たとえば、水銀で水俣病になった人が、「くるしい」と言ったとする。この場合、「くるしい」と言うことは、愚痴を言ったことになると判断する人たちがいる。けど、愚痴かどうかは、わからない。あるいは、水銀で水俣病になった人が、「企業の無責任な対応に腹がたつ」と言ったとしよう。この場合、「くるしい」と言うことは、不満を言ったことになると判断する人たちがいる。けど、不満を言ったのかどうかわからない。問題なのは、「愚痴」と判断されることを言うことで、社会の全体的な不幸度が増すのかどうかだ。あるいは、社会の全体的な不幸の量が増すのかどうかだ。もうすでに、その人にとっては、不幸なことが起きているのである。そして、この場合は、加害者がいることなのである。不幸になる原因をつくったものがいることなのである。ようするに、そういう構造……が成り立っているのであれば、社会的な不幸の量を増大させているのは、加害者のほうであって、被害者のほうではないのではないかということだ。被害者のほうが、くるしいと言った場合、愚痴を言われたと感じる人たちがいる。この人たちは、愚痴を言われたと感じたのだから、自分のなかでは不幸の量が増えたということになるのである。けど、考えなければならない社会的な問題について告発してくれたと考える人は、別に、不幸の量が増えたとは感じない。むしろ、シャイ的な問題について告発してくれたことで、不幸の量を減らすきっかけをくれたと思うのである。
それから、これは、ちょっと横道にそれるのだけど、「すべては受け止め方の問題だ」というようなことを言う人たちがいる。ぼくは、「すべては受け止め方の問題だとは言えない」と考えているのだけど、ともかく、「すべては受け止め方の問題だ」と言い切る人たちがいる。もし、この人たちが、「愚痴を言う人がいると、社会全体の不幸の量が増す」と言うのであれば、「それこそ、自分の受け止め方をかえて、愚痴を言われたと思わなければいい」と、ぼくはこの人たち言ってやりたくなる。「愚痴を言われた」と思わずに、「社会の不幸量を減らす、いいきっかけをくれた」と思えばよいのである。「すべては受け止め方の問題」なのだから、そうなる。