たとえば、「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」と会社の社長が言ったとする。そして、みんながガンガン熱心に働いて、有機水銀をガンガン海に流したとする。有機水銀を含んだ汚染魚を食べた人が、水俣病になったとする。
水俣病になった人が「くるしい」と言ったとする。
それに対して、部外者のAさんが、「愚痴を言うと、不幸の量が増すから、愚痴を言わなければいい」と言ったとする。
しかし、この発言は、すでに、有機水銀がたれながされ、社会的な不幸の量が増したあとの発言なのである。
明るいことを言って、ガンガン、生産活動をするということが、副産物として、社会の不幸の量を増したのである。
「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」という言葉が明るい言葉なのか、暗い言葉なのかと言えば、明るい言葉であるという印象をうける。たぶん、みんなそう考えるだろう。
「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」という言葉のなかに、暗い要素を見出すのは、むずかしいことだ。
もちろん、有機水銀を出す活動をしなければいいということになるのだけど、含む・含まれるの関係を考えると、経済活動のなかに、有機水銀を出すタイプの経済活動が含まれると考えるべきなのだ。
ようするに、特に、「有機水銀を出す活動は、含まれない」ということを述べるのでなければ、有機水銀を出す経済活動は、経済活動の中に含まれている。
「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」という言葉のなかには、「有機水銀を出さないようにするのであれば」というような言葉は含まれてない。
なので、「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」という言葉は、抽象度が、ある程度高い言葉なのである。熱心に働くかどうかというような条件以外の条件については、一切ふれられていない。
たとえば、ネガティブかポジティブかということを考えた場合、「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」という言葉は、ポジティブな言葉だということになる。
そして、たとえば、「くるしい」という言葉が、ネガティブかポジティブかということを考えた場合、「苦しい」という言葉は、ネガティブな言葉だということになる。
しかし、「くるしい」というネガティブな言葉が、有機水銀を出すタイプの経済活動をうみだして、結果的に、社会的な不幸の量を増大させたわけではない。
むしろ、「みんながガンガン熱心に働けば、みんなが豊かになる」というポジティブな言葉が、有機水銀を出すタイプの経済活動をうみだして、結果的に、社会的な不幸の量を増大させたのである。