たとえばの話だけど、ヘビメタ騒音を経験してないにしろ、ぼくと同等の苦労をした人が、言霊や思霊や引き寄せや発言をするはずがないのである。そういうものを基礎にした発言をするはずがない。
どうしてかというと、言霊や思霊や引き寄せが、まちがっているということが、身にしみてわかっているからだ。
ぼくと同等の苦労をした人が、そういう発言にこだわっていると……それが正しいと思っていると、自殺するしかないのだ。自殺せずに、生き残っているということは、言霊や思霊や引き寄せが、まちがっているということが、身にしみてわかっているということだ。
言霊や思霊や引き寄せだけでなく、努力論がまちがっているということにも気がつくはずなのだ。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論について語る人は、語る人が、どれだけ「自分だって苦労した」と言ったって、その苦労というのは、言霊、思霊、引き寄せ、努力論まちがっているということが、身にしみてわかっている人が経験した苦労とは、ぜんぜんちがう苦労だ。質的にちがうのである。
こればかりは、だれでもが、身にしてみてわかるとしか言いようがない。わかってないということは、ぼくと同等の苦労をしてないということなのである。
ぼくと同等の苦労をして、なおかつ、生きている人は、絶対に、どんなことがあっても、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提で、ものを言ったりしない。
言葉で説明することができるかどうかは別にして、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しくないということが、身にしみてわかっているので、そんなことは口にしない。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提に立った発言をしない。
ぎりぎりのところまで、追いつめられて、そういうものが、嘘っぱちだということが、うまく説明できるかどうかは別にして、わかっている。わからないわけがないだろ。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているのは、こころに余裕があるからなんだよ。ようするに、まちがいに気がつかないだけの余裕がある。
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言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っている人たちが先兵になってしまうのである。あるいは、全軍の兵になってしまうのである。悪魔のくそ洗脳で、凡人が、くそ凡人になってしまうのである。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人が、特別に条件が悪い人のことを、取り囲んで、言葉の槍で刺すのである。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人が、特別に条件が悪い人のことを、取り囲んで、言葉の矢をはなつのである。凡人が悪魔の洗脳によって、くそ凡人になって、特別に条件が悪い人を攻撃する。
もう、くそ凡人になった人は、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提を疑わない。いいことをしていると思っている。
けど、ほんとうは、特別に条件が悪い人に攻撃をしているだけだ。
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たとえば、言霊理論が正しいと思っているのは、たいした苦労をしてないからなんだよ。言霊理論が正しくないということを思い知らされるような苦労をしてないからなんだよ。
条件というものを無視して考えるように、悪魔がしむけているのである。悪魔のいい話にも、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人の話にも、条件がでてこない。条件の格差は、無視されている。あるいは、「多少は影響をあたえるかもしれないけど、大きな影響は与えない」というような但し書きで、過小評価されている。条件の格差と、条件の格差がもたらす影響については、「ない」か、あるいは、「あったとしても、ない」のと同じだということになっているのである。条件の格差は、ないこととして無視される。そして、ないこととして無視されるということも、無視される。