日光量一のタネが「日光量が一だから、自分は一しか伸びない」「日光量にめぐまれていないから、自分はここまでしか育つことができない」と言ったら、平凡なタネはどう思うか? 「そういうネガティブなことを言うから、一しかのびないんだよ」「不平不満を言うからダメなんだよ」と思うのだ。日光量一〇のタネが「日光量が一〇だから、自分は一〇までのびることができた」「日光量にめぐまれていたから、自分はここまで育つことができた」と言ったら、平凡なタネはどう思うか? 「さすが、すごいタネは、言うことがちがう」「さすが、えらいタネは、謙虚だ」と思うんだよ。けど、日光量に関しては、どちらも正しいことを言っているのである。
条件を無視して、まちがった前提に立ったことを言う人は、無理難題を吹っ掛けて、おいつめるようなことしかしてない。条件が悪い人をおいつめている。洗脳されちゃっているんだよ。条件を無視するように洗脳されているんだよ。そして、幼児的万能感を利用されている。幼児的万能感はだれにでもある。「濃さ」はちがうけど、だれにでもあるのだ。だから、だれもが、利用される「下地」をもっている。
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特に、自分の内面が、そのまま外面に影響をあたえるというタイプの万能感は、社会にとって、よくない。「思ったとおりになる」とか「言ったとおりになる」ということだ。『自分が』思ったとおりになるといったタイプの思い込みだ。『自分が』言ったとおりになるといったタイプの思い込みだ。
ほかの人も、同等の存在であるということを、根本的に無視している。
相手が思っている世界が現実化してしまったらどうなんだ? 幼児的万能感によって、自分が思っている世界が現実化すると思っているのである。そして、相手が思っていることは、自分が思っていることと対立しないと思っているのである。ほんとうに、幼稚。幼児的。
自分が内面的に思っていることが、外界にそのまま影響をあたえて、外界が、内面的に思っている通りになる……という感覚があるわけだけど、これは、やっかいだ。ほかの人も、自分が思ったとおりに行動するという、前提がある。そりゃ、他人だって、外界の一部でしかないわけだから、そうなる。
現実化するというのも、けっきょくは、そういうことだ。自分の内面が、そのまま現実化するのである。
どういう力によって現実化するのかというと、超自然的な力によって現実化するのだ。
ところが、超自然的な力は……本当のことを言っちゃえば……ない。ない力があると思っている。
だから、「他人に助言する場合」は他人もそういう力をもっているという前提があるのだけど、その前提に対する認識が、これまた、欠けているのである。外界の出来事は、超自然的な力の影響をうけず、自然的な力の影響をうけているのである。
だから、内面的に思ったことが、超自然的な力によって現実化されるということがないのである。
思ったことが、思ったあとに、自然的な力によって現実化されることはある。けど、これまた、一度でも、思ったあとに、自然的な力によって現実化されることが発生すると、超自然的な力によって現実化されたと思ってしまうのである。
ほんとうは、「思ったあと」なんだよ。思ったからではなくて、思ったあとなんだよ。ほんとうは、超自然的な力でそうなったのではなくて、自然的な力でそうなったんだよ。
ほんとうは、自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させたわけではないんだよ。ところが、自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させたと思ってしまう。自分はそういうことができると思ってしまう。自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させることができるという前提の話というのは、無理がある話なんだよ。
そういう前提の話というのは、『自分』というのが、『他人』に置き換わっているわけだけど、実際に起こらないこと(実際には発生しないこと)が前提になっている話なんだよ。これが、助言として語られた場合は、相手に無理なことをおしつけるということになってしまうんだよ。