なら、どうやって、プロになったのか?
「はずせ」と思うと、それに支配されてしまうということを知っているのだから、そう思ったことが、一度は、あるのだ。そして、それに支配されて、はずすようになったことがあるはずなのだ。
「一度でもはずせと思うとはずすことになる」という効果は、いったいいつまで続くのか?
ずっと続くのであれば、それ以降は、はずすことになるので、プロにはなれない。
じゃあ、プロゴルファーじゃなくて、プロテニスプレーヤーだとどうか?
相手のボールが、自分のコートの内側に着地すればいいと思うのか?
自分が打ち返すことができないと、相手の得点になるエリアに、相手のボールが着地したほうがいいと思うのか?
一度でも、相手の得点になる部分に、ボールが着地しないことを願うと、その願いが、潜在意識に影響して、自分のボールが自分の得点になる、相手のエリア……に着地しないようになるのか?
* * *
「はずせ」と思ったかどうかが、すべてを決定してしまうような思考になっているけど、実際には「はずせ」と思ったか、あるいは、「はいれ」と思ったかということは、たくさんあることのうちの、ひとつにしかすぎない。
そのまえに、いろいろと条件が成り立っているのである。
たとえば、その有名なゴルファーは、小さいときから、ゴルフをやっていたのである。
小さいときから、ゴルフができる環境のなかで、育った人なんて、どれだけいるんだよ?
親がゴルファーだとか、親がすごい金持ちなら、こどもに小さいときから、ゴルフをさせることができるけど、普通の親は、こどもに小さいときから、ゴルフをさせるなんてことはできない。
もう、うまれた時点で、小さいときからゴルフができる環境と、小さいときからゴルフができない環境にわかれている。
その有名なプロゴルファーは、小さいときから、ゴルフが、できる環境のなかで育った……。これだけで、有利な条件をもっていたということなのである。
条件に差がある。
中年になってから、ゴルフを始めた人が、「はいれ」と思うか「はずせ」と思うかということは、この条件の差にくらべたら、たいした差ではないのである。
相手がパットをしたとき、自分が「はいれ」と思うか、自分が「はずせ」と思うかの差だから、重要な行為の主体は、自分ではない。
相手がパットをするときに、はずすかはずさないかということは、相手が決めることだ。
相手がうまくやれば、はいるし、相手がうまくできなければ、はいらない。
なので、『自分』が思うかどうかの、魔法的な力は、相手には及ばない。
ガンリョクを飛ばして、はいるはずのボールをはずすとか、ガンリョクを飛ばして、はいらないたまをはいるようにするということはできない。
ガンリョクというのは、いちおう、目のチカラということにしておく。超能力者ではないからできない。
ところが、ただひとつ、自分が「はいれ」と思うかどうか……自分が「はずせ」と思うかどうかが、強烈に、勝負の結果に影響をあたえるのである。
こんなのはない。
一度でも「はずせ」とネガティブなことを思うと、そのネガティブなことが、魔法的な力によって、あるいは、潜在意識によって、自分に影響を与え続けて、ずっとずっとずっと、はずすようになってしまうのである。
ならば、どうやって、プロの選手になったのか?
はずして、プロの選手になれないのではないか。
「はずせ」と思うと、自分もはずすようになるというのであれば、一度は、はずせと思ったわけなのである。
まあ、ともかく、中年になってから、ゴルフを始めた人と、小さいときからゴルフを始めた人のあいだには、環境の差が、まずある。
ゴルフで勝つ……。才能が必要だろ。才能のなかには、身体能力がはいっているとする。
ゴルフをやってきた期間の長さ……。小さいときから、ほかの子供に、ゴルフの勝負で勝ってきたという、経験……。こういうものを全部無視して、「はずせ」と思うか、「はいれ」と思うかだけが、「はいるかどうか」に影響をあたえていると言うのである。
相手が打つとき、自分が「はずせ」と思うか、「はいれ」と思うかは、この話の焦点になっている。焦点になってること以外は、まるで、自分の勝敗に影響をあたえないような印象をあたえる。
そういう話になっている。
けど、小さいときからゴルフをやれる環境だったんでしょ!
おなじように、そういうレアな環境のなかにいる子供のなかで、ほかの子供よりも、ゴルフの才能があるから、ほかの子供に勝ったんでしょ。ときにはまけたかもしれないけど、プロを目指せるほどの才能があったんでしょ。そこらへんの人とはぜんぜんちがうじゃないか。
中年からゴルフを始めた人が、相手がパットを打つとき「はずせ」と思ったことがある。だから、その中年は、ゴルフの試合でまけ続けるのか?
ちがうでしょ。
その中年にゴルフの才能がなく、ゴルフをする時間も短いから、まけるんでしょ。
まるで、相手がパットを打つときに、その中年が「はいれ」と思えば、その中年が、ゴルフで勝てるような話になっている。
どうしてかというと、こころがけの問題になってしまっているからだ。
相手がパットを打つとき「はいれ」と思うような、こころがけのいい人は、最終的に試合に勝って、相手がパットをするときに「はいるな」「はずせ」と思うようなこころがけの悪い人は、最終的に試合にまけるというような話になっているからだ。
いやー……。相手がパットを打つときに「はいるな」「はずせ」と思ったとしても、試合に勝てる場合はあるでしょ。相手がパットを打つときに「はいれ」と思っても、試合にまける場合はあるでしょう。
どうして、「はいるな」「はずせ」と思うような性格の悪い人は、勝負に勝てず、「はいれ」と思うような性格がいい人は勝負に勝てるという話になっているのか?
* * *
これも、一種の洗脳なんだよ。こういう話の一番、重要なところは、『条件を無視する』ということだ。条件を無視させたいのである。所与の条件ではなくて、こころがけが、結果を決めると、嘘の話をでっちあげて、普通の人にそう思わせようとしているのである。
普通の人は、感心している場合じゃないのである。彼らが、普通の人をどこにつれていこうとしているのか、感じとらなければならない。
ほんとうは、条件が重要なのに、「こころがけ」の話になっている。まけているやつは、相手がパットを打つときに「はずせ」と思うような悪い性格をしているから、まけているのだ……という印象をあたえようとしている。勝っている人は、相手がパットを打つときに「はいれ」と念じるようないい性格をしているから、勝っているというような印象をあたえようとしている。
* * *
「はいれ」と念じると、はいって、「はずれろ」と念じると、はずれる……ということは、じつは、言ってない。けど、あたかも、そのように言っているような効果がある。「はいれ」とか「はずれろ」というのは、相手に対する自分の行為なのである。
パット自体は、相手の行為なのである。自分がパットをするときに、はずれるようになるという話なのだから、実際には、念じるかどうかは、相手のパットには影響をあたえない。
その行為が、影響をあたえるのは、自分のパットなのである。
だから、物理的なことには影響をあたえず、自分の精神に影響をあたえるということになっている。
自分の精神に影響をあたえるから、自分の行為(パット)に影響をあたえるということになる。念じることが、物理的に直接、パットに影響をあたえているわけではないのである。
ところが、あたかも、自分が「はずれろ」と念じると、相手がパットをはずすというようなことが、話の前提になっている。なので、そういうふうに言ってはいないのだけど、なんとなく、そういう話をつたえてしまう。
幼児的万能感が強い人は、ただ、間接的に言われただけでも……つまり、前提にそういう話があることを言われただけでも、そうなのだと確信してしまう。自分の気持ちが、外界に直接影響をあたえるという考え方を強化してしまう。
* * *
自分は、相手がパットをするとき、「はずせ」と思ったことがあるので、人間としてまだまだだ……と思ってしまうのである。一流の人は、「はずせ」と思わず「はいれ」と思う。
プロゴルファーになれるのかどうかということは、そういうことが影響していると思ってしまうのだ。ところが、プロゴルファーになれるかどうかというのは、環境が影響している。
たとえばの話だけど、そのこころがけのいいプロゴルファーとおなじだけの才能をもっていた人がいるとする。けど、その人は、ゴルフができるような環境にうまれなかった。生涯で一度も、ゴルフをしたことがない。
そういう人が、プロゴルファーになれるのか?
なれない。
小さいときからゴルフができるような裕福なうちの子供としてうまれた……。ゴルフなんて、まったく縁がない普通のうちの子供として、うまれた……。おなじ才能があったとしても、結果はまったくちがってくる。
これは、こころがけの問題じゃない。
相手がパットを打つときに、自分がどう思うかの問題じゃない。
ところが、環境の差は、ガン無視して、相手がパットを打つときに、自分がどう思うかの問題にしてしまうのである。つまり、こころがけの問題にしてしまうのである。
なんで、環境をガン無視するのか?
環境というのは、条件の複合体だ。環境を無視するということは、条件を無視するということなのである。
生まれながらの条件の差は、なんだろうが無視して、ちょっとしたこころがけの差が結果を決めるということになってしまっている!
条件の問題が、こころがけの問題にシフトしてしまっている。
条件の問題が、こころがけの問題にすりかえられている。
才能の差というのは、いってみれば、個体の「条件の差」だ。個体の「条件の差」は、結果に大きな大きな、影響をあたえる。ところが、個体の「条件の差」を無視して、「こころがけ」の問題にしてしまう。これは、努力論でも、説明したことだ。
才能があるのかどうかという差と、うまれた家の差と、どっちが重要なのかというと、じつは、うまれた家の差のほうがより重要だ。
これは、環境か才能かという問題なのだけど、けっこう説明するとなると、むずかしいことなのだ。
才能には幅があって、環境がそれをおしだすというようなイメージが一番、現実をうまく説明できる。これは、むかし、書いたのだけど、公開しなかった投稿のなかで、説明している。
プロゴルファーになるような才能があったとしても、ゴルフができるような環境がなかったら、プロゴルファーにはなれない。こういう点では、環境のほうが重要だ。
ならば、プロゴルファーになるほどの才能がない人が、めぐまれた環境のなかで、ゴルフの練習をするとプロゴルファーになれるのかというとなれない。こういう点では、才能のほうが重要だ。
両方をうまく説明できるモデルが、ぼくの頭のなかにある。
* * *
Aさんと、Bさんがテニスの試合をしているとする。Aさんが、ボールを打って、Bさんのコートにボールが着地した。着地した瞬間、Bさんが「はいれ」と思った。着地したあと、ボールがはずんで、Bさんのまえを通過した。Aさんに得点がはいった。その結果、Bさんが勝った……。
こんなのはおかしいだろ。
Aさんが打ったボールを、Bさんが「はいれ」と念じたから、Bさんが勝った。Aさんが勝ったならわかるけど、Bさんが勝つのだからおかしい。
逆に、Bさんが「はいるな」と思えば、Bさんが負けるのである。
Aさんが打つとき、Bさんが、「はいれ」と思うと、Bさんが勝って、Aさんが打つとき、Bさんが「はいるな」と思うと、Bさんがまける。Aさんが打ったボールが、Bさんのコートに着地するときの話だ。
おかしいだろ。
Bさんが一度でも「はいるな」と思うと、それが潜在意識に影響をあたえ続けて、それ以降、Bさんが打つときも、Bさんのボールが、Aさんのコート(Bさんの得点エリア)にはいらなくなってしまうというのが、こういうことを言う人たちの理論だ。
いや、普通に、Bさんが「はいるな」と思ったあとも、Bさんは、自分のボールをAさんのコート(Bさんの得点エリア)にいれようするでしょ。そして、実際、いれられる。
潜在意識の影響をうけないまま、勝つための行動をするでしょ。そうじゃないと、試合が成り立たない。
Aさんも、Bさんも、プロのテニスプレーヤーだとする。Bさんはどうやって、プロになったんだよ?
試合に勝ってきたから、プロになったんでしょ。相手のコートにボールをぶち込んできたから、プロになったんでしょ。何回も何回も試合のとき「はいるな」と思ってきたんでしょ。ようするに、相手のボールが自分のコート(相手の得点エリア)にはいらないでくれ、と思うことは、何回も何回もあったはずだ。
けど、普通に、そのあと試合を続けている。「はいるな」と一回、思ったから、そのあと、自分が相手のコートにボールをいれられなくなった……。これじゃ、まけてしまうわけだ。勝てない。
相手のボールが自分のコートに「はいるな」と思ったあとも、普通に試合を続けている。
ようするに、相手のコートに自分のボールをいれたということだ。
「はいるな」と思ってしまった、のろいのようなものは、発生してない。「はいるな」という言葉をこころのなかで言ったことによってしょうじる潜在意識の影響をうけずに行動している。
「はいるな」と思ったから、自分のボールもはいらなくなる……ということは、発生しなかった。一度でも、相手のボールに対して、はいるなと思うと、自分のボールがはいらなくなる……カルト思考だ。相手のボールというのは、相手が打ったボールということだ。
だいたい、「潜在意識は自分と他人の区別がつかない」とか「潜在意識は、主語を区別しない」とかというような前提がおかしい。
けど、これ、精神世界の話では、よく出てくる話なんだよ。似非科学なのだけど、科学的実験で確認されたというようなことが、語られる。
だから、精神世界の話をする人にとっては、これらは、正しいことなのである。これらというのは、「潜在意識は自分と他人の区別がつかない」とか「潜在意識は、主語を区別しない」とかということだ。
* * *
相手がサーブを打つとき、相手のボールが自分のコートにはいれと、念じるから、プロのテニスプレーヤーになった。相手がサーブを打つとき、相手のボールが自分のコートにはいるなと念じたから、自分がサーブをするときも、相手のコートにいれられなくなって、相手ににまける。……こんなの、おかしいでしょ。
テニスにしたって、環境がある。小さいときからテニスをやれる環境とやれない環境がある。特殊な人は、高校生ぐらいから、テニスを始めて、プロになれるかもしれない。
けど、たいていのプロは、小さいときからテニスをやってきた連中だよ。
これも、才能とか環境といった、特別に重要なことは無視して、「相手のボールが自分のコートにはいるなと念じた」かどうかということが、勝ち負けを決めると言うのか?
だいたい、たとえば、精神世界の人だって、すごい人が(謙虚なこと)を言ったから、すごいと思っているだけだ。精神世界の人がテニスをやっていたとして、自分よりへたくそなやつが、「相手のボールが自分のコートにはいれと(自分は)念じるんですよ」と言ったら、どう思うのか?
精神世界の人だって、「こいつは、あほだ」と思っておしまいだろ。精神世界の人だって、感心しない。精神世界の人だって、「そんなことを言っているからおまえは弱いんだよ」と思っておしまいだ。
特別にうまい人が、普通の人が言わないようなことを言うから、すごいと思うだけなんだよ。自分よりへたくそな人が、普通の人が言わないようなことを言ったら、どう思うんだよ?
特別にうまい人が、謙虚なことを言うから、すごいと思うだけなんだよ。自分よりへたくそな人が謙虚なことを言ったら、どう思うんだよ?
精神世界の人も、普段は、そういうレベルの思考しかしてない。ようするに、自分を中心とした、相手の立場というものが、暗黙知のように作用して、「判断」に影響をあたえているのだ。
そして、こういう「いい話」は、立場の比較優位、立場の比較劣位ということを無視している。「いい話」が成り立っている条件というものがある。それを語っている人がだれなのかということも、重要な条件のひとつだ。
現実の場面では、じつは、自分を中心とした比較優位と比較劣位の関係が成り立っていて、その関係が(主体者)の判断を決めてしまうところがある。主体者の判断というのは、ようするに、自分の判断ということだ。感想とか考えとかそういうものは、じつは、その場面にうめこまれた、さまざまな関係の影響をうける。
いっぽう、話を聴く場合は、「話を聴く」という意味で、 さまざまな関係の影響をうけている。しかし、話のなかの人物関係は、抽象的に固定されている。なので、その話の内容を現実の場面に適応しようとしても、なかなかうまくいかないということになる。
これは、予想に反して、じつは、「そういうことにならない」ことが多いということだ。
「いい話」を聴いて、感動したことを、実際の場面で実行すると、話通りにはならないことが多い。「いい話」をする人は、積極的に、環境や才能を無視して、へんな現実について空想的なことを語る。
そして、「いい話」のなかの固定された人間関係に対する主体側の抽象的な認知と、実際の人間関係に対する主体側の現実的な認知はちがうので、その点でも、話通りにはならないことが多い。